第十二章 物語
ドア一枚を隔てても、呼び鈴の音ははっきりと秋穂の耳にとどいた。暗闇の世界を撫でるように谺をなし、足音をとんとん呼び寄せる。
解錠の音も、警戒の様子もなく、そのドアは開かれた。
「はいはい、どちら様……って、秋穂じゃん」
秋穂を迎えたのは、不機嫌にすら思われる無表情だった。それが本当は機嫌を損ねてはいないのだと秋穂は知っている。そして、この態度こそが春菜でない証であることも。
「急にごめんね、夏南。びっくりした?」
秋穂は己を奮い立たせるように、強いておどけてみせた。
「うん、めちゃくちゃ」
対する夏南は相変わらず無表情で、まるで驚いた様子がなかった。
だからこそ秋穂は、不躾にこう言うこともできた。
「ねぇ、中入れてもらってもいい?」
「あ、いいよ。どうぞ」
夏南は訪問のわけも尋ねず、身をひいて入室を促す。多くを尋ねないのはいかにも彼女らしかった。
中はやはり殺風景だった。
しかしローテーブルのうえには鳥籠があり、止まり木で黄緑の小鳥が首を傾げていた。
「あっ、モモ!」
セキセイインコのモモだった。猫のほうではない、変わってしまう前のモモだった。愛らしい姿に、感銘がこみ上げる。
「マジダリィ」
「……」
しかし、返ってきたのは随分な挨拶だ。
飼い主の口が悪いと、インコの口も悪くなる。
「まあ、好きなとこ座って」
先に腰を下ろした夏南は、そう言うと文庫本を手にとった。早速、しおりを抜いて読み始める。まったくリラックスした様子だった。
秋穂はその対面に腰を下ろすと尋ねる。
「ねぇ、何も訊かないの?」
やはり何か妙だ。夏南はたしかに夏南だけれど、少しずつ何かが歪んで感じられる。
夏南は本から目線もあげず答えた。
「べつに。なんとなく分かるし」
「分かるって、私がどうして来たか知ってるの?」
「どうして来たかは知らない。でも、何をしてたかはなんとなく知ってる」
「どういうこと……?」
夏南が小さく笑みをのせる。
「秋穂は生きてるから」
またこれだ。健吾も同じような事を言っていた。
「どういう意味?」
「秋穂は本来ここにいるべき人じゃない。私たちと違って役目があるんだから」
「わかんないよ! わかるように言って!」
回りくどい言い方にイライラする。
この世界は何もかもが狂っていて、見えるものも信用ならない。健吾も夏南も普通ではない。まるで魂を挿げ替えられた人形のようだ。
夏南は無表情のまま嘆息する。
「あー、めんどいなぁ。私、本読みたいのにさ」
「マジダリィ」
モモが同調するように言った。
余計にイライラさせられる。モモもインコの姿を象った何かなのだろうか。すべてが自分を苛むようにできているような気がしてくる。
しかし夏南は、あきらめたように文庫本を置いた。頭をかいて「まあいっか。時間ならいくらでもあるし」と言うと、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「あんたは、ここがどこだと思ってるの?」
思いがけない問いに返す言葉がない。それが判らないから訊いているのだ。
だが、普通の世界でないことは明らか。
でたらめに明滅する、人のない街。健吾も夏南も、モモでさえも様子がおかしい。
「わかんない。でも、普通じゃないことは解るよ」
「そういうこと。ここは普通じゃない。少なくとも、あんたにとっては」
夏南が語れば、ますます状況は混沌としていく。
「でも、私たちにとってはここが普通。ここが居場所。だって、ここはゴミ箱。私たちは廃棄された存在」
「ゴミ箱……廃棄された存在……?」
意味が解らない。けれど、なにか途轍もなく恐ろしいことを語っているのだけは解る。
「そうだよ。あんたはまだ捨てられてない。運命の中にいるの。存在も名前もある。だから生きてる」
そう言うと夏南は、ふたたび文庫本を手にとった。
しかしそれを読み始めるわけではない。「よいしょ……」とさも億劫そうに身を乗りだし、
「ん」
それを差し出してきたのだ。
秋穂は怪訝に、文庫本と夏南とを見比べた。その意図が分からなかった。
だが、ここは何もかも狂った世界だ。
この文庫本に記された内容が、自分の認知する本から想像されるものと合致するとは限らない。
秋穂は恐るおそる文庫本を手にとり、また夏南を一瞥したあとで、ページを開いた。
『スタート・オーバー』
真っ先に飛びこんできたのは、その大きな文字だった。本のタイトルのようだ。作者名は書かれていなかった。
なんとなく気になってカバーを外してみた。やはり大きく『スタート・オーバー』とある。著者の名前もない。イラストどころか出版社の名前さえ記載されていない、真っ白な本だった。
「これって小説?」
「うん」
「作者は?」
「知らない。神様でしょ」
「は?」
夏南は唐突に宗教じみたことを言う。
ただ面倒になって、突拍子もない答えを寄越しただけなのだろうか。
まあ、この際本の作者なんてどうだっていいか。
改めて本をひらき、次のページをめくると、さっそく本文らしかった。
『第一章 空白』とある。
やはりただの小説らしい。なぜ夏南がこれを寄越したのか、その理由が解らない。
抗議の視線を送ると、夏南はあごで本を示した。「いいから読んでみろ」ということなのだろう。
秋穂は小さく嘆息して、本文を追いはじめた。
『新聞に目を通していると、次第に文字が流れていく。読んでいるという感覚はあるのに、情報が一切入ってこないのだ。まるで形をもった空白。あるいは、積みあげることのできない積み木のようだ――』
どうやらここで登場するキャラクターは、新聞を読んでいるらしい。
秋穂はさっそく共感する。
面接のまえには、入念に新聞を読んだものだった。けれど文字を読み流してしまい、結局、最初から読み直すという事を何度もくり返してきた。読んでいるつもりなのに、情報としては処理できていない。知識としては保存できない。たしかに、積みあげることのできない積み木に似ているかもしれないと思う。
「いや……」
秋穂は胸に手をあてる。
まったく同じ感想を、いつか抱いたことはなかっただろうか。
またデジャヴだ。
感じたこともないはずなのに、感じたことがあるような気がする。
いや、本当に感じたことはないのだろうか。
あの日、面接に行くのが嫌で嫌でたまらなかった。コップに手が当たって、新聞が濡れて、そのシミを見ながら、なにか、なにか、考えた、気が、する。
なにを考えたのだろうか。
うまく思い出すことができない。
思い出すことに意味もないのかもしれない。
今は小説を読んでいるのだ。夏南が寄越したこれには、きっと何か意味がある。だから読み進めなければならない。読み進めなければならない。
真実を知りたいのなら。
足許に這う恐怖を踏みこえて。
それを受けいれなければならないのだ。
『松村秋穂は、天をあおぎ、目頭をもみほぐした』
自分を支える地面が消える。
浮遊感に襲われる。
「分かった?」
視線をあげれば無表情の夏南がいる。
「秋穂は生きてる。そうやって生きてるんだよ」
「そんな、わけ分かんない……。なんなのこれ? 変な悪戯やめてよっ!」
「ウケイレロ」
突き放すように言ったのはモモだった。夏南からも否定の言はなく、一人と一羽の眼差しが、じっとこちらを見据えていた。
「嘘……。私は物語の登場人物ってこと……?」
「ソウダ」
「そんなわけない……。私はいつだって、自分の意思で生きてきた!」
「誰がそれを証明できるの?」
「えっ……」
ナイフのようなその言葉に、秋穂は絶句する。
自分の意思で生きてきたはずだった。迷い悩んだ日々でさえも。
けれど、そのすべてが、何者かによって与えられたものだとしたら。
被造者がそれを知る術など、あるのだろうか。
夏南が疲れたように頬杖をつく。
「結局、人生なんてものは神の箱庭。自由なんてないの。役割を与えられて、執着させられる。本当はここに来るまで、そんなこと知らないはずなんだけど」
「やめて! もう聞きたくない……っ!」
秋穂はうめき耳をふさぐ。
けれど彼女の言っていた言葉が次第に理解できてくる。
ゴミ箱。
廃棄された存在。
松村秋穂が作られた存在で生きているというのなら、ここは創作の過程で切り捨てられた者たちの墓場だ。健吾が、夏南がここにいるのは、彼らが廃棄された人格だからに他ならない。
「……アキラメロ」
耳を塞いでも声を遮ることはできなかった。
インコの甲高く不明瞭な声が。
「アキラメロ」
何度も。
「ウケイレロ」
何度も。
「アキラメロ、ウケイレロ」
何度も谺しつづけた。
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