第十一章 恋人
赤い常夜灯に沈んだ部屋は、間違いなく健吾のものだ。ローテーブルの上には「立つシャモジ」が置かれていて、床で炊飯器が口をあけている。中身は空。杓文字にもジャーにもカリカリに乾いた米粒が残っている。
しかし当の本人の姿はなく、そもそも何故自分がここにいるのか秋穂には解らない。指輪に健吾の再生をねがい、目を開けるとここにいたのだ。
「そうだ、指輪……」
秋穂はおもむろに握りこんだ拳をひらいた。ところが、そこには手品で消されたコインのように、指輪など握られていなかった。首の周りに触れてみても、指輪を繋いでいたチェーンの感触すらない。
パニックになるより先に、嘆息がこぼれた。
わけが分からず頭が痛くなる。
こめかみを揉みほぐし、痛みをまぎらわせた。
そうして茫洋とローテーブルを見る。
杓文字、マグカップ、参考書、文庫本。
食器の類を洗い場にもっていた直後なのか。机のスペースは中央だけが不自然に空いていた。そこに乱雑に積まれた参考書がジグザグの影を作っている。
なんとなく動きだす気にはなれない。健吾を捜して徒労に終わるのが嫌なのか。さらなる異常事態に怯えているのか。もはや自分でも解らない。
ただ確かなことは、ひどく疲れているということだった。背中に濡れた毛布を背負っているような気分だ。
秋穂は何となく参考書の整理を始めた。疲れているとはいえ眠る気にはなれない。今はとにかく気持ちを整理するために、空間を整理するのだ。
そうして参考書をまとめていると、前にもこんな事があったと思い出されてくる。
健吾があまりに片付けが嫌いだから、それを手伝ってやったことがあったのだ。
基本的にはズボラで怠け癖のある人だが、聞き分けはよかったし、こちらが動きだせば一緒になって動く人だった。あるいは他人のために動く人だった。ボランティア活動には積極的だったし、困っている人があれば老いも若きも拘泥せず手をさし伸べていたものだった。
優しいだけでは、この世界は厳しいけれど。
秋穂はそんな健吾に、どうしようもなく惹かれていた。
「会いたいよ……」
身体の倦みを破り、望みが活力を与える。
健吾の姿はなくとも、ここは紛れもない彼の残滓だ。
解らないことばかりでも、ここへ来たことにはきっと何か意味がある。
秋穂はようやく立ち上がった。
それとほぼ同時だった。
水の流れる音がして、カシャとドアを開く音がした。
誰かいる……!
驚きよりも恐怖が勝った。秋穂は勝手に、ここに健吾の残滓を見ていたが、それが事実とは限らない。健吾が消息を絶ったあの日、アパートを訪れると別の男が住んでいたように、確かなことなど何もないのだ。
隠れなくちゃ!
とはいえ独り暮らしの学生が住むアパートの空間など限られている。隠れる場所などどこにもない。
秋穂は覚悟をきめ、生唾を呑みこみ時を待った。
気怠い跫音に耳をすまし、暗がりに沈んだ戸口を睨んだ。
そうして、
「ふあぁ……」
大欠伸をしながら入ってきたのは蓬髪を掻いた青年だった。
その目は眠気にとろんと解けていたけれど、こちらを認めハッと息を呑んだその顔を見間違えるはずもない。
「……健吾」
「あれ、アキちゃん?」
藤村健吾がそこにいた。
いなくなったはずの恋人が、確かに秋穂の名を呼んだ。
「健吾ぉ!」
秋穂はたまらずその胸へ飛びこんだ。
懐かしい匂いがした。
優しい抱擁が返ってきた。
「……会いたかった」
「うん、俺も」
その言葉だけで充分だ。
秋穂は身を離し、その愛しい相貌をまじまじと見つめた。胸のなかの炙るような欲望を感じた。口づけを求めるように吐息がもれた。
けれどゆっくりと顔を近づけてきた健吾を、秋穂は受けいれなかった。ひらりと躱し、距離をとった。
「今までどこにいたの……?」
今は逢瀬の悦に浸るべき時ではない。確かめなければならないことがあった。
健吾はふいに消息を絶った。
それは引っ越したとか逃げだしたとか、如何にも現実的なことではない。これまでの間、藤村健吾という存在自体が消えていたのだ。
だとすれば彼は、それまでの間どこにいたのか。
健吾は肩をすくめると、秋穂の横を通りすぎてベッドに腰かけた。
「ずっとここにいたよ」
「そんなはずない。私は健吾のアパートにまで行ったの。でも、そこには違う人が住んでた」
すぐさま反論すると、健吾は微笑を浮かべて緩やかにかぶりを振った。
「それはアキちゃんが生きてるからだよ。俺はあの日からずっとここにいた」
「なに? なにを言ってるの?」
意味不明の答えをかえす健吾に、秋穂は空恐ろしいものを感じにはおれなかった。目の前にいる青年が、自分の知る藤村健吾とは大きく異なって見えた。
健吾がベッドに横たわった。
「ここはとっても好い場所なんだ。何もしなくていい、何も考えなくていい。ただぐっすり眠っていていいんだよ。誰に急かされることもなくて、誰に期待されることもない。役割なんて必要ないんだ」
常夜灯の明かりに濡れて、健吾の目が妖しく光って見えた。その姿も言動も、ますます秋穂の知っている健吾ではないような気がした。
以前にもこんな事があった。
夏南の人格が変わって、春奈と名乗るようになったあの時だ。
だらりとベッドに寝転んだ健吾は、いかにも怠け癖のある彼らしい姿だった。けれど、何かが決定的に違っていた。
「アキちゃんが来てくれて嬉しいよ。ずっと会いたかったから。これでずっと一緒にいられる。明けない世界で、永遠にアキちゃんと眠っていられるんだ……」
健吾はそう言って、こちらへ白い指先をのばす。
それは紛れもなく健吾のもので、胸の鼓動が求めているのに相違ない。
震える指が虚空をうがち、距離という障壁を壊すようにじりじりと近づいてゆく。
そして触れ合う直前、
「きゃっ……!」
腕をつかまれ、ベッドに引き寄せられた。
健吾の眼差しはぞっとするほど蠱惑だった。唇がうすく開いて、額と額を触れ合わせる。心が濡れてゆくのを感じる。思考が鈍麻する。
唇にかかる湿った吐息。
「ねぇ、エッチしよっか?」
「え……?」
その瞬間、夢から覚めたような心地がした。
身体中から血の気がひくのを感じた。
疑惑が確信に変わる音を聞いた。
これは健吾じゃない。
するりと髪を梳いた指を、秋穂はふり払い立ちあがった。
健吾が虚ろな目で見上げた。
「あー、そういう気分じゃなかった?」
「……」
秋穂が絶望的な気持ちで見下ろすと、健吾はへらへら笑いはじめる。
「大丈夫、気にしてないから。どうせ明日も終わりもないんだしぃ」
秋穂はその声を捨て置く。
さっさと踵をかえして玄関へ向かった。
その背中を「はは」と虚ろな笑いが追ってくる。
ナイフを抉りこまれるような悲痛を胸に、秋穂は玄関のドアを開けた。
いつかのようにアパートの構造は変わっていなかった。その周囲にも変化はないようだった。
ただし、暗闇で蓋をした空には星の瞬きひとつない。
ロビーのセキュリティドアをくぐり夜の街にでれば、街灯の明かりは、どれも微睡むように明滅をくり返していた。
それから逃げるように街を駆けた。けれど、どこもそんな調子だった。家には明かりが点いておらず、ビルはエレベーターの階数表示のように下から順に明かりが点いては消えてゆく。車道に車の姿はなく、コンビニだけは眩しいほどに明るいけれど、中に入っても誰もおらず商品のひとつも置かれていない。
そんな狂った世界で、秋穂もまたおかしくなってしまいそうだった。愛する恋人が腑抜けになってしまったのは、無論ダメージが大きい。それを誤魔化すように歩き続けていた。
そうしていつの間にか辿り着いたのは、とある駐輪場だった。
そこにのんびりと横たわる猫はいなかった。
きっとあの子もいないだろう。
そう思いながら秋穂は表へ回りこみ、夏南の部屋を探しはじめる。
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