第十章 願望
人は不明を恐れる生き物だ。
正体の判然としないもの、未だ自分の知らないもの、予測のつかないもの。
しかし時に、知ることもまた人の恐怖心をあおる。
知りたくなかった暗部。知るべきでなかった真実。単に知覚するということさえ、それ自体が興奮となり、得も言われぬ恐怖足りうる。
秋穂は指輪がはなつ熱の感触を、たしかに知っていた。一度味わったことがある。
既視感。それさえもすでに既知であるという感覚。感覚は無限に深化し、秋穂という存在に訴えかける。
『願え――』
と。
だがそのどれもが、秋穂にとっては皮下を通る現実であると同時に、視野の隅をよぎる錯覚めいて感じられた。健吾を失ったあの時、あるいはその次に目覚めた時、これが夢の中の世界ではないかと疑ったように、己をとりまくすべてが胡乱に思えてならなかったのだ。
秋穂は縋るように両親を見つめた。声をあげた娘を二人は怪訝に見返していた。
そして秋穂は、こうして両親が「いる」ことにさえ疑問を抱き、
「お父さんはさっきどこにいたの?」
唐突に訊ねた。
無論、訊ねられた父のほうは首を傾げるしかなかった。
「さっきっていつだ?」
部屋のなかは空恐ろしいほど静まりかえって、父の声を普段の倍以上も大きく感じさせた。
「家に帰ったとき。私が先に中へ入った。お父さんはあとから来たでしょ」
「ああ、そうだな」
「病院から帰ってきて、お父さんがドアを開けてくれた」
「うん、ドア。ドアを、開けた」
父はなぜかそこで小骨を引っかけたような妙な口調になった。
そして徐々に、その表情が曇りはじめる。
「ドアを開けて……秋穂が、秋穂がいた、な」
「なにか気になることがあるのね?」
秋穂は確信的に訊ねた。
この指輪の熱。既視感。
それ以上の胸をかき乱すような恐怖は一先ず置いておくとして、指輪の熱には意味があるはずだ。それを知っているのも当然だ。ほんの少し前に、似たような体験をしたばかりなのだから。
父もそれをまったく憶えていないわけではないらしい。
「ドアを開けたんだ。秋穂を通すために。でも……俺はドアを開けて、もう一度ドアを開けて、廊下の中ほどに、さっき入ったばかりのはずの秋穂が、そうだ、中ほどにいた」
父は頭をかかえて呻いた。頭が痛むというよりも、あり得るはずのない認識に苦しんでいるように見えた。
「お父さんは二度ドアを開いた?」
「たぶん、そうだ。なんでだろう。なんで、忘れてたんだろう……」
間違いない。
秋穂は今度こそ確信した。
指輪の熱の意味。『願え』という啓示。
その正体は判然とせず、常識からはかけ離れたものだけれど間違いない。
父が消えたとき、秋穂はゴムボールを見つけた。あれは父との思い出だった。そしてあれを握り、謎めいた熱を感じながら『願った』のだ。
お父さん帰ってきて、と。
直後、父は戻ってきた。いなくなったはずの父が帰ってきたのだ。願ったとおりに、世界が変わった。
そして今、指輪が熱をもっている。健吾との思い出が、助けてくれと叫ぶように熱くなっている。
原理がどうなっているのか。世界がどうなっているのか。そんなことは知らない。
ただ、願いが鍵になるのなら。
失ったものが――健吾が帰ってくるのなら。
その一縷の望みを、手繰り寄せるしかない。
秋穂は肌を焼くようなその熱に耐え、強いて指輪をかたく握りこんだ。
拳に額をあて、全身の力をそこへ注ぎこむように祈った。
何度もなんども健吾の名を呼び、懐かしい相貌を、声を思い起こした。
お願い、戻ってきて健吾……っ!
絶叫に喉がかれるように、秋穂は心が軋むほど願いつづけた。十、百、千と願ったかもしれない。一時間も二時間も、そのままでいたかもしれない。
音などなにも聞こえなくて。
ただ心の叫びだけがあった。
やがて、何かに赦されたように秋穂は顔をあげた。燃えるような瞼をひらいた。
「え……?」
するとそこに両親の姿はなく、
「ここって……」
部屋を満たす明かりも存在しなかった。
あるのは、ただ暗い室内へおちた赤い指先のような常夜灯。
今や懐かしく感じられるベッドの柔らかさ。
「健吾の、部屋……?」
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