第九章 混沌

 誰もがテレビへ釘付けになった。

 ニュースを垂れ流していたそれが闇一色に染めあげられ、口をつぐんだのだ。


 秋穂たちも沈黙するしかなかった。誰一人、声をあげる勇気がなかった。口をひらいたその瞬間、テレビ画面の闇にさらわれてしまう気がして怖かった。


 だからなのだろうか。

 痺れを切らし沈黙を破ったのは、松村家の誰でもなく、テレビのほうだった。


 ジリ。


 突如、画面中央に切れこみがはしり、


 ジリ、


 それが蛇のごとく上下にのたうった。

 波形はたちまち大きくなり、烈しさを増し、秋穂たちが恐れを結び合わせる間にも、ぐわんぐわんと画面の縁を叩いた。


「え、なに? 壊れちゃった……?」


 母が引きつった笑みで言った。

 すると、画面の波形はさらに勢いよく暴れだす。絡み合った糸のごとく奇妙な形を描きはじめる。


 ジリジリジリ。


 ノイズは耳に痛いほどになる。家中の壁をかきむしるように、不快さを増していく。秋穂はたまらず耳を塞いだ。


 波形がまた形を変える。

 振動する糸のように一定のパターンを描く。上下の振動のなかに、空白が生まれる。アーモンド型の空白。あるいはこちらを覗きこむ隻眼のような。


 それは画面の縁に暴れ、縁を越えてなお肥大化し、やがて一面を純白に染めあげた。黒や灰の砂が散ることない砂嵐。まったき空白。テレビ画面の光沢さえ感じさせない眩いそれに、三人の意識は呑みこまれてしまいそうだった。


 ところがそこに、


『――のに。い――じゃ――』


 声が聞こえる。

 ノイズにまみれた、途切れとぎれの声が。


 父が画面を指さし、秋穂は耳に当てた手を離した。


『――ダメ――。――んだ」


 声。間違いなく声だ。微かだが、なにか喋っている。

 秋穂たちは、不快なノイズのなかからそれを掬い上げるべく耳をそばたてた。


『でも――じゃないわ。わた――よ」


 ノイズが次第にはれていく。先ほどのものと違う声だと判る。

 画面にも変化がある。空白の中に、徐々に青みがさし、灰の輪郭めいたものが浮きあがってくるではないか。


「なにこれ……?」


 秋穂はそう声に出したが、父も母も首を横に振るしかなかった。

 画面に描きだされる像は、みる間に仔細な線を結ぶが、それが何を意味する映像なのか、そもそも意味を求めるべきものなのかすら分からなかった。


 なぜならそこに浮かび上がってきたのは、パソコンに向かい合う男と、その背後からそっと腕を回した女の映像だったからだ。


 中空で不快なダンスを続けていたノイズは、いつの間にか静まっている。テレビの声が滑らかに耳へ吹きこんできた。


『君がそう言ってくれたとしても、ダメなんだ』

『もったない。せっかく血が通ってたのに』

『僕もそう思うけど……。でも足りない』


 テレビの中の会話は、まったく要領を得ない。連続ドラマを真ん中から見始めてしまったような気分だ。


「そういえば、チャンネルはどうなってる?」


 父が訊ねると、母は急いでリモコンの適当なボタンをプッシュした。


「ダメね」


 安いドラマのような映像は途切れることがない。電源ボタンを押しても、テレビは映像を流し続けた。


『あなたは素晴らしい。ちゃんと才能をもってる。心配しなくていいのよ』

『でも、僕が納得できないんだ。君の言葉は嬉しいけど、妥協したくない』

『そう……』


 男の耳もとで囁き続ける女は、なぜか残念そうだった。男のほうも悄然とした様子で、二人の間に何があったのかは謎だ。そもそもこの映像自体が、テレビの故障なのか、あるいはもっと不可思議な何かなのかさえ判然としないままだった。


『……ねぇ』


 不意に女が、男の首から腕を外した。

 そして、画面のほうへと歩いてくる。


「え、なに、こわい」


 秋穂は胸の指輪を握りこんだ。

 すると女の顔が画面の外に消えるほど近くなり、画面上部へ手を伸ばした。その手がゆっくりと左右に、揺れるように動く。カメラがおもむろに女の顔を見上げる。こちらを見下ろす双眸がおもく憂いに沈んでいる。女が唇を湿した。


『……わたし、夢を見たの』


 ブツ。


 再びテレビが消えた。


「え、えっ?」


 秋穂の父は、とっさに妻の手許を見た。しかし妻の手はすでにリモコンを離れており、テレビが消える瞬間の異音に心底おびえた様子で目を見開いていた。


 その間にも秋穂はじっとテレビを見つめていた。またおかしな映像が流れだすのではないかと気を揉んでいたからだ。


 しかし、どれだけ待ってもテレビは口を閉ざしたままだった。何の変化もなく、ただ暗闇だけを見せつける。不意に母がリモコンをいじっても、やはりテレビは何の反応も返さなかった。


 痛いほどの静寂が満ちる。誰も一言も口を利かない。目を合わせるのも憚っているのが明らかだった。


 秋穂は耐えかね、もう一度指輪を握りしめた。

 それが意図せず、彼女から声を弾きだした。


「えっ……?」


 秋穂は自身の胸を見下ろした。

 次いで、首筋のチェーンをつまみ指輪を引きあげた。

 無骨なシルバーの指輪が姿を現す。なんの変哲もない、ただの指輪に違いなかった。


 だが秋穂だけは異変を感じていた。

 そして、たしかめるように指輪を握りこむと、


「あつい……!」


 痛いほどの熱が伝わってきた。

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