第八章 蔓延

 つけっぱなしのテレビからニュースが流れ始める。この時間帯はどこもこのような感じで、ニュースがなければ延々とCMが流れる。とにかく退屈な時間だ。


 秋穂の父親は、そうと思いだしたのかリモコンに伸ばした手をひっこめて、唐揚げを口へほうりこんだ。


 秋穂はというと、両親のほうから今回の事故について訊ねられるのを待っていたが、一向にその機会は訪れなかった。両親はあえてその話題をさけ、娘の口から真相が語られるのを待っているようだ。


 実際、こちらから切りだすのが筋だろう。

 秋穂は唐揚げを嚥下すると、ぽつりとこう言った。


「……心配かけてごめんなさい」


 常に感覚を研ぎ澄ませていたのか、ハッとして父が顔をあげたのが判った。ニュースを見ていた母からは一瞥の反応がある。


 一瞬は沈黙がそれぞれを隔てた。

 しかし、それを意志の力でこじあけたのは父だった。


「謝らなくていい。それより、どうしてあんな事に?」


 秋穂は変わってしまった夏南を思い出し、パニックに陥らないよう深呼吸をしてから、ゆっくりと答えた。


「……それを、説明するのは、とても難しいの。端的に言えば、パニクっちゃったんだけど」


「友達とケンカでもしたのか?」


 それにははっきりと首を振った。


「違うの。そういうことは全然なくて。ただ……」

「ただ?」

「信じて欲しいんだけど」

「ん?」


 両親はあいまいな答えに当惑する。娘がなにを言おうとしているのか理解できなかった。しかし当の娘は「信じて欲しいんだけど」と繰り返し、まっすぐに二人の目を見つめるのだった。


 二人は互いの顔を見合わせ、微かに首をかしげた。そこから得られる答えなど何もなかった。だが二人は、すぐに気付かされる。そもそも今求められているのは、娘の思いを事前に察知することではないのだ。娘のいった言葉を実行してやること。ただそれだけだった。


 娘がなにを言おうと、それをまず一度受けとめようと、秋穂の父はうなずいた。


 すると秋穂はほっと胸を撫でおろして、三度も深呼吸をしてから、ようやく言ったのだった。


「……最近ね、私の周りでおかしなことが起こるようになったの」

「おかしなこと?」

「うん。私の知っていたことが、どんどん変わっていくの」

「ん?」

「私には恋人がいて――」

「ええッ?」


 秋穂の発言はまったく要領を得ず、とても理解できる内容ではなかった。だが、こうして話している間にも、彼女なりに情報を整理しようとしているはずで、父はそれをじっと見守るつもりだった。


 ところが、突然、恋人などと言うものだから心臓に悪い。『オサムくんに男みたいだって言われたぁ!』と泣きついていた娘も――そうだ、もう成人を過ぎているのだ。恋人くらいいても、何もおかしくはない。


 最後の唐揚げを箸でつまみそこねて「悪い、続けてくれ」と促した。


「ああ、うん。それでね」


 秋穂はいったん言葉を区切り、テーブルへ置かれたスマホに触れた。次いで胸の指輪を握りこむ。失ったものの感触が胸に痛かった。


「……その人、いなくなっちゃったの」

「いなくなった……?」


 動揺を示したのは母親のほうだった。彼女はテレビを一瞥して、ますます目を見開いた。秋穂もテレビを見て、普段は注目することのない字面に目を奪われた。


『行方不明』


 とある少女が姿を消してから、今日でひと月になるというニュースだった。

 遅れてそれを見た父も、虚を衝かれたように固まる。


 しばし奇妙な沈黙が食卓を侵した。

 話にはまだ続きがあるが、とても言いだせる雰囲気ではなかった。


 秋穂はこれと似た場面を知っていた。

 デジャヴではない。はっきりと憶えている。

 夏南と『夢と現実の混同』について話したときと同じだ。


 両親もまた、秋穂が体験した〝異変〟と似た状況を知っているのかもしれない。健吾が消えてしまったように、二人の近くでも誰かが消えたのだとしたら――。


 そうだ、あり得ない話ではない。この〝異変〟は夏南が体験していたように、自分だけに降りかかった不幸ではないのだ。


「……知ってるんだね?」


 秋穂は沈黙のなかに声をしぼりだした。

 すると母は押し黙ったまま額を押さえ、父は箸をおいてこめかみを掻いた。


「いやぁ……俺は知らないんだけど、もしかしたらって話を聞いたことがある」


「どういうこと?」


「会社に人懐っこい若いのがいるんだ。溝端っていって、よく飲みにも行く仲なんだけど……前に飲みに行ったときだよ。相談を受けてさ」


「それが行方不明に関する話だった?」


 父はうなずく代わりに、空のコップを握りこんだ。テーブルの中央に置かれたペットボトルから、なみなみと麦茶を注いで一気に呷る。


「はあ……。溝端の友達が、急にいなくなったらしいんだ。そいつは結構いいところに勤めてて、酒やギャンブルもしなかった。だから金はあっただろうし、近々恋人と結婚しようかな、なんて話もしてたらしい。要するに借金とか、自殺とか、そんなのからは無縁に見えたそうだ。ただな、気持ち悪いのはここからで――」


「連絡先が消えてたとか?」


 父の言葉を震えた声がさえぎると、怯えるような眼差しが秋穂を射抜いた。


「そうだ……。お前の恋人っていうのも、そうなのか?」

「うん……」

「なにが起きてるんだ……?」


 その問いに答えられる者はいなかった。

 ただそれまで押し黙っていた母が、追い打ちをかけるように口をひらいた。


「……隣の山口さん、あそこのおじいちゃんのこと憶えてる?」

「「え?」」


 秋穂と父はかおを見合わせた。

 すぐに母の嘆息があった。


「やっぱり、そうよね。誰も憶えてないの……」

「山口さんのところにおじいさんがいたの?」


 隣の山口家については知っている。よく回覧板を届けに行くし、あそこの長女には子どもの頃よく遊んでもらった記憶がある。しかし秋穂に〝山口家のおじいさん〟の記憶はなかった。


「いたのよ。あの人も急にいなくなったの。最初は亡くなったんだと思ってた。でも、いつまで経っても、玄関に札も幕もはられない。亡くなったって噂も聞かない。だから私のほうから清水さんに訊いてみたら『え、おじいさんなんていたっけ』って」


 いつの間にか、さすった二の腕が粟立っていた。

 空恐ろしくなって秋穂は震える。

 これまで変わったのは秋穂の周りだけだった。

 だがすでに、自分自身も変わり始めていたことに気付く。


 母だけが〝山口家のおじいさん〟を憶えている。つまりは秋穂にもそれを認識していた時間があったはずだ。しかしそれは、どういう理屈かすっぽりと抜け落ち、「憶えていない」、「知らない」という事実だけがある。


 天をあおいだ父は「こんなこと続いたら――」と最悪の結末をつぶやきかけ、すんでのところで呑みこんだ。


 秋穂はそれを努めて考えないようにしてきた。いつか終わると信じたかったし、まだ夢ではないかと疑ってもいる。


 けれど何度目覚めようと、ゆがんだ世界は変わらない。正常な世界は戻ってこない。歪みは次第に侵食をはじめ――いや、すでに多くを侵している。〝異変〟は続き、ドミノは倒れ、あるいは歯抜けになっていく。これが続けば、いずれ、いずれ、いずれ……。


 ブツ。


 テレビが消えた。

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