第七章 帰還
本当は父親が好きだった。
幼い頃の百回の「好き」が、長じてからの一回の「嫌い」で、すっかり塗り替えられてしまった。
いや、そう言い聞かせていたのだ。他の誰かが父を嫌いにさせたのではない。自分自身が父を嫌いだと思いこませ、だから怒鳴ってもひどい事を言ってもいいと、自分を正当化してきた。
けれど父も、憎まれ役などごめんだったはずだ。娘に怒鳴られるたび、憂鬱に頭を抱えただろう。それでも父は、日々憔悴していく娘に心からこう言い続けたのだ。
『秋穂、頑張れ』
と。
本当は父親が好きだった。
友達から「男の子みたい」と揶揄されても、父とのキャッチボールを楽しみにしていた時代があった。母の怒声から逃げるように、夜中にわざわざ二人で公園へ行った。ボールを受けとるたびに、あるいは投げ返すたびに、その日学んだこと、友達との思い出、父への愛情をたしかめるように告げた。
『おとうさん、だいすき!』
と言えば、
『お父さんもだよ』
と、抱きあげられた。頬ずりされるとひげがチクチク痛くて、けれどそれが自分の父親である証明のような気がした。痛い幸せがあった。
「――お父さん……?」
そんな父の姿を、今はどこにも見出すことができない。閉じたドアの正面にあるのは、玄関におちた橙の明かりだけだった。
「イヤだよ……!」
秋穂は玄関へとって返し、叩くようにドアを開けた。
あるのは空白だけだった。闇が虚空をたっぷり浸して、街頭の明かりだけをぽつんと浮かびあがらせている。小さな駐車場には車がない。今しがた乗ってきたはずの車が跡形もなく消えている。
「そんなはず、ない……」
なにか忘れ物をしたのかもしれない。それで急いで車を出したのかもしれない。
けれど秋穂は、スマホをとり出し連絡先をたしかめる気にはなれなかった。健吾のときのように、そこに名前がなかったら。名前がないことを認めてしまったら、今度こそ父は戻ってこない気がした。
「戻ってくる……絶対」
秋穂はそう言い聞かせ、強いて闇へ踵をかえした。
玄関のドアをあけ、沼から這いだすように靴を脱ぎ、それを見つけた。
「あ……」
下駄箱の上だった。花の活けられた花瓶の隣に、グリーンのゴムボールが放置されていた。父とのキャッチボールの際に使っていたものだった。
「どうして、ここに」
秋穂はおもむろにそれを手に取った。柔らかく、なぜかほんのりと温かかった。あの頃とおなじ熱を感じた。
それを気味悪いとは思わなかった。それよりも、ただ恋しかった。ますます恋しかった。不意に消えてしまった父のことを想わずにいられなかった。
秋穂はゴムボールを胸に抱いて、涙をこらえるように唸った。そして胸のなかで何度となく唱えた。
お父さん帰ってきて、と。
その時、居間のほうからドタドタと物音がした。間もなく正面のドアがひらき、母親が顔をだした。
「おかえり、秋穂」
「え、あ、ただいま」
謎めいた当惑があった。ひどくこの状況が奇妙だった。
額に手をあてると包帯の感触がある。母が無表情のまま言った。
「今日はあんたの好きな唐揚げにしたから。突っ立ってないで、早く食べるわよ」
「ねぇ、お父さんは?」
秋穂はほぼ無意識にそう訊ねた。唐揚げのことなどどうでもよかったし、自分をさして心配した様子のない母のことも気にならなかった。
ただ父のことばかりが頭を占めていた。母がおかしなことを言いださないか、不安だった。
ところが母の怪訝な眼差しが返ると同時、背後でドアの開く音がした。
「ただいまぁ」
弾かれるように振り返ると、そこに父がいた。
「え?」
秋穂は両親を交互にみくらべ、口を手でおおった。
その様をみた母が、初めて娘を案じるように眉根を寄せた。
「あんた病院からでてきてよかったの?」
「それ、俺も言ったんだよ。秋穂、大丈夫なのか?」
両親から詰めよられ、秋穂はゴムボールを握った腕をだらんと垂らした。そして弱々しい笑みを浮かべると、肩をすくめた。
「どうだろ。ヤバいかも」
両親はその一言に、かえって安心したようだった。互いに笑い声をあげた。
「まあ、なんかあったら病院連れてってやる。とにかく今はメシにしよう」
父はそう言うと靴を脱いで、廊下を進んだ。秋穂の隣に立つと、その手許をみて訝しげに笑んだ。
「懐かしいもん持ってるなぁ。どうした、それ?」
「さあ、わかんない。下駄箱の上にあったから」
「そっか、なんでだろうな。まあ、とにかくメシだメシ」
父はネクタイを緩め、さっさと居間のドアをくぐった。そこへ母が「唐揚げ」と告げる声が聞こえた。
今日で何度目か、秋穂は額に手をあてた。そうして自分が怪我人なのだと改めて思い知った。
まったく、私がこんな状態なのに暢気だなぁ。
そうは思うけれど「両親がいる」、それだけの当たり前で胸が満たされた。
一方で、この幸福を素直に噛みしめられずにいた。
お父さんは消えたはずだった……。ただ忘れ物をしただけだったのかな。でも、何も言わずに出てくとは思えないし、忘れ物をとりに出かけたにしても、帰ってくるのが早すぎるような……?
あの空白の時間になにがあったのか。訊ねる必要がありそうだ。また話すべきことが増えた。
秋穂は胸もとをぎゅっと握りしめ、指輪の感触をさぐりあてた。失ってきたものを決して忘れぬように、今ここにあるものを信じ続けられるように、ただ強くつよく握りしめた。
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