第六章 父親
小学生の頃、ナオちゃんといういじめられっ子がいた。
クラスのみんなから無視され、よく教室の隅で泣いていたのを憶えている。
いじめは好くないことだと思う。無くなればどんなにいいだろうとも。
そう思う一方で、ナオちゃんがいじめを受けるようになったのは、自業自得でもあっただろう。
端的に言えば、ナオちゃんには虚言癖があったのだ。
その内容と言ったら「この前、〇〇くんと遊んだ」とか「スーパーで××ちゃんのお母さんに会った」とか、そんな小さく可愛い嘘だったが、子どもたちは大人たちよりも露骨に異端を許しはしないものだ。
ナオちゃんはすぐに誰にも相手にされなくなり、独りぽつんと座っている時間が多くなった。
それでもナオちゃんは諦めたわけではなかった。
アピールは確実に減っていったが、クラスメイトへ積極的に話しかけていたし、例の嘘も封印しなかった。「ウソつき」と言われても「ウソじゃない!」と言い張ったし、彼女の双眸には、自分だけが真実を語っているというような真に迫った輝きがあった。
実際はクラスメイトたちが、ナオちゃんを「ウソつき」に仕立てあげたのかもしれない。彼女の言葉のほうが、すべて真実だったのかもしれない。
長い月日を経た今となっては、それを確かめる術もないけれど。
今だからこそ思うこともある。
あの子は強かったなぁ、と。
たとえ当時の言葉が、すべて虚言に過ぎなかったのだとしても、彼女はその嘘を真実と信じつづけたのだろう。誰に否定されても「ウソじゃない!」と嘯き、否定されると解っていたはずなのに積極性を捨てなかった。
私にはできないな……。
秋穂は曖昧模糊とした意識のなかで、諦念にとらわれ――
だから、全部壊れちゃったんだ。
劣等感に胸を焼かれた。
誰に馬鹿にされようと、彼女のように芯を貫くことができたら、あるいは世界もそれに応えてくれたかもしれないのに。
私はそこまで足掻いただろうか。
「――穂。秋穂」
ああ、誰かが呼んでいる。
知っている気もするし、知らないような気もする声だ。
けれど、それに拘る必要は感じなかった。闇から這いだして目の前に誰がいたとしても、結局そのとき抱いた感情は刹那のものだろう。
今、膿のようにじくじくと滲みだす憂いこそが、きっと自分に与えられた永遠なのだ。
それしか確かなものなどないのだから。
人も物も変わっていく胡乱な世界で、信じられるものなど何もない。
◆◆◆◆◆
とんとんと肩を叩かれて、頭のなかの蜘蛛の巣がベロンと剥がれ落ちた。小さく呻きながら持ちあげる瞼の感触は粘着質だ。蜘蛛がまぶたに巣をはり直したのか。眠気眼をこすり、そんな馬鹿げたことを考えた。
「着いたぞ、秋穂」
そう穏やかな口調で告げたのは父だった。
どんより疲弊した相貌に、なれない微笑。おまけにくたびれたスーツ姿。
その肩越しに夜が窺える。車窓の外は闇。
秋穂は首をかしげて、父の顔をのぞきこんだ。
「お父さん、どうしたの?」
すぐに怯えたような視線が返ってきた。
「……おいおい、憶えてないのか?」
訊ねかえされ、秋穂はいっそう怪訝に父を見返した。
頭の中がぼんやりして覚束ない。額を押さえると痛み、なにか巻かれているのに気付いた。包帯だ。
「ああ、そっか」
茫洋として呟いた。
そこに父の安堵の吐息が重なる。
「びっくりしたぁ……。病院に逆戻りかと思ったぞ」
「私どれくらい寝てた?」
「それも病院で言ったんだけどな」
「え、本当に?」
「本当。おいおい、帰ってきてよかったのか……」
額を押さえて天をあおぐ父をみて、今更ながら自分が生きていることに気付かされた。アパートの二階から落ちた。夢ではなかったようだ。高さはさほどでなかったが、打ちどころが悪ければ、死んでいてもおかしくなかっただろう。
さっと血の気がひいて、次いでむくむくと安堵が育った。対照的に不安に押しつぶされそうな父が、尚更生きていることを実感させる標のようだった。
「そういえば、お母さんは?」
「えっ?」
弾かれたようにこちらを見る父の姿がおかしかった。秋穂は笑いをこらえながら、もう一度「お母さんは?」と訊ねる。
「ああ、お母さんならもう家にいるよ。医者から命に別状はないだろうって聞いたら、そうですかっつって帰っちゃって。ひどいよな。実の娘が救急車で運ばれたっていうのに」
「でも、お父さんはずっといたんだ?」
「そりゃそうだろ」
父は即答のあとに、もごもごと何か続けたが、秋穂には聞きとることができなかった。きっと恥ずかしいことでも言おうとしたのだろう。
ここ最近は、顔を合わせれば即ケンカだった。同じ空気を吸いたくないなどと言うことがあるが、まさにそれだった。家にいるだけで父の気配を感じ、息を吸うたびにこめかみが疼くほど険悪だった。
けれど今、父は父なのだなぁと思う。
頑張れの一言は重荷にちがいないが、そこには一人の不器用な父親の真心があったのかもしれない。
目が覚める前、なにかネガティブなことばかり考えていた気がする。けれど、この瞬間の幸せまで、否定する必要はないだろう。
父がいて、愛情がある。
それを受けとって、罰は当たらないはずだ。
「お父さん、ありがとう。いつもごめんね」
不意にこぼした娘の言葉を、父はどう拾っていいものか迷ったらしい。
「どっちだよ」
と、曖昧に笑ってみせた。
秋穂も笑ってかえした。なんとなく続く言葉は呑みこんでしまった。父も追究しなかった。
「とりあえず、飯食おう」
「うん」
目覚めたばかりで、まだ空腹は感じなかったが、とりあえず家に戻りたいのは秋穂も同じだった。食卓について、夏南――春菜の様子についても訊きたかった。いや、弁解が必要かもしれない。あの状況では、彼女にいらぬ疑いがかけられていてもおかしくないはずだ。
父と二人車をおりて、見慣れた玄関の前にたった。父がドアを開いて、先になかへ通してくれる。玄関で靴を脱ぐと、ひどく懐かしい感じがした。全身を温かな絹でくるまれるような安堵がこみあげた。
とんとん廊下をふんで。
ああ、我が家だ、としみじみ思った。
その背後で、ドアの閉まる音がした。
父は何を手間どったのか、今ごろドアを閉めたらしい。
「もう、どうしたの。お父さん?」
秋穂は呆れと親しみをこめて振り返った。
そこには誰の姿もない。
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