第五章 天地

 歯と歯の隙間から、かすれた息がもれだした。


 夏南の口許には笑み。洗練された無貌には不釣り合いな、屈託のない笑み。

 彼女はそれをはり付けたまま、乱暴に後頭部をかいた。


「いやぁ、マジでなんだっけ? なんかド忘れしちゃった」


 ハハハと笑い声。

 弛緩した口許から、ちろりと赤い舌をだす。意味不明で下手くそなウインク。

 夏南はそうして、一層おかしそうに笑う。


 誰……。


 思わず、それを口にしそうになる。


 眼前の女は、知らない女だ。夏南と同じ姿をした、まったくの別人だ。表情の乏しい彼女が、こんなにも屈託なく笑い、まして舌をだしてウインクするなんて天地が裏返ろうともあり得ないことだ。


 動揺に声が波打つ。


「情報を、整理しようって……」

「情報? ああ、卒論のことだっけ?」


 秋穂は一歩あとずさり、まとわりつく闇を払うようにかぶりを振った。


「どうしたん、アッキー? なんか今日ヘンだよ? 体調でもワルい?」


 大きな足音で歩みよる夏南から、さらに一歩しりぞく。


 変なのは夏南のほうだ。


 いや、世界だ。

 何もかもがおかしかった。


 健吾がいなくなって、インコが猫になって、夏南は笑うようになった。


 自分の知っていた世界が、少しずつおかしくなっていく。錯覚ではない。夢ではない。そんなわけがない。見開かれた視界のなか、整然と築きあげられてきたものが、ぼろぼろと朽ちていくのが判る。


「夏南、本当になにも憶えてないの……?」


 それでも秋穂は、一縷の望みにすがろうとした。

 これは何も変わりない以前の世界だと。夏南の答えが、それを証明してくれるはずだと。彼女は自分をからかっているだけなのだと。


 けれど夏南は「憶えてる」とも「憶えてない」とも答えなかった。「なんのこと?」と問い返しさえしなかった。


 ただ呆けたように口をあけ、かすかに首をかしげるのだった。


「……カナ?」

「え?」

「カナって誰? アタシ、だけど?」


 こめかみのすぐ近くで、何かがピキと音をたてた気がした。足許が崩れ、奈落へと落ちていくような浮遊感が去来した。


 秋穂はそのなかを泳いだ。虚空の海を泳いだ。

 どこに辿り着くとも知れない夢幻のなかで、足掻くことだけが自分をたもつ唯一の標だった。


 友人だった相手に踵をかえし、爪先に引っかけるように靴を履き、重いドアの向こうへとびだした。


 そこに世界があるはずだった。

 地続きの世界が。


「うわぁっ!」


 ところが、そこに秋穂の知る世界はなかった。


『箱の中身は生か死か』


 それを確認しなければ中は混沌だというのなら、箱の中の生き物にとって外界もまた、それを認めるまで混沌とした不確かなものなのかもしれない。 


 ドアの外に地上はなかった。

 眼前にのびるのは柵。地上はその下だ。


 秋穂はいきおい余って柵へ腹をうちつけた。

 地平線へ吸いこまれる心地がした。足裏から摩擦が消え、悪戯な神に首根っこを掴まれた。


 たちまち天地が入れ替わった。


 足許に青い空があった。

 頭上に見知らぬ小道があった。


 浮遊感。


 どこまでも落ちていくような錯覚。

 いや、今度こそ錯覚ではないのかもしれない。

 

 本当に錯覚じゃないんだろうか?

 夢を見ているんじゃないだろうか?


 長いながい夢。

 いつか覚める幻。


 きっと、そんな胡乱な物語を、健吾の許を去ったあの時からずっと観ているのだ。


 このスクリーンが闇に塗りつぶされ、睫毛が微睡をはらう時、また九割の不幸と一割の幸福で満ちた日常が戻ってくるに違いない。


 あそこが自分の生きた本当の場所なのだから。


「あ」


 アスファルトの空が降ってくる。

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