第四章 違和

 アパートの駐輪場で伸びたその猫は、まるで黒い液体のようだ。全身の筋肉を弛緩させ、瞼など練った粘土のようにぺったりと閉じている。


 秋穂と夏南の二人がかたわらに屈みこんでも、耳をぴくりとさせるだけで起きる気配はない。人に馴れているのか、単に図太いのか。警戒心を欠いた様は、生意気に思える一方で愛らしかった。


「この子がモモ。黒いけど」


 喫茶店で互いの事情をあらかた話し終えた二人は、まずモモの状況確認に訪れたのだった。


「桃色の猫なんているわけないって解ってたけど、黒猫は予想外。しかもこの子でかいね。オス?」


 モモの身体は大きい。いっぱいに伸びているせいで、胴体など秋穂の前腕ほどもある。


「うん、オス。ほら見てよ、この逞しいの」


 夏南は無表情のまま、モモの股間を指さした。そこにはたしかに「逞しい」ものが具わっている。


「桃の形してるでしょ? だからモモ」

「え、うん……」


 前々から変わった子だとは思っていたが、こんな一面もあるとは思いもよらなかった。秋穂はすぐには受けいれられず、正直なところ少し引いた。


 だが思い返してみると、インコと過ごしていた頃の夏南にも似たような一面があったかもしれない。糞を落とすインコの臀部を眺めながら「いとなみ……」と呟いていた覚えがある。


「ところで、夏南はインコのモモについて何も憶えてないの?」


 秋穂と夏南のおちいった状況は似ているが、大きく異なっていた。

 

 秋穂が恋人の存在をうしなったのに対し、夏南はペットのインコが猫に変わった。

 夏南はペットそのものを失ったのではなく、その形態が変化した。秋穂は藤村健吾に代わる人物があらわれたのではなく、恋人の存在自体をうしなったのだ。


 そして秋穂には、藤村健吾とすごしてきた日々の記憶がある。


 夏南は――かぶりを振った。


「憶えてない、なにも。私の知ってるモモはこの子。ここに住むようになってから、この子とも仲良くなった」


 秋穂は首をさすった。

 ますます不気味に思えた。


 自分だけが憶えている。おかしくなる以前の事を、すべて。


 あるいは自分がおかしくなっているのだろうか。

 やはり以前の記憶が夢の世界で――いや、そうだったとしても、夏南にも異変が起きているのは事実だ。状況はやや異なるが、あり得ないことが起こり始めている。


 夏南もそれを自覚しているのか、モモの耳の裏をかきながら、表情を曇らせていた。


「なにが起きてるんだろ……」


「さあね。でも、このままじゃヤバいのはたしか。秋穂が受けた影響は大きいし、また何か起きないとも限らない」


 あるいは、もうすでに起きてるのかも。


 秋穂は余計な補足をのみこみ、小さく頷きだけを返した。


「なんとか解決しないとマズいよね」

「そうだけど、解決できる類のものなのかな……」

「解んない。けど、じっとはしてられないでしょ?」

「まあ……。だけど、どうすればいいかも分かんないよ」


 そもそも、何故このような状況に陥ったのかさえ解らないのだ。解決の糸口など見えない。


「とりあえず、情報を整理しよう」


 しかし夏南は冷静だった。

 モモの腹をなでると、やおら立ちあがり背を反らしてポキポキと音を鳴らした。

 そして額にうっすらと浮かんだ汗をぬぐった。


「そのためにも、まずはゆっくりできる所に移動するぞ。ここじゃ暑いし、足痺れるし。私の部屋に来なさい」


 表情の変化にとぼしい彼女が言うと、なんとなく怒られている気分だ。

 それでも、これまで築きあげてきた拙い友情から、彼女がただふざけているだけだと判った。


「承知しました」

「面接の練習?」

「イヤなこと思いださせないでよ」

「ごめん」


 緩やかな風に吹かれながら、ゆるい会話をしているうちに、一階の部屋までたどり着いた。裏から表へでてきただけで、ものの一分もかからない。


 夏南が鍵をさしこむと、ゴスンと重い解錠音が鳴った。

 秋穂はそこに微妙な違和感をおぼえた。視線がドアレバーを握った友人の手もとへ落ちた。


 透きとおるような白い指があった。まぎれもない夏南のものだった。ところどころ表面の剥げたドアも以前と変わりがない。次々ときり替わる映像に、おかしなところはないはずだった。


 だが、何かが妙だった。

 心地よく不快な感触があった。


 背中の皮がべりべりと剥がれ、もう一人の知らない自分が這いだそうとするような。傷口から自分のすべてが覗きこまれているような感覚――。


 夏南がドアをひらき、中へ吸いこまれるように消えてゆく。


 慌ててあとを追うと、ドアを押さえた夏南の輪郭が視界にとびこんできた。外界の光をうけて鈍く色をなした相貌は、あらゆる感情をそぎ落としたような無だった。喫茶店で覗きこんだものよりも純粋な無に見えた。


 そのすべてが日常という取るに足らない書物の一ページだ。

 だからこそ、改めて不気味なのだと解った。


 秋穂は違和感の正体に気づきはじめる。


「デジャヴ……」


 夏南の家にきたのは、これが初めてではない。何度も泊めてもらったことがある。だから、既視感くらい覚えてもおかしくはないはずだ。


 ところが秋穂は、既視感に既視感を重ね合わせていた。

 この場面に対する違和感よりも、違和感をおぼえること自体に違和感をおぼえていた。


 この感覚が特別なもののように思われてならなかったのだ。


「どうしたの、秋穂?」


 玄関でたち尽くしたままの友人を、夏南の大きな双眸が覗きこんだ。


「あ……」


 それとほぼ同時だった。

 あの強烈な違和感が、氷のように融けはじめたのは。


 秋穂はそれを逃すまいと胸に手をあてた。脳が痺れるほど思考をしぼりこんだ。


 しかしデジャヴは、たちまち現実になじんだ。秋穂の意志をすりぬけ、闇のなかに消えた。なにが妙に感じられたのか。目の前の現実は、ただのっぺりとリアルだった。


 秋穂は茫然として友人を見つめ返すと、頼りなく笑った。


「……ごめん、寝不足なんだよね」

「そうなの? まあ、仕方ないね。なんなら泊まってく?」

「いや、いいよ。急だし。着替えとかもないしさ」

「事前に予定組んどけばよかったなぁ」

「じゃあ、また今度泊めてよ」

「オッケー」


 なんとなく先の体験を言いだす気にはなれなかった。仮に説明しようとしたところで、上手く言葉にできたとも思えない。また整理がついたら、改めて相談すればいいだろう。


 夏南の分まで靴をそろえてから、秋穂は友人につづいて居間へ入った。


 相変わらず殺風景だ。


 二段ベッドにローテーブル、ハンガーラック以外は特に目立ったものがない。カーテンの色は紺。年頃の女の子の部屋とは思えない、地味で老成した雰囲気。せめて机上にメイク道具でも置いてあれば、かろうじて女子力を感じるが、実際に放置されているものと言ったら、教材や文庫本、それとノートパソコンだけだった。


「あれ……?」


 そこで秋穂は違和感を声にだした。

 机上の鳥籠が見当たらなかったからだ。


 しかしすぐに口を塞いだ。

 先の疑念は、秋穂にとっての認識にすぎない。


 机上に鳥籠がおかれていたのは、秋穂の記憶のなかでの映像だ。この部屋のどこかに鳥籠自体は残っているだろうが、ここにインコのモモはいない。モモは黒猫になったのだ。使う必要のない鳥籠など、わざわざ人目のつくところに置いているとは思えなかった。


「……えっと」


 ところが、ローテーブルの前で不自然に立ちどまった夏南が、縋るような眼差しを寄越した。瞳のなかの水面に、疑問符の泡がはじけて見えるようだった。


 秋穂は直感的に、一歩後ずさった。


「これから何するんだったっけ?」


 夏南の口許に、歪な微笑がはりついた。

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