第三章 齟齬

 重いウォールナットのドアを開けると、店内の空気やベルの音が爽やかだった。

 耳をおう旋律はビル・エヴァンスの「Waltz For Debby」だ。なおさら瀟洒で趣味が好い。


 けれど大学生の秋穂には、却って敷居がたかく思える。いわゆる純喫茶。内装も店員も、はては客にいたるまで品があって乱れがない。まるで自分など、澄んだ川面に落とされた一滴の墨汁のように感じられた。


 秋穂はあわてて店内を見回す。早く座らないと落ち着かない。その様子を見られるのも恥ずかしい。


 間もなく秋穂は、窓際の席でひとりじっと佇む背中を見つけた。髪型も服装も特徴的ではないけれど、決して少女でなく、老いて涸れてもいない見知った背中だった。


 おずおずと歩みより、その顔を覗きこむと二重の安堵がわいた。

 これでようやく腰を下ろせるという安堵と、彼女がたしかにここにいるという安堵だった。


 三澄夏南みすみかなは、たしかに存在していた。

 檻のような睫毛が上向き、こちらを見返した。


「え、なに、怖いんだけど?」


 夏南はちっとも怖そうな様子などなく、無表情のまま文庫本をとじてバッグにしまった。その冷たささえ感じられる態度は、まぎれもなく夏南のもので、この場に恐ろしくマッチしていた。


 純白半袖のワンピースも、まったくこの場の雰囲気に負けていない。むしろ、現実離れした静の空間を演出するための細工のようにすら思われた。


 秋穂は対面に腰かけ苦笑した。


「ごめん。ついまじまじ見ちゃった。相変わらず美人で」


「お世辞とかいいから。別人だったら困るってだけでしょ。それより秋穂のほうから誘ってくるなんて珍しいね」


「そう?」


「あんた受け身じゃん。誘えば来るけど、誘わないと音沙汰ないみたいな」


「大袈裟だよ」


 そうは言ったが、たしかに秋穂は受け身だ。あの子に会いたい、こんな話をしたい。想像はするけれど、めったに行動には起こさない。いつかあの子のほうから誘ってきてくれる、そうでなければ、その程度の関係だったのだと考えるのが常だった。


「とりあえず、なんか頼む?」


 そう言った夏南の手許には、すっかり汗をかいたアイスコーヒーがあった。約束の時間よりまだ五分はやいはずだが、もう何分も待たせてしまったらしい。


 秋穂がそのことについて謝ろうとすると、気配を察したのか睨まれた。夏南は無用な気遣いを嫌う人だった。


「……じ、じゃあ、同じやつにしようかな」

「オッケー」


 夏南は慣れた様子でふり返ると、今まさにこちらへ歩を進めた店員へ注文を告げた。ひらりと手を振って微笑めば、それだけで「以上です」の意が伝わったようだ。ほんの短いやり取りだったが、秋穂にはとてもマネできる気がしなかった。


「やっぱ夏南ってすごいよね……」

「うわ、久しぶりに会っていきなり劣等感? 相変わらずめんどくさいね」


 大仰に顔をしかめる夏南が、悪意からそう言っているわけでないのは明らかだった。こうしたサバサバとしたところが、秋穂は好きだった。


「ごめん。なんか最近、些細なことでもダメだなぁって思っちゃうんだよね」

「なんで?」

「就活でしぼられてる所為かも」


 秋穂は卑屈に肩をすくめた。


 するとやや間を置いてから、夏南がかぶりを振った。


「就活うまくいかないのは、あんたがダメだからじゃないよ。就活がクソなの。人としていくら優秀でも、結局、嘘の上手い奴が得する。やっぱクソよね」


 お嬢様然とした夏南から「クソ」という言葉がでてくるのを久しぶりに聞いて、秋穂はなんだか嬉しくなった。眼前の女性が、まぎれもない三澄夏南だと確信できたからだ。過激な物言いではあるが、しっかりとこちらを気遣ってくれているのが判る。


「夏南でもさ、自分のことダメだって思うことあるの?」


 純粋な疑問として訊いてみた。


「は? 当たり前じゃん。むしろ思わない奴いるの?」


 言われてみればそうだ。


「まあ、いないかも」

「いないいない、いるわけない。いたら絶望して舌噛みきる」

「ええっ、おいてかないでよぉ」


 冗談まじりの言葉は、一方で本心でもあった。


 藤村健吾が消息をたってから、いよいよ一週間を過ぎた。だが、その程度の時間で傷が癒えるはずなどなければ、恐怖が消えることもなかった。


 いつか夏南も消えてしまうのではないか。

 そう思って、今日の約束をとりつけたのだ。


 夏南はもちろん、そんなことなど露知らず、能面めいた無表情でアイスコーヒーをすすると言った。


「いや、そんなこと言われてもねぇ。秋穂のために生きてるわけじゃないし」

「まあ、そうだろうけどさぁ」


 夏南に面と向かって言われると、きつい言葉も苦にはならない。この子はこういう子なのだし、言っていることに間違いもない。


 畢竟、人間というものは自分のために生きている。どんな行動も感情も、突き詰めれば自分のためだ。


 だが、こうして夏南は目の前にいて、約束を反故にせず来てくれた。相手を慮る気持ちが「自分のため」だったとしても、そのために時間を費やし、気持ちよくなってくれることは、彼女が真に自分を想ってくれるからだと秋穂にはわかる。


 その証拠に夏南は、脈絡なくこうも言った。


「で、今日はどうした?」


 秋穂はこの言葉を待っていた。

 ここに至ってまだ受け身だったことに気付いた。


「えっとね……」


 それはさておき、どう切りだしたものか迷った。

 いきなり健吾の件を話しても当惑させてしまうのは明らかだ。哲学に微塵の興味も示してこなかった自分が、突然「実在性」について疑問を投げかけるというのも正気を疑われかねない。あるいは、すでに正気など保っていないかもしれないが、奇異な目で見られるのはごめんだ。


 そうして言い淀んでいても、夏南は無表情のまま待ってくれていた。

 秋穂はそんな彼女を信じた。だからこそ彼女と会って、ここにいるのだと己を奮い立たせて言った。


「……夏南はさ、夢と現実が混同することってない?」


 夏南はストローの口を噛んで、鉄仮面にわずかな怪訝の色を浮かべた。ストローの唇のわずかな隙間から、ひゅっと息がぬけた。秋穂は、なにか強い意志めいたものを感じとった。


 ところが、そこに間がわるく店員がやって来た。たちまち二人の意識は、そこに結ばれた。秋穂の目の前にアイスコーヒーが置かれ、中の氷がシャランと音をたてた。夏南が剥きだした二の腕をさすった。


「さっきの話だけど」

「うん」


 たったそれだけのやり取りに、秋穂は違和感を覚えた。

 二人の間に、薄いうすいガラスの壁が存在しているような、微妙な隔たりを感じたのだ。


 けれど会話はよどみなく進んだ。


「まあ、なくはないかなって」

「夢と現実の混同?」

「うん。どっちがどっちか判らなくなるみたいな」


 平然とした声音で答える夏南は、しかし次第にその表情を曇らせてゆく。


「気持ち悪い、感じで。なんか、自分とそっくりな、別の人間の人生を体験したような感覚が、あって」


 先程まで淡々と話していたはずの夏南の歯切れが不意に悪くなった。言っていることも奇妙だ。そんなにもはっきりとした夢を見たのだろうか。


 いや――。


 秋穂は脈打つ指を胸にあてた。

 そこには鎖に繋がれたシルバーの指輪がある。指先を這わせると、その輪郭がわかる。あるはずのない物を、はっきりと感じている。


 秋穂は互いの逡巡めいたものを切り払うように訊ねた。


「……もしかして、夏南の周りで、誰かいなくなったりした?」

「……」


 するとその時、はっきりと夏南の双眸に動揺の色がかけぬけた。

 秋穂は確信した。指輪がふいに焼けるような熱をもったように錯覚した。


 私だけじゃ、なかった……?


 しかし夏南は、すぐに例の無表情に戻り、悠然とかぶりを振った。


「ううん、誰もいなくなってない」


 夏南はそれだけ答えて、なにも訊ねかえしてはこなかった。


 微妙な違和がつきまとい続けた。

 短いような長いような逡巡が、再び膜のような隔たりをつくっていた。

 空恐ろしくなるほど、二人はまっすぐに互いの目を覗きこんでいた。


 やがて口をひらいたのは、夏南のほうだった。


「……ただ変なことが一つ」

「変なこと?」

「うん。うちに鳥籠があるの」

「え?」


 秋穂は思わず首をかしげた。

 アイスコーヒーに沈んだ氷が、その実在を主張するようにカランと音をたてた。


 夏南とは大学二年の頃、同じゼミになったのがきっかけで仲良くなった。とは言っても、カラオケやショッピングなどの「遊び」に付き合うわけでなく、ただなんとなく互いの家に泊まり合ったりして、だらだら過ごすような関係だった。


 だから夏南が一人暮らしをしていて、自炊のろくにできない人間で、部屋は汚いのにトイレはきれいで、セキセイインコの「モモ」を飼っていることくらいは知っていた。

 

「モモがいるんだから、鳥籠があるのなんて当たり前じゃない?」

「え、モモッ?」


 不意に夏南がすっ頓狂な声をあげ目を見開いた。今日の彼女は、過去のどんな彼女よりも表情の変化に富んでいた。なにかが少しずつ異常だった。


 それは夏南自身も感じていたようだ。

 すぐに額に手をあて、アイスコーヒーの残りを一気にのみ干した。静謐に満ちた店内を、ストローのズゾゾという音がかき乱した。客の何人かが、眉根を寄せて夏南を一瞥した。


 夏南はそれに構わず、ストローから口を離すと大仰な溜息をはいた。


「……秋穂に誘われた理由がわかった」


 秋穂にも、その言葉の意味が少しずつ理解できてきた。

 だからこそ、何もかも解らなかった。


「秋穂の知ってるモモは鳥なのね?」

「うん……」


 夏南がもう一度嘆息を吐きだした。

 そして窓の外を見つめた。


 秋穂もつられて外を見た。

 夏の近づきつつあるその午後は、暑さと気怠さに蕩けて見えた。


「私の知ってるモモは……猫よ」

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