第二章 歪曲

 そっと輪に指を通すと、ひんやり冷たかった。

 誰の温もりもない金属の感触。

 シルバーの表面には、泣き腫らした目で自分を見返す自分の姿がある。


 歪んだ景色の中、背景はうつろだ。

 それをともに覗きこむ人はいない。小さく歪な世界のなかに、自分だけが閉じこめられてしまったような気がする。


「どうして……」


 鍵のかかった部屋。ぴたりと閉じたカーテン。

 密室のなかで呟いた秋穂の声は、淀んだ空気の充満する部屋に、すんと吸いこまれ消える。


 自分ごと、そうやって消えはしないだろうか。


 秋穂は新聞についたシミを思いだしながら、何度となくそんなことを思った。


 しかし秋穂は、ここに存在している。

 シルバーの指輪がうつす自分の姿は、歪んでいてもはっきりとそこにある。


「どうして――」


 秋穂はその先の言葉を呑みこんだ。

 いや、呑みこんだのではない。嗚咽がこみあげ、声にならなかったのだ。


 こんなとき、背を叩き頭を撫でてくれる人がいたはずだった。

 しかし藤村健吾は、もうこの世のどこにも存在しないのだ。


                ◆◆◆◆◆


 健吾は、五時までに帰ると言っていた。

 ところが、その時間を過ぎても一向に連絡がこない。


 不安がないと言えば嘘になる。しかし秋穂は、さほど重大事には感じておらず、焦りもほとんどなかった。


 健吾は、ズボラだからだ。


 自分を支えてくれる素敵な彼は、勉強もできるし顔も悪くない。けれど人間、誰しも欠陥を抱えているもので、健吾もその例外ではなかった。誰に対しても優しい仏のような人間性は、ときに鷹揚に過ぎる。要するに、時間にルーズなのである。


 もしかしたら、寝ているかもしれない。


 そんなくらいに考えていた。

 実際、約束をすっぽかして眠っていたことなど数えきれない。そのたびに秋穂は眉をつりあげて怒ったが、人は簡単に変わらないものだ。秋穂のほうが先に折れ、彼のスタイルに合わせるようになった。


 しかし約束の時間を、一時間、二時間とすぎても、未だ連絡ひとつない。

 これはさすがに起こすべきか、と苛立ちまぎれのモーニングコールを送ることにした。


 スマホの連絡帳から「藤村健吾」の名を探す。


「あれ……?」


 ところが、妙だ。どこにも健吾の名前が見つからない。

 健吾の連絡先なら「プライベート」グループに保存されているはずだが――。


「間違えたかな……?」


 そういえば、以前、連絡先の整理をしたことがあった。その時、誤ってグループを変更してしまったのかもしれない。昨日は連絡をとったから、うっかり連絡先を削除したということはないだろう。


 秋穂は言い聞かせるように、考えをめぐらせた。

 だがその時すでに、言い知れぬ不安を感じていた。ぐしょぐしょに濡れたベッドの中で目を閉じたような気持ちだった。


 そして、不安は的中する。


 どのグループを探しても「藤村健吾」の名前は見つからなかったのだ。


「そんな、なんで……!」


 血の気がひいてゆく。画面をスワイプさせる指先から、希望がぽろぽろと崩れ落ちていく。あるいは指先に凝っていく。正体不明の恐怖と焦りが。


 秋穂はスマホの中をくまなく探す。

 どこへ行っても行き止まりだった。


 そして着信履歴にたどりつき、息を呑んだ。


「どうなってるの……?」


 履歴の数が、目に見えて減っていたのだ。母からの電話がほとんどで、男の名など一つもない。友人のものなら幾つか残っているものの、最後の履歴は二ヶ月も前のものだった。


「……ない」


 健吾の履歴は、ついに見つからなかった。連絡先どころか、交流の痕跡すらないのだ。


「……ッ!」


 秋穂はつき動かされるように、家をとびだした。


 辺りはすでに暗闇のなか。遠方の空に、夕焼けの残滓がうっすらと帯をなしているのがわかるばかりだった。


 秋穂はかまわず走った。

 闇の懐でねむる準備をはじめた街の中を、ただひたすら爆走した。


 すぐに息が切れた。肺をめぐる空気が無数の刃のように感じられた。脹脛は鉛を詰めた風船のようだった。


 それでも走り続けた。不安が勝っていた。


 健吾のアパートへたどり着いたときには、全身が汗にぬれ、ふみ出される一歩は奇妙に交錯していた。


 ボロボロだ。

 だがもう少し。

 指先が自然とセキュリティドアの暗証番号を打ちこんだ。


 とろとろとドアが開きはじめる。とても待ちきれず、隙間へ無理やり身体をねじこんだ。


 三階まで駆けあがる。踊り場で足がすべった。


「ン……たッ!」


 秋穂はおおきく体勢を崩したが、壁に手をつきなんとか堪えた。摩擦で肘があつい。皮がすり剥けた。些細なことだった。

 

 健吾の部屋は305号室。

 

 302、303、304――305、あった。

 ネームプレートはない。どの部屋にもない。だが、ここに健吾がいる。はっきりと憶えている。今朝このドアをくぐり、健吾と別れたのだ。


 秋穂は汗にねばついた指をインターホンに押しつけた。

 中で跳ねた音が、くぐもって漏れだす。すかさず足音がつづいた。


 とたんに秋穂は、疲れも忘れ胸をなでおろした。


 よかった。いる。


 間もなく、ガチャと重い音がひびき、ドアが開かれた。


「ハイハイ。あれ……?」

「え……?」


 ドアの僅かな隙間。

 それを通して、二人はしばし見つめ合った。

 

 片や首をかしげ、片や悪夢を見るような目つきで。


「えーっと……どちら様、ですか?」

「え、えっと……えっと……」


 パニックだった。

 頭のなかが真っ白にはじけ、なにも考えられなかった。


 目の前の青年に、まったく見覚えがなかったからだ。


「あ、もしかして部屋間違えたとかですか? あるんです、僕も」


 青年が気遣わしげに後頭部をかいた。


 ますます血の気がひいた。

 彼の口調は、まるでこの305号室が自分の部屋であるかのようだったからだ。


 秋穂は戦慄をこらえながら、部屋のなかを指さした。


「ここ、あなたの部屋じゃ、ないですよね? 藤村、藤村健吾の部屋です」


 しどろもどろに言うと、青年はたちまち怪訝に眉をひそめた。


「はい? ここ僕の部屋ですけど……。番号305ですよ? やっぱ部屋間違えてませんか?」


「ま、間違えてません! 健吾くんは二年前からここに!」


「はぁ? 二年前から住んでるのは僕なんだけど。なんか勘違いしてるだけでしょ……」


 青年は怯えるような目を向け、ドアの隙間をわずかに狭めた。


「遊びに来たとかじゃないんですか……? 藤村健吾って名前に、聞き覚えとか……」


 不快感をあらわに、嘆息が返った。


「だからぁ……ここは僕の部屋ですって。藤村なんて知り合いいないし。……あの、そろそろ帰ってもらえませんか。僕も暇じゃないので」


 秋穂は一歩あとずさり俯いた。帰るべきだとは解っていた。これ以上の問答も意味はないと。


 しかし理解が追いつかない。

 ここは間違いなく健吾の部屋だったはずだ。アドレスも履歴も削除した覚えがない。それなのに健吾はいない。どこにもいない。まるで彼を記した歴史のページだけが、きれいに破かれてしまったかのように。


「……すみ、ませんでした」


 震える声で言った。

 小さく頭をさげ、辞去した。


 背後でドアの閉まる音。

 重くガチャリと沈んだそれが、拒絶のように響いた。


                 ◆◆◆◆◆


 頭の中が泥のようだ。

 様々な記憶や感情がめぐって、ずぶずぶと溺れてゆく。


 自分がなにを感じているのか、最早わからない。水槽の中にチューブごと絵具をぶちまけたような悲哀なのか、部屋の隅にわだかまる闇のような恐怖なのか。あるいはポケットの中から血まみれのナイフがでてきたような混乱なのか。何もかも解らない。


 だた一つだけ確かなのは、健吾がいないという事実だ。


「イヤぁ……ぁっ……!」


 秋穂は拳をかたく握りしめ、毛布のなかに縮こまった。


 手のなかに指輪の硬い感触がくいこんで痛んだ。

 おもむろに手をひらき、改めてその表面を見つめた。毛布が光を遮って、マヌケな顔が見返してくることはない。鈍い光だけが散っている。


「じゃあ、これは……?」


 このシルバーの指輪は、交際一年の記念に健吾がプレゼントしてくれたものだ。

 無骨な印象で、秋穂が身につけるにはハードなデザインだが、彼からのプレゼントは嬉しかった。指紋をつけるのが嫌で、ほとんど触れずに大切に保管してきたほどだ。


 それがここにある。


 健吾は、まるでその歴史そのものが失われたかのように姿を消した。

 昨日まであった連絡先が、突如消滅し、アパートには別の青年が住んでいた。それもあの青年は、健吾が住みだしたはずの二年前から住んでいるとまで言ったのだ。


 まったくわけが分からない。分からないが、もし、健吾の存在が消えてしまったのだとしたら、この指輪はなぜここにあるのだろう。


 ちぐはぐだ。

 やはり悪い夢なのかもしれない。


 だが、アパートまで駆けだした際の苦しみはリアルだった。こみあげる衝動がなければ、あのまま肺が焼けおちて死んでしまったのではないか。そんな風にさえ思える。


 いや、それさえも錯覚なのか。


 夢の多くは忘れられる。楽しかったことも辛かったことも、忘却の箱の中にしまわれ、また新しい朝がやってくる。それでも憶えている夢は、ときに現実よりもリアルだ。感情だけでなく、快楽も痛みも、肌のしたで疼くように残ることがある――。


「……あっ」


 秋穂は、不意に胸を鷲掴まれるような恐怖を感じた。実際に、胸を押さえ喘いだ。


 たちまち歯の音があわなくなる。頭からつま先まで、全身がガタガタと震えだした。


 そもそもが間違っていたのではないか。 


 秋穂はそれに気付かされたのだ。


 健吾と指輪。

 その齟齬が、今を悪夢ではないかと言い聞かせた。


 だが、彼との記憶が深く根付いているからと言って、どうしてそれを現実だと言い切れるだろう?


 健吾のいた世界こそが、長いながい夢だったとしたら?

 決して覚めてほしくない甘い夢だったからこそ、こんな風に自分を偽っているのだとしたら?


 自分は一体どこにいるのだろう?

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