第一章 空白

 新聞に目を通していると、次第に文字が流れていく。読んでいるという感覚はあるのに、情報が一切入ってこないのだ。まるで形をもった空白。あるいは、積みあげることのできない積み木のようだ。


 松村秋穂まつむらあきほは、天をあおぎ、目頭をもみほぐした。

 その拍子に、コップに腕が触れた。


「……おっと!」


 幸いコップは倒れなかった。中の麦茶が踊るように前へ後ろへゆれ、重いしずくが縁に弾けて、少しばかりテーブルや新聞を汚しただけだった。


 秋穂は、それをすぐに拭きとろうとはしなかった。新聞の行間に落ちたシミを見つめる。じんわりと拡がり文字を侵していく。豪雨にみまわれて氾濫する川のように。


 氾濫……それもいいかも。


 秋穂は茫洋として、そんなことを考えた。

 よんどころない事情によって午後の就職面接がなくなれば、ろくに読めもしない新聞を読んだり、胃をしめあげる痛みに悩まされたりする事もなくなるからだ。


 しかし秋穂の日常は、シミのない空白に過ぎない。

 新聞が語りかける世情は、遠い現実であり、繋がった糸はもろい。


 要するに、微睡むほど平和であり、面接の時刻は不確実な確実のもとにやってくる。もとより逃げ場などないのである。


「ああ……」


 重い現実の感触を肩からふり払い、秋穂はあわてて台拭きでテーブルを拭った。買い換えたばかりの台拭きは、却って水を弾き、テーブルの表面に、しみだした樹液のような跡を残した。


「はァ……」


 なにもかもが億劫だった。


 いっそ、この世界が消えてなくなれば、面接も将来もないのに。

 近頃、考えることはこんなことばかりだ。


                 ◆◆◆◆◆


「あ、うん、そうねぇ……。なるほどね」


 三人の面接官が、互いの目配せで嘲りと呆れを表現する。


 見慣れたものだ。これで、いよいよ三十社目になる。

 嫌でも感じとれるようになってくる、「不採用」の気配。ダメならダメとこの場で告げて、さっさと家へ帰してくれはしないだろうか。秋穂は何度そんなことを思ったかしれない。


 しかし面接官たちは、疲弊した雰囲気を発散しながらも「もう結構です」と、この場をきり上げたりはしない。秋穂がそうできないように、互いが形式に囚われ時間を浪費するのだ。


「じゃあ……松村、さん?」


「は、はい!」


「えっとね、自己PRここに〈想定されるリスクを考慮し、計画的に行動できます〉ってあるね」


「はい!」


「あのさ、君って人間でしょ。動物じゃないよね?」


「え? あ、はい」


 正確にいえば人間も動物だろう、と思ったが口には出さなかった。

 すると面接官は、つけあがったように肩をすくませ大仰な溜息をついてみせる。


「じゃあさ、誰にでもできるんじゃないの? そんなこと」

「え? えっと……」


 困惑する秋穂を前に、メモをとっていた面接官たちがクスクスと笑いを忍ばせた。質問した男などは露骨に口端をあげ、嘲弄の様を隠そうともしない。


 それでも秋穂は、なにか適切な答えを返そうと頭をフル回転させる。すでに「こんな会社、こっちから願い下げだ!」という思いは、むくむくと育ち根付いていたが、なんとかこの意地悪な大人たちに一泡吹かせてやりたかった。


 しかし、答えは一向にでてこない。今朝の新聞に滲んだ水滴のように、焦りが拡がってゆくばかりだった。


「……じゃあ、質問かえるよ。想定されるリスクって具体的になんなの? それってさ、まだ就職してない君に判るの? ウチがどんな仕事してるか解ってる?」


「そ、それは……」


 その時、声を震わせながら答えようとする秋穂を、これまで一言も発しなかった面接官の声が遮った。


「あー、ダメですよ。パンフレットに書いてある情報とか、ね? ワタシたちは、マニュアル的な答えなんて期待してないんで。いるんですよねェ。アナタみたいな、ネットで拾ってきた? 与えられた情報しか答えられない子って」


「……」


 畳みかけられた秋穂は、唇を噛んで俯いた。

 その様を見て、先の男が鼻で嗤った。


「ほら、最近の子はコレですよ。怒られると、すぐしょんぼり。ちょっと叱られるとね? 辞めちゃうんです。困るんだよなァ」


 彼らが不満のはけ口として、狙いを定めたのは明らかだった。

 最早、彼らは「松村秋穂」を見ていない。彼らの目に映るのは「近頃の若者」に過ぎない。粘ついた声音が、就職面接などどうでもいいと語り聞かせるようだった。


 ――結局、秋穂がこらえきれず涙を流すまで嫌味は続いた。


「……し、失礼、しました」


 会場をでると、秋穂は急かされるように外へとびだした。途端に、つよく乾いた風が頬をかき、涙の痕をけずり取った。しかしその上から、また新しい滴が線をひいた。


 悔しかった。

 面接官に意地悪なことを言われたのもそうだが、耐えかね涙してしまった自分が惨めでならなかった。「近頃の若者」像を、自分が舗装してしまったような気がした。


 秋穂は誰にも顔を見られぬよう、俯きながら歩いた。慣れない地域の歩道は大きく歪んで見えた。


                ◆◆◆◆◆


 その日、スーツから着替えた秋穂は、そそくさと家を出た。


 両親と顔を合わせても、変に気を遣われるのは判りきっていたからだ。

 今は、憐れみの視線さえ苦しい。家の中でさえ牢獄のように思える。父との会話の最後、決まって放たれる「頑張れ」の一言を聞いたら、怒り狂って暴れだしてしまうかもしれない。


 ずっと頑張ってきた。だから、これからだって言われなくても頑張るだろう。

 それでも内定が下りないのは、頑張っていないからではない。頑張っていても、報われないことはあるのだ。


 それを理解できる人間が、どれだけいるだろう。


「辛かったね……」


 甘い囁きが、黒々とねばついた意識から、秋穂を引きずりあげた。


 見上げれば栗色の瞳が見下ろしている。

 それだけで秋穂のまなじりに涙の粒が浮かんだ。


 両親では決してくれない言葉を、彼だけは――藤村健吾ふじむらけんごだけはもっていた。そして彼は、その繊細な言葉の一つひとつを、望んだときに必ず差しだしてくれるのだった。


 男らしく骨ばった手が、頭を撫で、するりと髪を梳く。その束が絹のように流れると、心まで解きほぐされるような気がした。


「うん……。もうイヤ。就活なんてやめちゃいたい」


「だよね……。俺も来年から就活だって思うだけで、胃が痛い。ずっと学生のままでいられたらいいのに」


 健吾の歳は、秋穂のひとつ下だ。だから実際の就活の苦しみは、まだ知らない。

 それでも、陳腐な想像から考えを否定せず、同調してくれるのが頼もしかった。無責任な激励の言葉など、決して彼の口からは出てこない。


 秋穂は愛しい生身の胸のなかで、そっと涙を流す。

 これは日々の懊悩の中から濾しだされた苦痛だ。あるいは、頼れる人がここにいるという事実に感銘する今だろうか。


 どちらでもいい。


 重要なのは、自分がここにいるという事実だった。

 面接会場でなく、窮屈な家でなく、健吾に抱かれてそっと瞼を閉じる今が、自分を生かすすべてだった。


 秋穂は潤んだ瞳で、改めて健吾を見上げる。

 その柔い微笑を飼う相貌が、たまらなく愛おしい。汗ばんだ背中にするりと指を這わせ、胸元から首へ、頬へ、口づけする。傍らに見える耳朶の色は赤。樹上に熟れた果実のように鮮烈だった。


「……ねぇ、もう一回」

「うん」


 熱い吐息が返ってくると、優しくベッドに押さえつけられた。

 まっすぐにこちらを見下ろす瞳は、逆光にかげって見ることができない。表面だけが微かに光って、刃の切っ先を思わせた。


 健吾の肩の上には、常夜灯の明かりが鈍く光りつづけている。夜空を燃やす赤い月のように。


「ンっ……」


 首筋を這った舌の感触に震えながら、秋穂は思った。


 刃と赤い月。

 なんと妖しい夜だろうと。


 目があう度、なにかが疼いた。

 自分を包んだ皮がスッと刃に切り裂かれ、隠された烈しい本性を剥きだされるような気がする。自分が自分ではない、なにかになっていくような。恐ろしい快楽が四肢を融かしていく。


 しかし、それも束の間のこと。

 健吾との時間は白昼夢めいている。


 わかっている。自分の深い部分が。

 この夢が覚めるとき、また平凡で最悪の日常が返ってくることを。



                ◆◆◆◆◆


 人は特別になどなれない。

 自分を特別だと思ってくれる相手がいたとしても、誰より自分が特別からほど遠い凡愚であることを知っているからだ。


 秋穂の胸には乾いた風が吹いている。


 磨りガラスから濾された光は頼りなく、廊下はうす暗い。それでも最奥に鎮座する玄関のドアは、薄闇の中にあってなお重い存在感を示していた。


 健吾との別れを目前にするたび、永久とわの寂寥を感じてしまう。一時の別れだと思えないのだ。なにも持たず、ただ人に頼ることしかできない自分など、いずれ見限られてしまうのではないか。そう思うのだ。


 玄関に立って、秋穂は恋人へと振り返る。

 柔和に微笑み、首をかしげる健吾の姿。まだ微かに少年らしさを残した、けれどその大人びた風貌に焦がれる。今すぐ首筋に抱きつき、鎖のような愛を叫びたかった。


 けれど、できない。鎖は必ずしも相手を縛るものではないから。誤れば、じりじりと己の首をしめてしまうかもしれない。嫌われたくなかった。


 だから言うのだ。

 互いの幸福を想像しながら笑み「またね」と。


「うん、また。一人で大丈夫?」


 大丈夫じゃない。


 秋穂は思わず首を横にふろうとしたが、ぐっと堪えた。


「……大丈夫だよ」

「そっか、ならいいんだけど」


 少ない荷物を手に、秋穂は玄関のドアレバーに手をかける。


 その瞬間、憂いの塊に、どんと胸をつぶされるような気がした。


 今日、面接の予定はない。あの張りつめた空間のなかに出向く必要はない。

 しかし、家中に健吾はいない。優しく抱きしめてくれる温もりはない。履歴書をかき、暗い将来について延々と考えなければならない。「頑張れ」の一言と向き合わなければならない。耐えなければならない。


 掴んだレバーがひどく重い。まだ夢のなかに溺れていたかった。


 その石のように固まった背中を、健吾が呼んだ。


「……アキちゃん?」


 その甘い声音に、秋穂は思わず振り返っていた。荷物を落とし、胸のなかへ飛びこんでいた。涸れた息がのどを焼いた。もう何もかもが怖かった。


「大丈夫……ではなさそうだね」


 健吾がやさしく背中に手を回す。肩甲骨の間を、ぽんぽんと叩いてくれる。


 その優しさに甘える。ダメだと解っていても。離れられず求めてしまう。

 それなのに目を合わせるのは怖くて、ただ胸のなかに顔をうずめて言った。


「……今日も、泊まっていい?」


 答えなど知っている。健吾は理由もきかず、ただ頷くだろう。

 そして、実際にそうした。


「いいよ」


 心の砂漠が、瞬時に潤うのを感じた。深いふかい海のような安堵があった。

 だが海の底にも闇がこごるものだ。

 健吾が優しければ優しいほど、正体不明の罪悪感が膨れあがり、自分を惨めに感じるのだった。


「でも、昼間は一緒にいられないよ。講義があるから。アキちゃんは、このまま家にいてもいいけど。そうする?」


「ううん……。一回、帰る。もう着替えないし」


「分かった。じゃあ、帰ったら連絡する。五時までには帰ると思うから」


「うん。ごめんね……」


 謝ると、健吾がそっと身を離した。

 それだけで、途端に心細くなった。


 恐れをふり払い、その栗色の双眸を覗きこんだ。

 すると健吾の長い指が、まなじりに溜まった涙を拭った。


「謝らなくていいから。それより、本当にひとりで大丈夫?」


 秋穂は洟をすすり、荷物を拾いなおした。


「大丈夫。子どもじゃないんだし」

「俺より年上だもんね」

「バカにしてる?」

「ちょっとね」


 秋穂は唇をとがらせ、さっさと踵を返した。

 もう随分と身体が軽い。今夜のことを想像するだけで、生きる気力がわきあがってくるようだ。


 再びドアレバーへ手をかけた時だった。

 不意に、耳朶へ息がかかった。胸の前に腕をまわされ、汗のにおいがやんわりと鼻腔をめぐった。


「愛してるよ」

「うん。愛してる……」


 愛おしさが燃えあがり、腹の底で渦をまいた。

 しかし秋穂は、衝動をこらえた。

 次の夢のために今は、夢の世界からでてゆくことにした。


 ひょいとレバーを下げる。

 ドアに眩しい切れこみ。

 その隙間にとんと踏みだして、愛しい彼に手をふった。


「またあとで」

「うん、あとで」


 それが藤村健吾と交わした、最後の言葉だった。

 

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