リライト

笹野にゃん吉

プロローグ

 僕は書いている。

 物語を書いている。


 舌の痺れるような熱いコーヒーをすすりながら。香りを吸いこみ、肺のなかの空気をグルグルと回す。液体が胃の腑に落ちて、じんわりとしみる。ほんのりとした苦みはあとからついてくる。そのすべてが言葉である。


 僕は物語を書いている。


 ペンを握る指先の、その微かに冷たい感触。キーボードを打つと返ってくる、爽やかな躍動。文字をおう僕の眼の表面に、無機質で熱いものが流れていく。そのすべてが言葉である。


 僕は物語を書いている。

 あるいは物語の中にいる。


 窓辺に寝そべった黒猫の、そのつやつやとした毛並み。ぴんとはねた一本の先端が、陽光をうけて光の珠をえがく。猫があくびをして伸びると、その黒く小さな草むらに、光の川がキラキラと流れる。


 だが、そのいずれも正しく、正しくはない。

 僕はただ、この眼が、この心が「これだ!」と声をあげるものに対して従順なだけに過ぎない。


 真実のなかにコーヒーはないかもしれない。喉を通るものはひんやりと冷たく、脳を溺れさせるような甘さに満ちているかもしれない。


 僕は文字を書いていないかもしれない。ペンやキーボードがあるとも限らない。


 猫の体毛は白かもしれない。窓の外は闇かもしれない。


 僕がここにいるという保証もない。


 茶色い液体に垂らしたコーヒーフレッシュ。とぷんと沈んで螺旋をえがく。その茶と白の境界はやがて融け、元のどちらでもない何かになる。


 もっと別のなにかである。僕が「これだ!」と声をあげる以上の、あるいはそれ以前の何かである。言葉である。間隙という間隙にしみ、融けた、一つでも二つでもない、言葉以上の言葉である。その深淵は宇宙ほども深く、あるいは宇宙そのものであり、もしくは言葉ですらないのかもしれない。


 僕は書いている。

 物語を書いている。


 斑模様の犬をなで、真っ新な紙面にほほ笑み、ミルクセーキを吐き捨てながら。

 

 また無数の文字を、世界を、物語を紡ぐのである。

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