(9) Synchronicity Ⅰ
弥生とタイムシーフの元に空智嬢が訪れたその日のその同時刻、関東と関西でまったく同じ内容が話され、そして結論も似通ったものになっていた。
ジャパンカップに関することだ。
滋賀県栗東の会合は松川厩舎の応接室で行われた。盾やパネルが部屋の側面に並んでいる。その記念の飾りで中央でのGⅠは1つだけだが、松川厩舎は積極的に地方競馬に参戦するので、地方競馬のGⅠは5つあった。
南條慶
松川龍士
伊木兼二郎
石本隆士
以上の4名。
会合に参加する南條は、スケジュールをつけるのが最もむずかしいジョッキーの一人だ。全盛時は殺人的なスケジュールだったものの、さすがに今は少々余裕がある。それでも、もう引退してもおかしくない年齢になっても、相変わらず多忙を極める。これは南條の、騎乗の才能以外の部分が大きい。通常どの競技でもトップの人間というのは当たり障りのないことを繰り返すだけの口下手が多いが、南條は、ときにブラックジョークともとれるようなウィットに効いたコメントを発する。また全体的に如才ない。トップアスリートには珍しく、座持ちするのだ。だからメディア側が使いたがる。今年も、秋の競馬繁忙期に入ってから取材やメディア露出がグンと増えていた。それでも、現在最も有望株の素質馬に関する会合ということで、なによりも優先させた。
松川は調教師なのでこの会合の出席は当たり前のことだ。馬主と共に、主役と言える。ジョッキーがいなくてもローテーションは決められるが、調教師がいないと話にならない。
松川のとなりに座るのは、フレアの担当厩務員の伊木だった。松川厩舎はスタッフを手厚く扱うことで知られていた。管理馬のローテーションに関する打ち合わせに担当厩務員を一枚噛ませるというのも、その大事に扱うことの一環だ。話の輪に入れることで、いい作用が2つ生まれる。まず、厩務員のモチベーションが上がる。重要な話に加えてもらい、意見まで聞いてもらえれば、当然やる気も出るというものだ。
そしてもう1つは、馬に接している者の生の感覚を馬主につかんでもらえることだ。調教師からの説明を受ければ馬の状態は分かるが、現場の者の声は、さらに感覚的なものまで伝わる。
会合参加者で最後に部屋に入ってきたのは、馬主の石本隆士だ。彼こそ、この出席者の中で最も多忙を極める男だった。
製造業の代表取締役を長年務め、中央競馬に登録する馬は200頭を下らない。最大の大馬主の一人と言えた。
彼はプルートーの馬主の沖島と共に、弱小厩舎に馬を預けることで知られていた。また、管理馬の諸々に口を出さないことでも知られていて、勝ち星の少ないジョッキーを乗せ続けても文句ひとつ言わない。厩舎、ジョッキー、生産者のだれもから慕われる男だった。
「遅れてすみませんでした」
石本は3人に、丁寧に詫びた。遅れたといっても、たったの2分である。
「それでは皆さん揃いましたので、本題に入ろうと思います」
松川が言う。これがこの調教師のいいところで、余計な言葉で飾ったりなどしない。「みなさんお忙しいでしょうから」という言葉すら端折る。実質本位の男なのだ。これは言葉だけでなく、仕事にも通じる部分だ。
「残念ながらフレアは、ジャパンカップに出られません」
このことを完全に知っていたのは厩務員の伊木だけだったが、もちろん南條と石本もこのことは予測していた。
「賞金順で除外になるわけだね?」
「そうです」
石本の問いに、松川が短く答えた。
中央競馬の競走馬には、実際に稼いだ賞金額の他に、『収得賞金』というものが各馬に記録されている。これは、馬のクラス分けに使われる、言ってみれば持ち点のようなものだ。中央競馬の馬は、未勝利クラス、1勝馬クラス、2勝馬クラス、3勝馬クラス、オープンクラスと分けられていて、オープン以下のクラスは勝つと収得賞金に1着賞金が加算され、クラスが上がっていく。3勝以上すると最高位のオープンクラスに入るが、そこで収得賞金の加算が打ち止めになるわけではなく、その後も勝つごとに積み重ねられていく。またオープンクラスにはGⅠ、GⅡ、GⅢとグレードレース(重賞)があるが、このグレードレースでは2着馬も収得賞金が加算される。
例えば、4勝してオープンクラスに上がったばかりの馬と、オープンクラスでさらに5勝目をあげた馬では収得賞金額がちがう。
そしてこのオープンクラスでは、とても簡単に言ってしまうと、出走したい馬がフルゲートを超えた場合には収得賞金が高い順に出走権利が生じる。実際にはもう少し複雑な計算法なのだが、簡単に言えばそうなる。つまりは、たくさん勝っている、あるいは重賞2着に入っている馬が、人気の大レースに出やすいということだ。
レース数が多くないまま一足飛びに頂点に駆け上がってきたフレアは、その才能ゆえに、収得賞金が積み重ねられていない皮肉な事態に陥ったのだ。
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