(8) 2週後に迫るジャパンカップ
空智嬢が去ったあと、今度は弥生がタイムシーフの傍に寄った。
「おとうさん……」
目の下から、鼻にかけてやさしく撫でる。繰り返し、繰り返し。
「おとうさん、フォックストロットはとても心配してくれて、わざわざここまで出向いてきてくれたのよ。その彼女の思いを、受け流しちゃわないで」
撫でながら、涙声で言った。フォックストロットが言っているように、この馬体はもうボロボロだ。数々の激走で痛めつけられている。おそらくは、それは憑依している者にまで及んでいることだろう。おとうさんは、毎日、毎晩、苦痛にさいなまれているにちがいない。
「フォックストロットに従おうよ。ねぇおとうさん」
弥生は本音を言った。
―― そう、なんだろうな。
弥生の頭に御崎矢紘の声が流れる。苦し気な、掠れた声。それが、意に沿わない言葉を吐き出したがための掠れ声か、極度の疲労からきている掠れ声か、分からない。しかしとにかく、初めて、ジャパンカップを回避することを示す言葉を弥生に送ったのだ。
「そうだよ、おとうさん」
弥生は耳元に顔を近づけて言った。そうすることで、少しでも言うことを聞いてくれるんじゃないかというかのように。
―― でも……。
「でも? でもって、なぁに?」
―― フォックストロットの言っていることは分かるんだが……。
「分かるんだが、なに?」
弥生が聞く。
―― ジャパンカップを……。
さらに苦しげな声。
「おとうさん、ねぇおとうさん、ありがとう。私を出させたいんだよね。でも今、まともに走れない身体なんだから、出たって意味がないよ。ねぇそうでしょ!」
―― しかし、すぐには決められない。弥生、決断まで少し時間をくれ。少しだけ……。
『気』が戻るかどうか時間稼ぎをしたいという意味もあるのかな、と弥生は思った。ちょっとでも『気』が充填してくれば、出ると言い出さないだろうか。それが怖い。だからできれば、今、回避を即決させたい。弥生はもう一度、お願いした。
―― 時間は取らないから、気持ちを整理させる間をくれ。フォックストロットが言っているように、レースに近付くほど回避が大きな問題になることは承知している。だから少しだけだ。少し時間をくれ。
「でも……」
―― 今の今まで、とにかくなにがなんでも出る気だったんだ。自分でも『気』が体内から抜けてしまっていることは承知していた。だから正直、困っていた。焦ってもいた。それでも、回避という選択肢は自分の中にはなかった。だからちょっとだけ、気持ちの整理をさせてくれ。すぐには言いたくない。
「分かった。おとうさんの判断を信じてるから」
その訴えに弥生は折れ、待つことに決めた。そして、ひとりになりたいという御崎矢紘の言葉に合わせ、厩舎の方に戻っていった。
この日、関西の栗東トレーニングセンター、そして都内で、会合が行われていた。
栗東トレセンの方の出席者は4名。南條慶、松川調教師、厩務員の伊木、そしてフレアの馬主の石本隆士。ジャパンカップのための会合だった。
都内の方は、もう少し人数が多い。マルク・ミシェル、生名調教師、そしてブライトホース・レーシング・クラブの幹部4名と広報担当者の7名。こちらもジャパンカップについての話し合いだった。
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