(7) フォックストロットの訴え
タイムシーフと空智嬢は長いこと見つめあっている。おそらく、互いの頭の中に言葉を送りあって話をしているのだろうと、弥生は思った。
ただ、その会話が、弥生の頭の中には流れてこない。シャットアウトされている。こんなに近くにいるというのに。弥生は2人の会話を聞いてみたい好奇心を持っていると同時に、聞けなくてホッとしている部分もあった。
10分、20分と時間が経つ。その間、どちらも微動だにしない。
「弥生っ」
空智嬢がようやく動いたかと思うと、弥生の方に向いて、歯切れよく呼んだ。
「はいっ!」
手招きもしている。弥生は彼女の、そしてタイムシーフの元へと向かっていった。
「あなた、ちょっと乗ってみて」
「えっ、乗るって?」
「これによ」
と、タイムシーフを指す。
「い、今ですか?」
「そうよ。ほら早くぅ。今なら誰の目も向いてないから」
「でも、鞍が」
鞍も付けないで乗れと言うのだ。弥生は困惑した。
「ちょっと跨るだけだからそんなものいらないわ。すぐ下りていいから」
弥生はタイムシーフを見た。そして同時に、
「いいの?」
と、聞いた。拒否の姿勢を示すようなら、乗ることなんてできない。相手は自分のことを知り尽くしているおとうさんなのだ。乗せないように動き回るはずだ。
しかし、タイムシーフはおとなしくしている。さらには、乗りなさいとでも言うように、首をサッ、サッ、と右に振った。
「さぁ、人が来る前に早くっ」
せっつくフォックストロットに背中を押されるように、弥生はタイムシーフの右側にまわった。そして本物の空智嬢なら絶対にできないような騎乗の補助動作を、憑依された空智嬢にしてもらい、弥生は3冠馬の背に乗った。
空智嬢がすかさず前にまわり、しゃがんで人馬を見つめた。
ジーッと、見る。無言で。険しい表情で。ジーッと、ジーッと……。
そしてフゥと一つため息をつき、スクッと立ち上がった。
「弥生、下りていいわ」
「いいんですか?」
「あぁ。人が来ないうちに早く下りろ」
今度は下りることをせっつく。まったくもう、と少々腹を立てながら、弥生は下りた。
空智嬢が数歩進んで、またタイムシーフの前に立つ。そしてじっと目を見つめたかと思うと、大きく数回、ゆっくりと首を振った。
「なにをしているのか、教えてください」
弥生は気になって、空智嬢に言った。
「分かるでしょ?」
空智嬢はタイムシーフを見つめたまま、言った。
「なんとなく、は……」
「弥生、あんたの考えているとおりよ。タイムシーフの身体にどれくらいの『気』が残っているのか、見たのよ。あの馬券師のおじさんが言ってたみたいに、あんたが乗れば『気』が外に出てくるはずだから」
「それで、私が乗ったとき、どうでした?」
「聞きたい?」
「もちろんっ!」
空智嬢は腰に手を当てて一瞬天を仰いでから、
「すっからかんよ。閃光の1本も飛び回っていない」
首を振りながら、言った。そして、
「ジャパンカップは回避した方がいい。いや、絶対に回避するべきよ」
と、付け加えた。
弥生は、タイムシーフに顔を向けた。タイムシーフの姿をした、天才ジョッキー御崎矢紘に。
「矢紘はどう思ってるか、気になるのね。当然、納得してないわ。2週間あれば戻るって言ってる。でも無理に決まってる。こんな状態で出たって、脚が動かないで大差でシンガリ負けよ」
タイムシーフが、ブルンブルンと首を振った。「いや、絶対に出るんだ!」と言い張るかのように。
空智嬢が、ツイと前に出た。タイムシーフの、目と鼻の先に。怒鳴り散らすのだろうか、ひっぱたくのだろうかと、弥生は緊張してこぶしを握った。
しかし弥生の心配は外れた。空智嬢はタイムシーフの鼻筋をやわらかく撫でた。
「矢紘の気持ちはよく分かる。タイムシーフへの憑依は今年いっぱい。それまでに一つでも多く、弥生に大舞台を踏ませ、そして勲章を与えたい。分かる。でも、それが今回は絶対に逆効果になる。3冠馬がみっともないシンガリ負けなんてしたら嵐のようなバッシングを受けるわよ。今回強行したら、弥生にとって逆効果になる」
空智嬢は撫で続けた。
「だから言うことを聞いて。とにかく今回は回避して、回復に努めましょう。そして、有馬1本に目標を絞るの。私としてはこんなボロボロの身体で有馬記念だって出てほしくないけど、矢紘は私の力では止められないでしょうから。だから妥協案なんだけど、有馬記念1本にして」
タイムシーフは納得していないようで、首を横に向いてジッとしている。
「矢紘、矢紘はジョッキーの頃、「一流の者の意見は、とにかく聞いて咀嚼する」って、何度も何度も言ってたわよね。忘れてないわよね」
タイムシーフが顔を前に向けた。
「私だって、一流でしょ。あなたがよく知ってるでしょ」
空智嬢は、撫でながら言った。
「だったら、私の意見を、よく咀嚼して。お願い」
そう言って、ツツッと数歩下がり、
「出走回避は、早ければ早いほど波紋を呼ばないわ」
空智嬢はそう言い残し、クルッとタイムシーフに背中を見せて歩いていった。
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