第332衝 木枯の鑑連
筑前に木枯らしが吹いている。
「殿!」
小野甥と備中が鑑連に追いついた時、すでに秋月勢は退却を開始していた。あちこちに三つ撫子の旗が倒れ、血を溢れさせた武者が倒れている。戸次隊は整然たるもので、一見しなくても、鑑連隊の大勝利のようだが、
「殿、筑紫勢が近づいています。狙いはまず間違いなく殿です」
「あのガキも、裏切ったか」
「はい。鎮理様が筑紫勢への対処に出撃されました。また、今の敵も秋月勢の本隊ではありますまい。まずは由布様と合流し、高橋隊とともに筑紫勢に当たるべきです」
「フン、筑紫のガキを殺すなど造作もない」
「常であればそうでしょう。ですが、今や日向における義鎮公の大敗、秋月も筑紫も喧伝していること疑いなく、となると、佐嘉勢もこの動きに加わっている可能性があります」
「む」
「寄せ集めとは言え、秋月勢、筑紫勢、佐嘉勢が合流すればその数、万を超えます。殿と鎮理様の手勢では、数に劣ります。ここは確実に、可能な限り敵を潰しておかねばなりません」
そこに、高橋武士が近づいてきた。
「申し上げます!近辺の諸城、当方を裏切り敵方に寝返っている可能性がございます!戸次様におかれましては、くれぐれもご用心頂きたいと、主人よりの連絡です!」
それを聞いた備中、つい叫んでしまう。
「ね、寝返りの可能性とはいかなることですか」
「鎮理様の命令に背いて、出陣命令に応じないということでしょう」
「そ、そんな城が幾つあるのですか」
「少なくとも十は!」
つまり、高橋勢はそれだけ数が少ないということである。こ、これは拙いのではないか。
「おい」
血や臓物が引っ掛かっている槍を手にした鑑連が恐るべし風貌で高橋武士に言う。
「その不届き者どもが、確実に裏切るかどうかは、この戦いにかかっている。死に物狂いで戦え。少なくとも、ワシの言葉に鎮信は応え、こんな雑魚どもよりもずっと手ごわい安芸勢を撃退したのだ、と、鎮理に伝えろ」
その言葉に胸打たれた様子の高橋武士、深く頷いて馬で駆けて行った。
「小野」
「はい」
鑑連は先ほどの小野甥の提言に対して、堂々たる言葉を返した。
「国家大友は揺らいでいるが、こんな時に裏切る者などたかが知れている。卑しむべき者どもだ。そう思わんか?」
「はい」
「備中、貴様は?」
「は、はい。私も……」
そう思います、の言葉が出てこなかった。一つの懸念が喉に引っ掛かったためである。そして、自然なほど、鑑連の言葉に背く言葉が発せられた。
「ち、筑紫殿は、平時、殿から侮辱を受けておりました」
「なに?」
「あ、秋月種実にとって、殿は父と兄の仇です」
「備中殿」
「こ、これは殺せるときに殺しておかなかった、天の報いかもしれません」
「ワシに対してのか?」
「こ、国家大友に対しての」
鑑連も、小野甥も沈黙してしまう。が、備中は続ける。
「他にも殿や国家大友に恨み持つもの、この筑前には数多く存在します。宗像家も、麻生家も、原田家も。まだ帰趨が判明していない彼らが仮に裏切ったとしても、それは恨みを買い、怨念を適切に処理できていなかったため、ということになります」
鑑連は未だ無言だ。だが、小野甥が備中に反論する。
「備中殿、それは一理あるようですが、正当な批判とは言えません。仮に秋月種実を殺せば、安芸勢が黙ってはいなかったでしょう。筑紫広門は、斎藤殿を通して吉弘家の、ひいては大友家の遠縁という事になります。この人々を処断する権限は、殿には与えられていない」
確かにそのとおりである。そして、筑前を統治する鑑連の諸行を日々間近で見てきた森下備中は、言われずともそのことを承知していた。よって、こう言うしかない。曰く、
「な、ならば、やはり国家大友、特に義鎮公に対する天の報いということになります」
その時、木枯らしが強く吹いた。冷たい空気が、皆の心を冷やしていく。とどのつまり、この争乱も大友義鎮その人が招いた行為というのは、自明である。それが親政の結果であるならば、田原民部のような老中達どころか鑑連や田原常陸のような大物にも如何ともし難いということになる。寒風とともに胸に去来するこの虚しさは、むしろ裏切りを企てる者たちにこそ正義があるのではないか、という疑問をも彷彿とさせる。
それでも鑑連は戦い続けるしかない。筑前を統治する地位を得た事は鑑連の名誉であるし、彼の如く誇り高き男が主人を見捨てるなどという不名誉に耐えられるはずがない。
恐れを知らぬ発言をしたにも関わらず叱責を受けなかった備中は、鑑連の真意を理解できた気がした。きっと、全てが自分で蒔いた種でないと、言い切ることまでは出来ないのである。であるのならば、鑑連は武者である以上、敵と戦うしかないのだ。
今の空虚感の上に天道があるのだとすれば。備中にはふと、今は亡き石宗の高笑いが聞こえたような気がした。鑑連は備中と小野甥に何も言わなかった。ただ、その目はすでに次の敵を見定めていたのだろう。次の戦場へ向かって馬首を向け、先頭を切って進むのであった。
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