第5話 燕から逃げたはずの俺の元に玉座が迫ってきた

 その報せが来たのは、戦いの準備を終え、明日以降のためにそろそろ寝とこうか、と言ったタイミングだった。


「ほ、報告! 慕容沖ぼようちゅう様が周辺勢力をまとめ上げ、挙兵! 苻堅ふけんに宣戦布告いたしました!」


「はぁ!?」


 眠気も、ここ最近のドタバタでの疲労も、一気に吹き飛んだ。


 もちろん悪い意味でだ。俺のプランは、飽くまで慕容暐ぼよういをトップに据えることだった。ここまでの号令も、慕容暐復帰を旗印にしてきたからどうにかなってた、って言っていい。


 その慕容暐を、俺らはまだ苻堅のもとから助け出せてない。


「ちょっと待て! 暐はどうなった!」


「ご家族ともども、皆殺しの目に遭った、とのことです!」


「――だろうな、くそ!」


 慕容沖の恨みの深さを甘く見てた。あいつにとって苻堅は、故郷を滅ぼした仇ってだけじゃない。


 あいつは、さんざん苻堅に犯され続けてきた。

 自分自身の手で、なんべんだって苻堅の奴を殺したいとは思ってただろう。


 あいつの復讐、むしろ手伝ってやりたいとは思ってた。

 だが、今苻堅に死なれると、状況がまるで読めなくなる。

 だから慕容沖には、慕容暐の奪還だけを依頼してた。


「すぐ沖に文を送れ! こうなった以上、暐の弟であるあいつが皇帝に就くべきだ、と! その上で、速やかに撤収してこい、と伝えろ! こっちもバックアップはする!」


 慕容沖は、俺の言うことを半分だけ聞いた。


 皇帝位には就いた。だが、俺らのほうに戻ってくるつもりはない、って言う。


「叔父上のご厚意はありがたくいただきたい。しかし苻堅に対する叔父上の態度はまったく納得がいかない。おおかた、苻堅を殺したくないがための方便なのだろう。ならば、私が奴を討ち果たし、叔父上の目を覚まさせて差し上げよう」


 そんな内容の文が返ってきた。


「――バカが、そう言うことじゃねえんだよ!」


 怒りにまかせて、俺は手紙を壁に叩き付けた。


 たちの悪いことに、この挙兵で慕容沖は、将軍としての才能を一気に花開かせてたようだった。


 周辺のアンチ苻堅の勢力を吸収、一大軍勢として成長。ついには苻堅を城に追い詰めた、って言う。


 なるほど、ひとときは天下すら狙った奴を追い詰められりゃ、そりゃ慕容沖がつけ上がるのも分からなくはない。


 が、あいつはやばい勘違いをしてる。


 苻堅の強さの源は、周辺勢力をほぼ無傷のまま吸収していったところにあった。


 淝水ひすいでの大ゴケのあと、そう言った奴らはほとんど独立。次の天下を狙ってる。


 つまり、今の苻堅を追い詰めるのは、言うほど難しくもない。

 むしろこれで慕容沖が苻堅を倒しでもしたら、周りの奴らはこれ幸いと慕容沖を狩りに来るだろう。ターゲットがチョロくなった、ってな。


 冷静さを取り戻せさえすりゃ、自分がどんだけピンチに追い込まれてるのかも気付けただろう。だが、こうなりゃもう無理だ。せめて、あいつが無事に苻堅を倒せるよう、祈るしかない。


 何せ、俺は俺で想定外にぶち当たってた。


 俺らの故郷を占拠してた、苻堅の息子、苻丕ふひ

 奴が防備をきっちり固めて、立てこもってきやがったんだ。


 俺が変に慕容沖の救援に向かおうとすれば、苻丕は背後から俺たちを狙ってくるだろう。


 ただでさえあっちこっちをさまよってる俺の軍は、ちょっとのダメージが致命傷になりかねない。補給線は、とにもかくにも、薄い。


 まずは拠点を確保できなきゃ、次の動きなんて考えられるはずもない。だから、動くわけにはいかない。故郷を取り返して、初めて次の手が打てる。


 不毛な戦いは続く。


 時は、いたずらに過ぎていく。





 苻堅が死んだ。


 といっても、慕容沖が殺したわけじゃない。むしろ慕容沖はやつを取り逃がした口だ。そして苻堅は、逃亡先で別勢力に捕まり、殺された。


 目的を見失った慕容沖は、どうもその後無軌道に暴れ回ったらしい。なので、臣下に恨まれ、殺された。タイミングさえ違ったなら、あいつこそ燕を率いてたかもしれないってのにな。無常なもんだ。


 慕容沖を殺した奴らは、そこで内輪もめだなんだを繰り返して行きながら、それなりの勢力を築く。っが、その頃には周辺の勢力も十分に大きく育ってた。西に姚萇ようちょう、北に拓跋珪たくばつけい


 そういや、王猛おうもうが奴らの名前を挙げてたっけな。

 全くのご慧眼でいらっしゃる。


 掲げるべき頭を失ったえんは、俺を皇帝に、って押し上げてきた。


 冗談じゃない、そう言いたかった。さんざ戦い続けて、もう俺はへとへとになってた。これ以上俺に何しろって言うんだ。


 だが、他に適任もいない。ひとまず仮で戴冠の儀式を執り行い、手下……じゃないな、もう。臣下に号令をかける。


 一つに、都の奪還。

 一つに、「先帝を殺した」不届き者の殲滅。


 とは言え、都はあっさり開城された。

 苻堅の死を知った苻丕が、決死の覚悟で城を脱出。父亡き後の故国へと馳せ参じようとした。


 俺としちゃ、城さえ取り戻せるなら奴に関わる義理もない。特に追撃もかけず、見送った。


 もっとも、晋の奴らには手紙を送ったがな。「苻堅の息子がロクな供もつけずに移動してる」って。その後襲撃されただ、殺されただって話は聞いたが、まぁ、それだってどうでもいいことだ。





 懐かしき燕の旧城、謁見の間に入る。


 長らく、見上げてきた玉座。階段を上り、腰掛ける。


 玉座を温める主が帰ってきたことに、臣下たちが万歳を斉唱する。


 俺はといえば、ただただ、疲れ切っていた。


 かく兄貴を喪ってこっち疎まれ、殺されかけ、逃げ出して。

 ひとときは、自らの手で滅ぼしまでした国、燕。

 そんな国の頂点に、なぜか俺が立った。


 兄貴たちが、クソ叔父貴が、今の俺を見たら、なんて言うんだろうな。


 巡り合わせの皮肉に、俺は、笑うしかなかった。

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