第4話 淝水でずっこけた苻堅をそれでも守った俺偉い

 苻堅ふけんの、けどあの思い込みこそが、奴をのし上がらせたのは間違いない。


 周辺の敵を次々と倒しちゃ配下に加えて、気づけばあいつの配下は、この辺のオールスターズみたいなメンツになってた。


 ただし、どいつもがほぼ認識を同じくしてた。

 あいつの下で様子見とけ。どうせあいつはコケる。そこまでに、どうウマい汁吸って体勢整えとくか。


 そして苻堅は実際に、しんとの戦いで、コケた。


 淝水ひすいって言う川のほとりでコケたから、大体淝水の戦いって呼ばれる。が、ケチのつき始めはもっと手前からだった。


 もともと晋軍を率いてた将軍の名前は、桓温かんおん。ただこいつは王猛おうもうと同じくらいのタイミングで死んだ。


 一番厄介な奴が死んでくれた、これなら勝てる! 苻堅は盛り上がったもんさ。


 だが強ええ将軍ってのは、サブもまた強ええもんだ。奴の場合は副官の謝安しゃあんと、弟の桓沖かんちゅう。この二人が、とことんまでに苻堅の攻め手を台無しにしてくれた。


 俺らと晋との間にゃ、二つのどぎついバリアがある。


 滔々と流れる大河、長江ちょうこうと、その手前にでかでかと広がる湿地帯だ。


 普通に突っ込もうとしたら、沼地に足を取られる。で、そう言った場所での戦いに慣れてる晋の奴らにボコされちまう。


 沼地を避ける為にゃ、長江の上流から船で攻める必要がある。つまり、晋を攻めるために取れるルートは二つ。西と、北だ。ここをどう攻略できるかって考えなきゃいけない。


 が、いきなり西がコケた。


 戦いの指揮を執ってきたのは、桓沖。


 苻堅は、奴らが築いた前線基地を落とすのにすげー手間取った。しかも、やっとこさ基地の隊長、朱序しゅじょを捕まえた頃にゃ、もう川に至るまでのルートは完全に守りが固められちまってた。


 戦ったら、勝てないこともないだろう。が、勝つまでに食らう損害が大きくなりすぎる。だから苻堅は、長江を下るルートを諦め、湿地帯攻め一本押しを選んだ。


 この時、配下の意見は真っ二つに割れた。

 もともとの配下たちは、反対。

 俺らを含む、苻堅の天下取りごっこに巻き込まれた奴らは、賛成。


 何せ三國志さんごくしの時代、曹操そうそうは、西回りだけでを攻めようとして、赤壁せきへきで失敗した。その後湿地帯回りで攻めしようとして、今度は合肥がっぴで失敗した。それも、何度も。


 そう言う失敗から学んで、晋は北と西との両面作戦で呉を滅ぼし、天下を取ったんだ。


 だってのに、また苻堅が同じ失敗を繰り返そうとしてる。

 なら、俺らは喜んで賛成するに決まってる。苻堅にコケてもらえりゃありがたいからな。


 王猛の時と同じように、反対意見こそが正しいんだ。

 っが、天下統一なんていう絵に描いた餅を食いたい苻堅は、正しくない俺らの意見を重視した。


 そして、俺たちは淝水に臨んだ。

 そこで、信じられないものを見ることになる。


 ぱっと見でも、苻堅軍と晋軍とじゃ5倍近い兵力差があった。苻堅軍に負ける要素はない、はずだった。


 突如そいつが、ズタズタになっていった。


 きっかけは、軍中から上がった声。

 最後尾辺りにいた俺にも聞こえてきたから、相当大きな声だ。


「苻堅が死んだ! 苻堅が死んだぞ!」


 聞き覚えがあった。


 声の主は、朱序。

 西部の前線基地で苻堅に捕まり、そのまま配下に加えられてた武将だ。


 奴は一部隊長にしか過ぎない身ながら、散々苻堅を苦戦させ、さらには降伏の際、涙する部下たちを慰めて回ってた。


 いかにも苻堅好みな奴じゃあった。

 が、そういう奴が、心底苻堅に忠誠を誓うわけもない。


 朱序の声と、晋軍の動きはばっちりリンクしてた。あらかじめ示し合わせてたんだろう。


 もともとやる気がなかったことに加えて、朱序の、この叫び。

 多くの軍は、これ幸いと体勢を整えて撤退を開始した。


 が、苻堅本隊はそう言うわけにも行かない。

 大混乱の中に、もみくちゃにされてる。


 朱序の叫びは、考えるまでもない。デマだろう。

 だが、このままほっとけば、本当に苻堅がくたばることだって有り得る。


「おまえら! 出るぞ!」


 手下たちに号令を掛ける。

 目指すは、苻堅。奴を混乱から助け出し、無事に城まで帰す。


 俺なりの、最後の恩返しだ。





「納得がいきません」


 馬首を並べて、慕容沖が呟く。


 ちらりと、後ろを振り返る。

 馬上でうなだれる苻堅に、憎々しげなまなざしを飛ばす。


「混乱に乗じて、殺してしまえば良かったでしょうに。なぜ叔父上は、あのクズを助けるのですか?」


 元はえん国に鳴り響く美少年として知られたその顔も、今じゃすっかり恨みつらみに縁取られて、ずいぶんな面構えになり果ててる。


 あの沖をここまで歪めちまったんだ。そう言う意味でも、苻堅は許しがたい。


 だが。


「恩はある。が、それ以上に、メリットが大きい。あの男が覇者として相応しくない以上、俺たちがたてまつるべきは、おまえの兄貴だ。違うか?」


「違いません」


「暐を皇帝に返り咲かせて、燕を復活させる。その際、いやでもドタバタはある。だが、ここで苻堅に死なれてみろ。ほっておけば苻堅に向くはずだった奴らまで、こっちにも向いてくるんだぞ」


「……!」


 はっと気付いたようになる、慕容沖。


 そう。苻堅の部下どもはオールスターズ状態。苻堅さえいなきゃ、それぞれが各エリアで王さま張れるような奴らだ。


 ほうぼうに飛ばしといたスパイからの話じゃ、どいつもが今回の苻堅の大ゴケも予想して、ほとんど損害を出してないって言う。


 この状態で苻堅をぶっこ抜けば、いきなりバトルロワイヤルが始まっちまう。そんな事になったら、事態の予測がつきづらい。


 だから、苻堅サマにはいったん城に戻っていただき、城で滅んでいただいた方が、何かと都合がいい。ひとまずの矛先が、全部あいつに向かってくれるしな。


「いま、俺らの故郷にゃ苻堅の息子がいる。俺は奴から、城を取り返す。沖、おまえは苻堅のところから暐を連れ出してくれ。そいつさえ叶えば、晴れて燕は復活だ」


 我ながら、どの口で言ってんだろうな。

 故郷を滅ぼしたのは、他ならない俺自身だ。


 ただし今となっちゃ、慕容の一族の中でも、俺の発言力が一番大きい。苻堅を見捨てるってんなら、俺自身が音頭を取るしかない。


 その代わり、飽くまで大将は慕容暐。そいつが筋ってもんだ。


 慕容沖にも、言いたいことはいろいろあったんだろう。だが、黙り込んだ。

 俺とあいつとじゃ、動員できる兵の数が違いすぎる。俺が慕容暐を連れ帰ることはできるだろう、だが故郷の奪還は、慕容沖じゃできない。


 それぞれがやれることをやる。ベストを尽くす。慕容沖の地頭は、下手すりゃ一族でも一番だ。やるべきこと、その必要性は感情に優先される。


 ――そう、信じちまったのが、俺の失敗でもあったんだがな。


 本拠地までの安全が確約されたところで、俺は苻堅に別れを告げた。


「この状況じゃ、苻堅サマの息子だってピンチだろう。あのあたりは、一度捨てたとは言っても、俺の故郷でもある。あんたの息子を、故郷を守るために出向きたい」


 俺の発言を聞いて、周囲の奴らは、当たり前だが猛反対だった。


 そりゃそうだ。他のもと配下どもと同じように、俺が裏切らないなんて保証は全くない。っつーか、現に裏切る気満々だしな。


だが、苻堅は周りを一喝する。


「慕容垂はここまでぼくを守ってくれた! それが何よりの忠誠の証だろうに! なのに、この期に及んでなぜ疑う!」


 本当、冗談も大概にして欲しいと思ったね。


 だが、やつは本気だ。


 本気でこう言う奴だから、ここまでのし上がれた。そして、こう言う奴だから、滅ぶ。


 表向き感激した振りで頭を下げ、あとのことを慕容沖に任せ、別れる。


 そこからは時間との闘いだ。辺り一帯のフワフワした勢力をまとめ上げながら、燕復活奪還の準備を整える。


 ――だが、そんな俺の目論見は、みごとに慕容沖の暴走でぶち壊しになってしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る