欠落へ伝う
欠落へ伝う①
昼のピークも越え、訪れる客の数が少なくなってきた。再び忙しくなるのは学生や社会人が帰宅する夕方からだが、俺はその前に寄りたいところがあったのではやく上がらせてもらうことにしていた。
コンビニのチェーン店でバイトをしていたが、俺が住んでいる場所からは少し遠い。あまりに近いと行き来には便利だが、知り合いに見つかる可能性も増すので二十分ほど自転車を漕がして通っていた。それでも知り合いに見つかることはままあるのだが、まじないのようなものだと思って諦めている。
都心部から少々離れた立地のおかげで客のほとんどは代わり映えしない顔ぶれだ。ビジネス街にあるコンビニなど、この場所の倍以上の忙しさを伴うだろう。考えるだけでぞっとする。
更衣室で私服に着替え、ロッカーからショルダーバッグを取り出す。使いはじめて五年も経つせいか、使い込まれた風格とやらはなく、たんにぼろのような見た目となっていた。そもそもこれは合成皮革だから使い込んでも味など出るわけもない。
俺は裏口から駐輪場に回り、店の入り口付近を掃除していたひげ面の店長に一声かけていく。店長からの威勢のよい返事と笑い声が鼓膜をびりびりと震わせる。自分の声量の倍で跳ね返ってくる声に俺は苦笑した。
店長は気がよく、面倒見の良い今時珍しいタイプの中年男性だ。聞けば妻子を持っておらず、急病で倒れた母親を心配して、仕事を辞めてここに居着いているという。
だからなのか、アルバイトの若者たちに恋愛事情を聞きたがる困った癖がある。ちなみに本人は「女性社員からいくつも引き留める声が上がったがすべて振ってきた」と得意げに話しているのだが、その話が持ち上がった途端、ものの数秒で別の話題を誰かが提供することが暗黙の了解となっている。
『いい人だとは思うけど、あのタイプは苦手だわぁ、わたし……』
顔立ちも中身も濃い店長は他人から好かれやすいが、異性としての評価には難あり、といったところだった。俺も上司としてはありがたいが、親戚としてはご遠慮被るところだ。
同性として店長への無言のエールを送りつつ、サドルにまたがってペダルを踏んだ。この自転車も友人から譲り受けて以来の年代物だ。
『どこか寄る?』
愛茉音は好んで自転車の後部車輪の上に横向きに腰掛ける。『あまりこうして自転車に乗ったことないから新鮮』ということらしい。
俺は脳内で寄り道先を告げ、速度を出すためにいったん立ち漕ぎをした。
どうでもいいのだが、自転車にも乗らないという妄想様は、いったいどこのお嬢様をトレースしてできたものなのか自分の謎は深まるばかりである。
そのときの愛茉音は肩をすくめて苦笑いを浮かべていたらしいのだが、背後を確認するすべがない俺には気付くよしもない。
平日ということもあって利用者の数はそこまで多くなかった。公共施設で義務づけられつつある、アルコールの消毒液を手にすり込みながら施設の中に入った。
バイトをはじめた当初は図書館など目もくれなかったが、ここ最近調べ物や集中したいときにたまに利用するようになった。図書館は市が経営するものなので蔵書量はそれほどでもない。ここを利用する理由のひとつは二階の一部を勉強部屋と称して開放されていることだった。
俺は早々と二階に上がり、近くの学校から帰ったと思われる中学生に混じりながらテキストを広げた。
『試験、来週だっけ。簿記検定とかいう』
半分顔を出すような姿勢で反対側から参考書を覗く愛茉音が思い出すように話す。俺はその問いに首肯を返す。
検定試験の勉強をはじめたのは二年ほど前からだ。もっとも本腰を入れはじめたのは半年前だが。簿記検定は定職に就く際に有利になる、という情報を聞いてから取りかかってみたのだった。
お世辞でも頭の出来がいいとはいえない俺は繰越利益剰余金やら、固定資産除却損という言葉が紙面に踊るたびに頭を悩ませていた。しかし眠気と戦いながらテキストと向き合っているうち、ようやく勝手がわかってくるようになった。
ただ、反対向きにテキストを読む愛茉音の半眼は、親の敵でも見るような嫌悪感に満ちあふれており、いっこうに理解できそうな気配は見られない。
愛茉音と出会ったのはそういえば資格の勉強に本腰を入れはじめたその頃だった、と記憶している。はじめのうちは得体の知れない幻覚に頭を抱え、精神科医の門戸を何度叩こうと思ったか気が知れない。しばらくしてからとくに実害がないことを悟り、精神医学的な妄想ということで片付けるに至った。普通に妄想というとやましいイメージを抱かれがちなので補填しているだけなのだが。
『うーん、何度読んでもわかんない……。不向きなのかな』
幾分か悔しがるトーンをにじませながらも、去り際にはじゃ、という軽い一声が告げられ、愛茉音の姿は視界から掻き消える。
俺が把握するところによると、愛茉音は俺が潜在的に出てきて欲しい、と願うことによって会話することが可能なようだ。
たとえばバイトに勤しんでいるときや、こうして静かに集中したいと願っているときは絶対に顔を見せない。こういう点からやはり都合の良い妄想、という結論に落ち着く。
とにかく、閉館時間までテキストに集中することにする。バイト上がりで重くなる目蓋をこすりながら俺は練習問題を解いていった。
二時間が経過して目と肩に疲れを覚えてきた。椅子に座りながら軽く背筋を伸ばしてから手荷物を片手に立ち上がる。
図書館での楽しみが増えたことがある。帰り際に一階に降りて小説の棚を覗くことだ。
それというのも、今日と同じような時間に帰ろうとしてふと思い立ち、館内を歩き回っていたことがあった。要するに暇つぶしに順繰りと棚を巡っていくこと数分、海外作家の小説が揃えられている棚を過ぎざまに愛茉音がぴくりと反応を見せたのだ。
『あ、椿姫。たしか前読んだことあるのよ』
普段から本屋にすら寄らない身分からすれば、当然小説など手に取る機会もなかった。手に余るといってもいい。
愛茉音の半透明な指先が指し示すタイトルを手に持つと、椿姫とよばれる娼婦と主人公である青年との悲恋物語、とある。
周囲に人影がないことを確認してから俺は傍らに小声で問いかける。
「面白いのか?」
『面白いっていうか……なんか、報われないな、ってかんじ。愛し合っているのにどうしてこんなにすれ違ってばかりなのかなって。愛と憎しみは紙一重、って聞くけど、そうなのかも』
愛茉音から小説の話題を聞くのははじめてだったので意外に思った。そもそも俺は愛茉音を単なる妄想と思っているので内面事情を気にしたことはない。
「読んだことあるんだよな?」
念を押すように俺が問うと、愛茉音は長い黒髪を揺らして首を傾げた。
『あるはず……なんだけどね』
なぜか答えに窮する彼女に俺が疑いの眼差しを向けると、自分でも理解が及ばない記憶に悩ましそうにしていた。
『読んだ感想は出てくるんだけど、なんか、実感が湧かないっていうか……。本当に読んだのかな、って自信が持てない感じ……。すっごく気持ち悪い……』
愛茉音自身も自分が知っていたことについて信用が置けないようだった。
なおも唸り続ける愛茉音を無視して、気まぐれに件の本を借りようと脇に抱えようとしたとき、彼女から忠告された。
『あ、アキヒトはまだ無理じゃないかな。もっと薄めの本でないと挫折するよ。せっかく興味持ったんだし』
そんなものだろうか。たしかに活字媒体なんて学生生活以来だからもう四、五年も昔のことだった。在学中も好んで本を読んでいたわけでもない。そのあたりのことを思い出すと胸がざわついた。
気を取り直し、愛茉音からフォローを受けつつ本を探してみる。どうやら愛茉音の記憶にあった本はあまりなかったらしいが、日本人作家からミステリを試しに二冊ほど借りることにした。
「愛茉音は本をよく読むのか?」
『暇だったしね。たしか。きっかけはそんなことだった気がする』
図書館の蔵書量にひそかに不満そうに腕を組みながら彼女はそう答える。
俺は相づちを打ってそれ以上踏み込まないことにした。
それからというもの、読解力を鍛えるのにも一役買い、たまに数冊程度を借りるようにしていた。毎回適当に借りるため、難解で一向に読み進められない本は貸出期限を過ぎたこともあったが、顔なじみとなった司書の女性が大目に見てくれていた。「どうせこんなの誰も借りないわよ」という言葉は優しさを見せてくれたということで解釈したい。
今日も貸し出しカウンターに座っていたのはその人で、軽く世間話をしながら手続きをすませてくれた。仏頂面で感情めいたものはほとんど浮かばない人だったが、最近になってどうやらそれが普通らしいということがわかったので気兼ねしなくなった。
受け取った本が入った貸し出し専用の袋を鞄の中に入れると、晩飯の献立を考えながら図書館を出た。
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