談話 at ヴィックトロイゼン城 応接室

「とっぽとぽ♪ 魔女の差し水、とっぽとぽ♪」

「――ん?」


 俺の腕の中にいるお嬢が、ゆらゆらと身体をゆすっている。


「とっぽとぽ♪ 魔女の差し水、とっぽとぽ♪」

「……お嬢。さすがに差し水の魔法であれは消えないだろ」


 そう言ったが、お嬢はにまにまと得意気な顔でとぽとぽと機嫌よく歌っている。まさか、と後ろを見ると――、


「ごぼごぼごぼごぼごぼごぼ……!!」

「じゅ、ジュディス――――――!!!」

「勇者、逆さにして! 逆さにして水を吐かせるのです! い、いきますよ。せーのっ!」


 差し水をダイレクトに口の中へ注がれたジュディスは、白目を剥いて立ったまま気絶している。それを勇者とジャンが担ぎ上げて頭を下にしようとしているのだが、なかなか上手くいかないようだ。


「……お嬢、これは本当に死ぬかもしれないからそろそろ止めろ」

「そうね。火の玉も消えたし、許してあげる。全く、こんなことですぐ消えるんだから、人間ノーマンの魔法も大したことないわねぇ」


 やれやれ、なんてため息混じりに指をぱちんと鳴らすと、逆さにしてもお構いなしに注がれ続けていた水は、ふ、と霧になって消えた。


「私達はね、戦うのは専門じゃないけど、これくらいは出来るの。次はどっち? どっちのお口の中に流し込んであげようかしら?」

「うっ……さすがは本物の魔女……」

「こんなところで油売ってないで、とっとと魔王様のところに行きなさいよ。それとも今度はあなたの喉の中をカラッカラに乾燥させたって良いのよ? なぁーんにも飲み込めなくなっちゃうんだから」


 お嬢はそう言って、俺の肩越しにびしっと2人を指差す。

 乾燥って……それ、雨の日とかに薬草を急いで乾かす時のやつだろ? そんな風に使うなよ。


「何と恐ろしい魔女だ……。勇者、ここは一旦退きましょう」


 いまだ意識が戻らないジュディスの傍らで跪いているジャンが、勇者を見上げそう言った。

 ピンク色の甲冑は、ジュディスの口から跳ねたお嬢の差し水によって、煤がところどころ流れている。それでも出会った時の輝きを取り戻すことは難しい。


「何……? 退く……?」

「そうです、勇者。私達の目的はこいつらじゃない、魔王です。魔王さえ倒せばこの世界は私達人間のものです」

「うるせぇ! 俺に指図すんじゃねぇ! この俺様がっ! このっ、勇者ハロルド様がっ! こんな雑魚魔女ごときに背中を見せられるかぁっ!」

「ちょっと、勇者……っ!?」


 ハロルドという名前だったらしいその勇者は剣を抜くと、距離を一気に詰めながらそれを大きく振りかぶった。


 速い!


 危ない、と思った時には既に遅かった。

 彼のその刃はまっすぐにこちらへ向かって来たのだ。


 ラッキーだったのは、お嬢がまだ俺の腕の中にいたということだ。だから、切られるとしても、それは俺だ。俺が傷つくのは良い。俺だけなら良い。でも、お嬢は駄目だ。お嬢だけは。


 が。


 俺の背中に触れたのは、その冷たい刃ではなかった。

 ふわりと柔らかく暖かな風が優しく撫でただけだった。


 何だ?


 と、ゆっくり振り返る。

 そこにいたのは――、



 巨大な竜だった。

 夜の闇より深い色のマントを身に纏った、紫色の鱗を持つ、巨大な竜がそこにいた。

 鋭い牙が覗く大きな口からは、呼吸の度にちりちりと蛇の舌のような細い炎が顔を出す。その身体は怒りの為か小刻みに震えていた。


「おー、アレックスじゃん。迎えに来てくれたの?」

「うむ」

「ていうかさ、ずっとつけてたのってアレックスでしょ」

「むむ。なぜバレた」

「バレてなかったよ。いまわかったんだもん」


 ローラはさらりとそう言って、彼のマントをばさばさと振った。

 これ、洗いたて? 良い匂いするじゃん、なんてことを言いながら。怒りに燃える勇者が目の前にいるというのに緊張感の欠片もない。


「おい、お前が魔王か!」


 その巨体の向こう側からそんな声が聞こえる。王の身体が大きすぎて俺の視界のすべてが彼だ。とりあえず彼が来たから大丈夫かと、ほんの少し力を抜く、と。


「……ほ、ほわぁぁぁ……。苦しかったぁ~」

「すまん、お嬢。つい」

「もう。……別に良いけど。お迎え、来たみたいね」

「そのようだな」


 

「貴様が勇者だな。まったく、寄り道などせずにまっすぐ吾輩のもとに来れば良いものを」

「うるせぇ、どこに寄ろうが俺の勝手だろ」

「そうはいくか。各地を荒らし回っただけでも万死に値するが、よりによって貴様、王国庭園の妖精を盗んでくれたな。どこへやった」

「売りさばいたよ。世界の境界に行くとさ、結構良い値で売れるんだ。王国あそこのは質が良いからな。その金で仲間の装備をそろえさせてもらったってわけ。ほら、俺にはさ、伝説の武器やら防具やらがあるけど、こいつらにはねぇから」

「貴様……!」


 ぶるり、と再び魔王の身体が震えた。

 ぐるる……と地の底から響いてくるような、恐ろしい唸り声が聞こえる。


「その上、貴様は決して許されないことをした。よくも我が妃とその友人に刃を向けてくれたな」

「……何? お前の妃だと?」

「許さんぞ、勇者。いますぐここで消し炭になるか、それとも吾輩の玉座の間で消し炭になるか選べ」

「抜かせ、魔王! ここが貴様の墓場だぁぁぁぁぁ!」


 勇者ハロルドが再び大きく剣を振りかぶった。

 しかし魔王は動じない。動じないどころか――、


 さく。


 全く動かなかった。

 つまり彼はその刃を彼自身の身体で受けた、ということである。


「……まーたアレックスはそういうことする」

「いや、剣の腕と切れ味を確かめておこうと思ってな」


 え? そんな反応なの?


「それで? どうなん。危ないの? 危なくないの?」

「ふん。危ないわけがなかろう」

「だよねー」


 いや、脇腹から血が噴水のように吹き出してるけど。


「どうする、イルヴァ。さすがに同胞が目の前で消し炭になるのは辛かろう。先に城へ送るか?」

「べっつに。あんなのと一緒にしないでよね。あたしはもう……ほら」


 する、とケープを脱ぐ。どうやら彼女のワンピースは背中の部分が大きく開いていたらしい。その大きな穴から、ばさ、と。


 小さな羽が生えていた。


「――人間じゃないもの」


 

「羽が生えてる! ちっちゃいけど!」

「は、羽? ノーマンの背中に!?」



「こ、こら! 人前でそんな! か、かかか隠せ!! 肌をそんなに見せるものではなかろうに!」

「えー? 良いじゃん。別にさー。ずっと押さえてるとちょっと苦しいんだよねぇ」

「それにしても、それはちょっと背中が開きすぎなのではないのか。も、もう少し背中を見せぬように加工出来たはずだぞ」

「良いじゃん、最近あっついんだもーん」

「む、むむぅ……」


 ばさばさと、小さな羽をはためかせつつ、小さなローラは自分の倍以上の大きさの魔王に向かって、べぇ、と舌を出している。そんな小さな人間の妃に対し、魔王は精一杯背中を丸めているのだ。傍から見ればどちらが魔王かと首を傾げたくなるような光景である。


 と。

 

「俺を無視するなぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 勇者が叫んだ。

 その声でジュディスも気が付いたらしく、いつの間にか現れていた魔王の姿に「何で?!」と驚いている。


「案ずるな、勇者よ。ちゃんと聞こえておるわ。ただ――」


 さっきまで小さな愛妻と必死に目の高さを合わせようと背中を丸めていた魔王が、その身体を、ぬぅ、と伸ばした。彼は再び勇者達を見下ろすと、さっきまでとはまるで別人のように低く恐ろしい声で、ぐるる、と唸ってからこう言った。


「虫けらの声に逐一返答してやれるほど、吾輩は暇ではないのでな。祈りたければいまのうちに済ませろ。面倒だから束になってかかって来るがよい、愚か者どもめ」


 地獄の底から響くようなその声に、冷たい汗が流れ、寒くもないのに身体がガタガタと震える。そんな声が聞こえた後で、辺りは一瞬にして深い闇に包まれた。




「――オリヴィエ殿、サルメロ殿、イルヴァが世話になった」

「いえ、どういたしまして」

「イルヴァよ、何やら美味そうなものを食べていたな」

「うん。美味しかった。今度はさ、一緒に食べに行こうよ」

「むぅ……しかし……吾輩も色々とやることがだなぁ」

「ちぇー」


 勇者に切られた脇腹の傷を治癒魔法によってあっさりと完治させた魔王は、小さな妃を片方の膝の上に座らせ、ううん、と唸っている。とはいっても、その唸り声には恐ろしさの欠片もない。


「魔王様、私思うんだけど」


 勧められた茶を、今度は我慢したりなどせずにずずずと啜ったお嬢が口を開いた。もちろん、敬語なんて使わずに、だ。まぁ確かに、もういらないかな、という気がしないでもない。


「むぅ? 何だ?」

「ローラの……お妃様の食欲がなかったのって、寂しかったからなんじゃない?」

「何?」

「ちょ、オリビちゃん!?」


 俺達しかいない応接室だからか、ローラはまだあの竜の被り物も、きらびやかなドレスも纏っていない。さっきと同じ、背中の開いたワンピース姿である。だけどやはり夫としては、背中のその開き具合が気になるのだろう、羽を押さえつけないような、ごく薄いレースのヴェールをふわりと被せてその部分を隠している。

 しかし、その軽さが仇となったようで、彼女がばさばさと羽を動かすと、それに合わせて、ふわり、ふわりと宙に浮いてしまうのだ。


「まぁまぁローラ、落ち着いて」

「あまり興奮するとヴェールが落ちるぞ」


 そう指摘すると、ローラは頬を膨らませて羽を下ろした。


「美味しいものはね、1人で食べても美味しいけど、大好きな人と食べるともっと美味しいの。魔王様にも経験あるでしょ?」

「むむむ……言われてみれば……」


 鋭い爪のある大きな手で、顎を擦りながら、ひとしきりむーむーと唸ると、彼は、「うむ」と言って、ローラが座っていない方の膝をポンと叩いた。


「わかった。これからは食事は必ず一緒にすることにしよう」

「ほえ? 良いの? 忙しいんじゃないの?」


 しゅんと萎れていたローラの羽が、ばさ、と持ち上がる。


「忙しい」

「だよね」


 そして再び、しゅん、としぼんだように折れる。


「――が!」

「――!?」


 ばさ!


「そんなものはどうにでもなる。国政も重要だが、イルヴァも重要だ」

「ふ、ふん。まぁーたそんなこと言っちゃってさぁ」


 ばさばさばさばさ……。


「……見てて面白いわね、サル」

「おう、完全に連動してるな」


 そう言えば、感情によって身体の一部が自分の意志とは関係なく動いてしまう種族がどこかにいたっけなぁ。彼らはどこが動くんだったか……。

 

 そしていまのローラも同じ状態のようである。何ともわかりやすい。


 

 よくよく話を聞いてみればなんてことはない、あの妖精の庭園が襲撃された時期というのは、とにかくあの勇者一行が各地を荒らし回っており、王はその対応に追われていたらしい。そのせいで、それまでは忙しい中でも一日のうちに1回は一緒に食事をとることが出来ていたのに、その時間すら確保することが出来なくなったらしいのである。


 一緒にいたかったのだ。

 何が食べたい、とかではなく、彼と食べたかったのだ。


「寂しい思いをさせてすまなかったな、イルヴァよ」

「べっつに。寂しくなんかなかったよね」


 ぷい、と背けた顔が、ほんの少し緩んで赤くなっている。いまの「別に」は嘘だ。強がっているのだろう。彼の角度からはそんな彼女の顔は見えないはずだ。けれども、きっとちゃんと伝わっている。


 その証拠に、その大きな大きな魔王様は、膝の上の小さな王妃様の手を、ちょい、と優しく摘まみ上げて「わかったわかった」と何度も頷いているのである。そして、ちょっと恥ずかしそうに俯いて、


「……それに、吾輩もさっきのやつが食べたいし」


 と言った。


「仕方ないなぁ。アレックスがそこまで言うんなら案内してあげても良いけどさー」


 と、その風圧でヴェールが飛んでいってしまうほどに羽をばたつかせて、イルヴァ妃はにんまりと笑った。さっきまでの不機嫌な笑い顔なんかじゃなく。


「もう大丈夫そうね」

「そうだな」


 さすがにいつまでもここにはいられないだろう。

 そう思って腰を上げた。


「ああそうだ、魔王様」

「――む?」

「たぶんだけど、もうあれ、被らなくても良いと思うわ、私」


 す、とお嬢が指を差したのは、出発前にローラが着替えをした小部屋の扉だ。恐らく、あの竜の被り物はそこにまだあるのだろう。


「しかし……」

「ローラ……じゃなかったあなたの王妃様は、あんなものがなくたってちゃんと民に受け入れられるわよ。だからもっと外に出した方が良いわ。それに羽も生えてるんだから、ただの人間じゃないんだし。半竜人もあながち間違いじゃなかったってわけね」

「そうだな」

「どうせ、もしもの時は、さっきみたいに助けに行くんでしょ?」

「もちろん」

「じゃあ大丈夫よ。いまみたいに仲良くしてるとこ、たっぷり見せつけてやんなさい。魔王様がベタ惚れだったら、それに文句言う人なんていないでしょ、この国には」

「と、思いたいが……」

「胸を張りなさいよ、王様なんだから」

「う、うむ」

「こら、お嬢!」

 

 さすがに調子に乗りすぎ、と思ったのだが、やはり目の前の王様はそれに激昂するなんてこともなく、成る程、なんて言って背筋を伸ばしている。その膝に座るちんまりとした王妃がより一層小さく見え、そしてその小さな愛妻もまた「そーだそーだ、胸を張れぇ~」なんて囃し立てている。


 どこからどう見ても不釣り合いに見える2人だ。

 それに、王妃はちっとも王妃らしくない。言葉遣いも荒いし、物腰だって品があるとはお世辞にも言えない。その上、彼の命を狙いに来た元勇者だ。レベルは1だけれども。


 けれども彼女は弱き者が虐げられていれば、例え力の差が歴然であっても向かっていくのだ。勝てるか、なんてことも考えずに。ただ、目の前の弱き者を助けるために。

 勇者がそんな無鉄砲で良いのか、とも思うが、けれども、命は一瞬だ。ためらうその一瞬のうちに消えることもある。だから彼女は向かっていくのだ。負けるなんてことは考えずに。


「それじゃ、私達行くわね。魔王様、王妃様、末永くお幸せに」

「うむ。心から感謝している」

「オリビちゃん、サル君、また来てね」

「こっちに来ることがあったら必ず寄らせてもらうよ」


 別れを惜しむなんてこともなく、またね、と手を振ってから、扉を開けた。その時、


「あ、オリビちゃん! サル君!」


 大きな声で名前を呼ばれ、振りむくと。


「2人の結婚式にはちゃんと呼んでよね。絶対行くから。行くよね、アレックス?」

「ふぇぇっ?! け、結婚!?」

「えぇ! 結婚!?」

「もちろんだ。何を差し置いてでも駆け付けよう。ぜひ、一報を。何、その辺を飛んでいる鳥にでも言ってくれれば良い」

「そうそう。楽しみにしてるね~」


 王と王妃は仲睦まじく見つめ合って笑っているが、こちらとしてはそれどころではない。


「わ、私が、サルと、け、けけけけけけけけ……」

「ヤバい! また出た!!」


 薄笑いを浮かべた状態で、けけけ、けけけ、と繰り返すお嬢を担ぎ、俺は、「では、これにて!」と慌てて城を飛び出したのだった。


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