第6話 裏切(うらぎり)
朝、夜が明けてからユノーはこっそりレナの様子を見に行った。
レナは屋根裏部屋に置きっぱなしだったベッドに横たわり、今もまだ寝ている。真横から差し込む陽の光の下でレナの顔を改めて見ると、火傷痕が痛々しいのに加えて酷くやつれている様に見えた。
狭い部屋の中を見回すと、ユノーは白い布をかけられた四角い板のようなものがある事に気づいた。
なぜかユノーはそれの中身を見たいという衝動に駆られた。
恐る恐るその布に手をかけると、一息にそれを払いのけ、隠された物を白日のもとに晒した。
そこにあったのはユノーが期待した通り、ある者の肖像画だった。
外見はユノーに似ている。しかし、そこに描かれた者が着ている服はユノーが一度も着たことが無いものだった。
ユノーには、そこに描かれている者が一体誰なのかはっきりと理解できる。そしてなぜか、懐かしいという感情がユノーの胸に満たされた。
『やっと、見つけた』
ユノーの脳裏に弱弱しい声が響いた。それはエルフィンが生まれながらに持っている、他者と精神を共有する力によるものだった。
今のユノーには、そこにいるレナの感情がはっきりと理解できる。レナは今、愛する者に身を委ねる様な安堵に包まれていた。
リトの工場からここに来るまでほとんど何も食べずに疲れ果てているようだとも感じることが出来た。
そこで何か食べ物でも持って来ようとユノーが屋根裏部屋を出ると、入れ違うようにガンスティールが入っていった。
「あ、お父様」
ユノーが制止する間もなくガンスティールは屋根裏部屋のベッドに近づく。そしてすぐに引き返した。何か重そうなものを引きずっている。彼が部屋の外に出た段階で初めて分かったが、彼が引きずっていたのはレナだった。焦げて短くなった白い髪を掴んで引きずっていたのだ。
レナは苦悶の表情で髪を押さえるのがやっとの様子で、起き上がって抵抗しようとはしなかった。
ユノーがガンスティールを止めようとするも彼は有無を言わさぬ歩みで彼女を振り切った。廊下から階段へ引きずられた際に体を段差に打ち付けるレナの姿を、ユノーは直視できなかった。それでも何とか食い下がろうとレナの体にしがみついたが、彼が歩みを止めない為にそれはレナが痛みに顔を歪ませるだけだった。
屋敷とエルフィン舎の間の野原でレナはやっと解放された。
そして間もなく、耐火服に身を包んだシェンレイが現れる。背中に円筒形のタンクを背負い、そこから伸びる金属製のホースを脇に抱えていた。火炎放射器である。エルフィン熱撲滅のために、とガーベントではエルフィン農家と保健所のみが所持を許されていた。
「シェンレイ、どうして」
ユノーは憤りシェンレイを責め立てた。しかしシェンレイは無反応である。
「お父様、どういうことですか」
ガンスティールも何も言わない。
心の均衡を失った彼にとって今すべき事は『エルフィン熱の疑いのあるエルフィンを焼却処分する事』である。エルフィン農家として当然の行為を止めようとするユノーの事が今の彼には理解できなかった。
彼が右手で小さく合図をすると、シェンレイがホースの先をレナに向ける。
ユノーは咄嗟にシェンレイの前に立ちふさがった。そんなユノーを制したのは、レナだった。
「やめなさい、ユノー」
レナは上半身だけを何とか起こしてユノーを呼び止めた。強く引っ張られた髪は部分的に抜け落ち頭皮がまばらに見えている。段差で打ち付けたのか背中の火傷が破れて血がにじんでいる。
「当然のことなのよ。エルフィン熱の出た農場のエルフィンは全て焼き殺さなくてはならない。そうでないと病が蔓延してしまうから。人間は、エルフィンという種を繁殖させることを無意識下で義務付けられているの。彼は古来の契約を果たそうとしているだけ」
そう言って、私は大丈夫だからとにっこり微笑む。
「殺されると知っているのならば何故ここまで来た」
ガンスティールが口を開いた。レナは無表情に戻りそれに答えた。
「だって、あなたに会いたかったから」
レナはガンスティールに近づこうと地面を這ったが、彼の足元まで来たときに一蹴されて後方に倒れた。
「痛いわ。ねぇ、ガンスティール。あなたの前から消えた私を今も憎んでくれているのかしら」
ガンスティールは応えない。
ユノーは思った。様子がおかしい。まるで二人は工場で会う以前から見知っていたかのような会話だった。
「ねぇ、あなたの悪いところは、自分が悪いという自覚が無い事」
ユノーがおかしいと思ったのは、レナがガンスティールを親しげに呼ぶ事だ。これではまるで、この二人はかつて恋人同士だったかのようだ。
「ユノー、あなたは子を残さず死んでしまうのね」
レナはユノーを見て、再び優しく微笑むと立ち上がって言った。
「ガンスティール、私を殺しなさい。これでようやく私はあなたの呪縛から解放されるわ」
両手を広げ、無抵抗を表した。
「ねぇ、わたしはあなたを」
レナは紅い瞳をガンスティールに向けた。その紅い色はユノーの瞳と全く同じ色だった。
レナの褐色の肌は、肥えやすいエルフィンを産む品種の母体として特徴的な色だった。
レナの白い髪は遺伝的な突然変異であり彼女特有のものだった。もちろん彼女がかつて生産したエルフィンも全て白髪だった事だろう。
ユノーは、彼女が何者であるかを知ってしまった。
ガンスティールは右手で小さく合図をした。ユノーを押しのけて前に出たシェンレイが火を放った。紅い炎は一瞬でレナを包んだ。
「ずっと愛していたわ」
レナはそれ以降喋る事は無かった。なぜならその直後彼女は黒い炭になったからだ。
炎が止まると人型の炭は前のめりに倒れた。炭の表面が割れ、生焼けの肉が隙間からこぼれた。
ユノーは母親の死体を見て気を失った。
ガンスティールは憤慨した。何故こうも自分を危機に追い込もうとする意志が働くのか。
彼は近日中に彼に降りかかった事を思い返した。リト工場を見学してからというもの悪い事ばかり起こっていると感じていた。『満足なエルフィン』がまちがいであったこと、王都の謀略に嵌められたと感じていること、秘密警察に追われていると感じていること、リト工場がエルフィン熱に侵されて焼却処分になったこと、エルフィン熱にかかっているかもしれないエルフィンが屋敷に侵入していたこと、そのエルフィン・レナの正体がかつて自分の農場で飼育されていた繁殖用エルフィンだったことなど。
ガンスティールにとって見過ごせない問題がある。エルフィン熱に侵された可能性のあるレナが自分の屋敷に侵入してきたこと、そしてユノーに接触した事である。
レナが言うように彼女がただガンスティールに会いに来たとは彼には思えなかった。
レナは確かにガンスティールの農場で飼育していた繁殖用エルフィンだ。ユノーの直接の母でもある。リトの精肉工場から焼け出され、かつて逃げ出したガンスティールの農場に戻ったとしても、今のガンスティールにはそこに何らかの陰謀を感じさせる余地があった。
そしてガンスティールは確信した。マキシム領主イサクが何らかの報復のためにレナを送り込んだに違いないと。彼はすぐにその『事実』を訴え出る事にした。まずは彼のガーベント領主マハエルの下へ。
結果から言うと、領主マハエルは一切ガンスティールに取り合ってはくれなかった。彼が領主の城に着くなり自らの主張を喚き散らしたせいかもしれなかった。しかし彼にとっては緊急の事であり一刻も早く領主に伝えたいと思った末の行動であったから、理解されない事に憤りも感じていた。彼は一週間ほど粘ったが、「二ヵ月後のドミノ・オムニバルでは王に粗相の無いように」との忠告を貰っただけであった。
失意のガンスティールが屋敷に戻ったのはレナを処理してちょうど二週間後の事だった。彼が屋敷に到着するなり、彼の執事が慌てて言った。
「ユノーさまが体調を崩されました」
予期していた事だった。そして、そうなって欲しくない事であった。予期し恐れていた事だからこそガンスティールはそれをすぐにエルフィン熱であると解釈した。
彼はすぐ倉庫に向かおうとした。倉庫には火炎放射器がある。エルフィン農家としての義務感が起こさせた行動だったが、すぐにそれを思いとどまる。
「私にユノーが殺せるだろうか」自問するが、答えは明白だった。そんな事は出来ない、あれは国王に献上する為のエルフィンなのだからと。
エルフィン熱であれば、ユノーを隔離さえすれば問題は無かった。屋敷とエルフィン舎を行き来するのはガンスティールだけであったので、彼さえユノーに接触しなければ病原体が蔓延することも無いだろうと思った。
しかし、彼は迷った。もしユノーがエルフィン熱にかかったのであればもう献上することは出来ない。たとえ治ったとしても彼女の体は毒物に変質してしまっているであろうから。
ガンスティールが今までユノーを育ててきたのは義務感からだった。聖誕祭の準備会から指示され、王に献上するために彼女に尽くしてきたのだ。彼女に愛情を注ごうと勤めてきたのも全ては王に献上する為だ。その義務感、職務意識が全てだった。ユノーを幸せにしようと彼が考えたのも、幸せなエルフィンが美味いという指示があったからだ。もっともその指示は彼の誤解であったが。
それが今まで、ガンスティールが十ヵ月にわたって行ってきたことの全てだ。だがそれも、疾患という形によって崩れ去ろうとしている。いや、全て崩れ落ちた後なのかもしれない。毒と化したエルフィンを献上すれば反逆罪で捕まるだろう。そうなれば彼は農業貴族としての信頼も地位も財産も一度に失う事になる。たとえそうでなくとも彼には毒物を他人に差し出す事などできなかった。
義務感に裏づけされた愛情であったがために多くの矛盾を孕んでいた事だろう。しかし今、リトの妄言によって王都への不信感を抱いていた事と、どうあってもユノーを王に献上することが出来なくなったことからガンスティールは再び決断しなければならなかった。
彼にとってユノーが何であるか。
王に献上する肉だろうか。今や彼女の体は毒である。肉ではない。
彼の娘だろうか。そうであるなら今までの偽りの愛情はどう説明するのか。
今こうしている間にも病魔はユノーを蝕んでいる。迷っている暇は無かった。
保身か、それとも。
彼は、決断した。
「ユノー」
ガンスティールがユノーの扉を開けると、老齢の給仕エメトが彼女を看病していた。
「旦那さま、来てはいけません」
エルフィン熱自体が人間に感染する事は無いが、その病原体が衣服について二次感染する事もある。エルフィン舎を取り仕切るガンスティールがその危険を冒すことは出来ないはずだった。
「私が代わる。農場のものには後は頼むと伝えておいてくれ」
ガンスティールは濡れたタオルを給仕から奪うと、よく絞ってユノーの額に当てた。
そしてエメトを部屋から追い出し、ユノーのベッドの横にひざまずいて注意深く彼女を観察した。彼に医学の知識は無い。また農場で病気にかかったエルフィンはすぐに焼却していたのでエルフィン熱がどのような症状なのかは詳しく分からなかった。
それでも自分のできる限りをしなければと、ひたすらユノーを看病し続けた。
額のタオルが温くなればすぐに取り替え、咳き込めば背や腹をさすってやった。それ以上のことができない自分を不甲斐無く思いながらも、ただひたすらに彼女の回復を願った。
汗に濡れた服を取り替えるとき、やつれた彼女の体を見てもその肉の味を想像する事も無くただその苦しみを和らげる事が出来ればと願うだけだった。
ガンスティールは思った。どうすればユノーを少しでも長く生きながらえさせる事が出来るだろうかと。
ユノーの症状は回復しなかった。
オムニバルまであと一ヶ月という時期にあっても、まるでそれを忘れたかのようにガンスティールは全てをかけてユノーを世話し続けた。
エルフィン舎の指揮はガンスティールの執事が代行しているらしい。それでも経営が間に合わず、農場は傾きかけていた。主人の狂気を予見した給仕二人と料理人は早々に彼の屋敷を引き払っていった。いま屋敷に残るのはユノー、ガンスティールのほかに給仕のシェンレイとエメトのみである。屋敷は早くも荒廃していた。
ガンスティールはシェンレイに命じて獣医を呼ばせる事にした。獣医はマハエル城下町にしかいないようだがそれでも構わない、とシェンレイに多額の金を渡し城下町へ行かせた。幸い給金は多く残っている。もし彼女がそれを持って逃げたとしても構わなかった。シェンレイはすぐに馬車で城下町へ行った。今から行けば一週間後にはこちらに戻ってくるだろう。
ガンスティールがシェンレイを見送った後部屋に戻ると、苦しげなうめき声が聞こえた。今まで声も上げられなかっただけに、わずかでも回復したかと思い彼はベッドに駆け寄った。
ベッドの上ではユノーが汗にまみれ、もがいていた。ガンスティールは彼女の手を取り必死に励ました。あと一週間で医者が来ると。それまで耐えてくれと。
ユノーは視界の中にガンスティールを見つけると、その顔へ手を伸ばそうとした。だが力ないその手は届かない。
ガンスティールが顔を近づけ、彼女の手を取り自分の顔に触れさせると、ユノーはうっすらと笑ったような顔になった。
「ごめんなさい、お父様。これでは王様に献上できませんね」
かすれた声が聞こえたが、ガンスティールはそれを否定した。ユノーがそんな事を言うはずが無いと思いたかった。
「ごめんなさい、お父様。私の体を王様に食べてもらえなくなってしまって残念ですか」
ユノーは息を荒くしながらそれでもガンスティールに語りかける。
彼女の手がガンスティールの頭を撫でた。彼女なりに慰めようとしているらしい。
ガンスティールは彼女の言葉に涙を流すばかりだった。ガンスティールが今までユノーを献上物としてしか扱っていなかったように、彼女自身も自分をただの献上物としてしか見ていなかった。ユノーは自分を好(よ)く扱ってくれるガンスティールにそれなりの愛情を感じてはいたが、結局のところ彼を父親として信頼などしていなかったということだ。彼をお父様と呼ぶのも、そう呼ぶようにと命じられたから彼の前で言っていただけだったのだ。
ガンスティールはいよいよ自分の偽善に気付いた。しかしそれは遅すぎた。「父親として愛してやっている」という驕りでは、娘としての彼女からの信頼などは得る事が出来なかったのだと気付かされただけだった。
彼が悔やんでも、ユノーは謝罪をやめない。彼女はただガンスティールの一年間の努力を無にしてしまった事を謝罪するのみである。
今さら心を入れ替えたと言って見せたところで、ユノーはそれを信頼しまい。
ガンスティールからすれば、ようやく自分の誤りに気付いたというところだ。その今の自分の改心を、今までの自分の行いによって否定されていた。
ガンスティールの心の中には、ユノーを失いたくないという思いが芽生えていた。しかしあと一ヶ月で彼女は王に食われてしまう。ガンスティールは今の自分には何も出来ないと感じた。それでもユノーに未来を与えたいと願った。ユノーがエルフィン熱によって毒物と変わってしまったのなら、王に献上はしなくても済むかもしれない。しかし同時にユノーは焼却処分されることになるはずだ。
ガンスティールは考えた。そしてすぐに道を見つけた。
「ユノー、私と一緒に逃げよう。どこか遠く、エアルト大陸へ亡命すれば生き延びる事も出来るかもしれない」
ガンスティールはユノーを抱き起こして、言った。
エアルト大陸に行った事は無いが、そこならば宗教上エルフィンを手厚くもてなしてくれるはずだ。幸い逃亡するだけの金もある。屋敷に残った給仕を連れて行くことも、退職金として金を渡す事も出来る。
だがユノーは、自分の思いつきに興奮するガンスティールをなだめて言う。
「お父様、私の幸せを奪わないでください」
ユノーはかすれた声ではっきりと言った。
「どういうことだ、ユノー。もう食われなくて済む。死ななくていいんだ。逃げよう、二人で」
「嫌です」
ユノーはガンスティールを拒んだ。
「私の幸せは、食べられる事です。お父様が私を幸せにしたいというのなら、私が食べられる事を止めないでください。私は食べられる為に生きてきたのですから」
ユノーは、食べられる事が幸せなのだと言った。
もちろんガンスティールには理解できない。それがエルフィン舎で行ってきた自分の教育の成果だと喜ぶ事も出来ない。
「しかし、ユノー。お前はもう食用には出来ないんだ。病にかかってしまったから。もう献上される事もないんだよ。だから私と」
「なら、お父様が今ここで食べてください」
右手を伸ばしてユノーはガンスティールの言葉をさえぎった。そして、彼女の親指をガンスティールの口の中にねじ込んだ。
それと同じ光景を、かつてガンスティールは見たことがあった。それはおよそ十四年前、ガンスティールの母が屋敷を出て行ってすぐのこと。当時ユノーはまだ生まれていなかったからこの農場での出来事は知らないだろう。
その時はガンスティールの父親が農家として現役であり、息子の不始末をどのように隠匿するかで騒ぎ立てていたのだった。
ガンスティールは当時十六歳で、農場の繁殖用エルフィンを屋敷に匿い愛し合っていたことがついに暴かれたのだった。
「嫌だ、行かないでくれ。俺には君が必要なんだ」
若かりし彼は、家畜相手に愛を語り、泣きついた。
取り乱す彼に対して、当時のレナは冷たくあしらった。もちろん彼女は彼女なりに自分の立場をわきまえていたから、そうすることが真っ当であると考えた故の演技であった。
彼は人間、彼女はエルフィンであるから、その恋愛が周囲に認められるはずがないということをガンスティールだけが理解できなかった。
彼女は、彼が自分を憎めばいいと考えていた。農場のエルフィンと恋愛の真似事をするよりも、人間は人間同士で結ばれたほうが幸せになれるはずだと、きわめて常識的に彼女は判断した。
「聞き分けがない人ね。あなたが私を抱いたのは、私との子どもを食べる為だったのでしょう」
ガンスティールは当時、愛の行為ゆえに授かった彼女との赤子を誰にも気づかれずに処分する為、それをすべて食べていたのだった。
その肉の味を覚えてしまった彼は、執拗に彼女を抱き、出来た子どもを食べた。エルフィンと人間との子どもはこの世に存在しない事になっていたので、彼がそれを食べたとしても誰もそれを咎める事は出来なかった。
彼女は彼の父親の計らいで、別の領地の農場に送られることとなっていた。ある精肉工場ではエルフィンが労働者として生きることが出来ると聞いていたので、彼女はそこに引き渡すことにした。彼の父親はエルフィンに対する敬意と愛情を忘れぬ人であったから、彼女の為に新しく生きる道を考えての決断だった。
若きガンスティールは相変わらず泣き喚くだけだった。彼女は彼に苛立った。そして思わずこう言った。
「別れたくないなら。それほど私と一緒に居たいなら、今ここで私を食べなさい」と。
そして彼女はしゃがみこんだままのガンスティールの泣き顔を覗き込むと、彼の口に自分の右手親指を挿し込んだ。
ガンスティールは彼女の指を食べなかった。
彼女は結局、彼を放置して屋敷を去った。
ガンスティールは後日、彼女が精肉工場に送られたことを聞き、もう二度と会えないものと思った。自分の手元からいなくなった彼女を激しく恨んだ。
だが彼女は生き延びていた。そして、ガンスティールに会いに来たのだ。
彼女はガンスティールに助けを求めていたのだろう。レナは死ぬ瞬間までずっと、自分はガンスティールから愛されているものと思っていたのだろうだから。
ガンスティールは今になってそれらを理解した。ガンスティールはレナを憎んでいた、今それらを理解したからといって彼女を再び愛せるわけでもない。
しかし彼女はガンスティールを愛していたのだ。
彼女が命をかけてガンスティールの気持ちを確かめに来たように、彼も今確かめなければならない。
ガンスティールとユノー、お互いが相手をどう思っているのか。どう信頼し、どう愛し愛されているのかを。
「さぁ、早く」
過去を思い出し呆然としていたガンスティールに対し、ひと思いに噛めとユノーは促した。
ユノーの指を咥えたままガンスティールは強張った。彼女の体が毒であるなら、彼も死ぬ事となる。しかし、それならばそれでも構わないと彼は思った。
彼は指を押し込もうとするユノーの腕を掴んだ。押し出す為ではない。噛み千切るときに逃げない様にだ。
ガンスティールが顎に力を込める。それだけでユノーの親指はあっさりと切断された。
「んっ」
ユノーが息を詰まらせる。しかし声は出さなかった。
ガンスティールの口の中に鉄の味が広がる。それは彼女の親指に通っていた血の味だった。
親指を舌の上でしばらく転がしていると、次第に血の味は薄れてきた。
ガンスティールはゆっくりと味わいながらその指を咀嚼していく。
ある程度噛むと親指の中から何か硬いものがズルリとこぼれた。それは指の骨だ。ほぐれた指の肉を噛みしめると共に、彼は指の骨を噛み砕いた。骨の中を通っていた液体の味がする。骨は細かく砕かれ、すぐに飲み込まれた。ほどけて指の形を失った肉も、飲み込まれて喉を通過した。
ガンスティールは今までに食べた事が無いほど美味いと感じた。それが何故なのかは分からない。一年間かけて飼育してきた結果なのだろうか。この一年間は彼女にとって幸福だっただろうか。いや、幸福を感じたエルフィンの肉が美味いというのは結局迷信だったでは無いか。
ふと、ユノーの顔を見る。彼女は恍惚とした表情で、自分の指を食べ終えたガンスティールを眺めていた。
なんだ、やはり幸せなエルフィンの肉は美味いのだなと納得し、次の指を食べようとしたとき突然、部屋の扉が開いた。
「ガンスティール・ビノシェ、公金私的流用の罪で逮捕する」
王都からの令状を掲げて部屋に踏み込んだその男は、彼の友人オディナロであった。
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