第2話 満足
それから一週間後、王都からの使者が来た。
王都からの給金の額は、辺境の下級貴族であるガンスティールには手に余るだけであった。
これは、よほど期待されているのだろうと思わされるものであった。
しかし当初は困惑していたその莫大な給金も、使い道さえ決まってしまえば後は浪費するだけである。
ガンスティールはその金を余すところなくユノーの一年間の養育費に当てる心算であった。
彼がまず思い至ったのは、彼女の食費である。
いまユノーの食卓には溢れんばかりの皿が並べられている。もちろんそこに盛り付けられているのは、普段ガンスティールさえも口にしないような高級な食材を丁寧に調理されたものである。
「さあ、お食べ。好きなものだけ食べればいい。食べ切れなかったものは残しておきなさい」
ガンスティールは、テーブルの前で白い前掛けを提げたまま困惑するユノーにそう言った。
かつて彼女が口にしていたものと言えば、トウモロコシやムギといった穀物をすりつぶし水で溶いたものであった。
それと比べ今彼女の目の前にあるものは、餌と言えるような物ではない。見たこともない甲殻類の蒸し焼き、鉄板の上で脂の音をこもらせる分厚い肉、上品な味のドレッシングがかけられ根菜の炒め物など、どれも強烈な匂いを放つものばかりであった。
ただし今のユノーにとってはそのどれもが食欲をそそられるものではない様子だった。なぜならば彼女はまだ味覚を楽しませる喜びを知らないからであろう。
目の前の豪華な食卓も彼女にとっては、変わった形状の餌だとしか見えなかった。
しかしユノーは食べる。ガンスティールに、父に食べるように言われたからである。
先ほど教えられたナイフとフォークの持ち方のとおりに、最も手前にあったステーキから食べ始めた。右手にナイフ、左手にフォークを逆手にとり、肉片の左側から切り分けて食べる。
数種類の野菜を煮込んで作られたソースが肉の味をごまかしていたため、彼女は気づかなかった。この食卓のステーキ、ハンバーグなどは、ビノシェ農場で精肉したばかりの新鮮なエルフィン肉が使用されているということを。
この食卓にある料理にもかつて生命としての姿があったのだということさえ、このときユノーは気づくことができなかった。
ユノーにとって異常な、あるいはガンスティールにとって裕福な食卓が二週間も続けば、ユノーはその食事という名の労働でのコツを掴んでいた。
彼女は刺激的な匂いのするものから、勢いよく頬張る。そして次々と皿を変えては麦酒を飲み、ブドウ酒を飲み、さも嬉しそうに微笑む。
おいしくて微笑むのではない。食欲が満たされて微笑むのではない。そうする事で父が喜ぶからである。
そうしてなるべく多くの皿に手を付け、食べられなくなったらナイフとフォークを置く。
時には、身動きするだけで気分が悪くなる事もあった。
それでもユノーは一日二回の食事を満面の笑みで食べ続けた。
そうする事で父が喜ぶと知ったからだ。
ガンスティールはユノーがエルフィンである事を記憶から排除してしまったかのようで、ユノーの食卓を眺めては喜んだ。
ユノーがエルフィン肉の料理を食べている様を見ても、共食いであるとは気付きもしなかった。
狂気の食卓は、それが狂気と気付かれぬまま続いていった。
ガンスティールのユノーに対する施しは、食事に限った事ではなかった。
王都からの給金は、一人の少女の食費としてだけでは使い切ることも出来ないであろう額であったから。
だから彼はユノーに対し、金で買える物は全て与えようとした。
与えるという事が彼女を満足にさせると信じたからである。そして実際に、ただそれをしただけだった。
彼がユノーに与えた物を数えるならばそれは限りなく多かったとしか言えない。全てはガンスティールの気まぐれで決定された。
ある時は思いつきで宝石を買い与えた。彼女の全身に宝石つきの装飾を施してみたが、ユノーがその価値を把握できずにいたのでやめた。
ある時は思いつきで書物を与えた。これはユノーが気に入ったためしばらく続いたが、読みきれない本をユノーが持て余す様を見てガンスティールはもう十分と判断した。
ある時は人形を与えた。見向きもされず床に放置されていた為、もう二度と買わなかった。
ある時は小さなトカゲをペットとして与えた。
それらの全てはガンスティールが実感できるほどの成果を上げなかった。
そしてこれもまたある時の話、『満足なエルフィン』の伝令が来てから五ヵ月後のこと。
ガンスティールはユノーに服を与える事を思いついた。
彼の屋敷を訪ねる貴婦人の娘たちが色とりどりの服に身を包んでいる事に気付いたからである。
ガンスティールは幼い頃から畜産農場の経営にばかり携わっていたので、ユノーほどの年頃の人間の少女がどういった服装を日ごろしているのかなど見当もつかなかった。農家の組合に出席する事もあったがそういった場所に集まるのはいつも成人ばかりであった。農業組合の会合に出る事もあったが、そこに集まる少女と言えば品種改良のために連れてこられたエルフィンの牝であり、服など着ているはずもなかった。
ガンスティールは、ユノーには年頃の人間の少女と同じような喜びを与えたいと思った。もちろんそうする事で彼女が満足すると思ったからである。
はじめに彼はユノーを城下町に連れて行くことにした。彼の屋敷の近くにある山村には大きな服屋が無かったからだ。城下町ならばユノーに合うサイズの服もあるだろう。豪華な服を買ってやりたいという彼なりの親心から、彼は城下町で服を買ってやりたいと思った。
だが屋敷の前で馬車に乗せる段階に至って、それを断念せざるを得ない事に気付いた。
「旦那ぁ、そのちっこいエルフィンは具合が良いんですかい。 あっしにも後で貸してくれやせんかねぇ」
御者は乗り込んだユノーを見て真っ先にそう言った。ガンスティールにはその言葉の意味するところがまるで分からなかったが、下卑た御者の視線によって気付かされた。
きょとんとするユノーを見て違和感の原因に気付く。浅黒い肌に白い髪、そして尖った耳という特徴はまさにエルフィンそのものである。それらは今ユノーが身につける服では隠す事が出来ていない。
恐らく御者はガンスティールがユノーを愛玩用として連れまわしているのだろうと思ったようだった。
ひどく気分を害され、ガンスティールはまだ少しも進まぬうちに馬車を降りた。
その御者が悪いというわけではない。一般的な視点ではそう受け取られるのが当たり前だった。
つまり、城下町ほどの大きな町に行けば行くほど、ガンスティールとユノーを奇異の目で見る者が増えるという事になる。自分がそれに耐えることは出来ないだろうと彼は思った。
ガンスティールはユノーを連れて屋敷へ戻る。
そしてそのまま彼女を自室に連れ込んで、向かい合う。
ユノーはただ虚ろに立ち尽くしていた。ガンスティールの次の行動を伺っているようにも見えた。
ガンスティールは洋服棚から手頃な布を取り出してユノーにかぶせてみた。
しかしその布は彼女の耳を隠す事はなく、ただ左右にある突起を包むだけだった。
これだけではどうにも、ユノーがエルフィンである事をごまかす事は出来そうにない。
そこで彼はまず、彼女に外出用の服を作らなければならないと考えた。
彼の思考の不自然さについて彼は自覚せず、ガンスティールは彼女を連れて外を出歩くのは諦め、地元の山村の仕立屋を屋敷に呼ぶ事にした。
仕立屋は初老の女だった。
普段着として古い緑色のカーテンを縫って作らせた服を着たユノーを見て「あら、かわいい」と軽く微笑んだ。そしてユノーの白い頭毛を丁寧にすいた。
その動作はごく自然であった。まるで人間の少女に接するかのようにユノーの頭を撫でる様子に、ガンスティールは戸惑った。人間とエルフィンに違いは無いと言外に示しているかのようだった。
ガンスティールもユノーを自分の娘として、人間として接してきたはずである。
人間とエルフィンを分け隔てない仕立屋を、ガンスティールは妬ましく思った。自分がそれを出来ていないことを認識させられたからだ。
「さてさて、お嬢ちゃんは何色が好きなのかねぇ」
仕立屋は独り言を言いながら定規を取り出した。
「好きな色、ですか」自分が問われたと思い、ユノーが答えた。「ありません、どの色が好きと考えた事も」
ガンスティールに教えられたとおり、ユノーは訊ねられた事には正直に答えた。
だが独り言に返事を貰ったことに驚き、仕立屋は長い定規を取り落とした。そしてユノーに顔を近づけて何度も眺めなおした。
「あれまあ、旦那さま。このエルフィン喋れるのねぇ」
仕立屋はしばらくユノーを眺め回したが、好奇の目にさらされるのを嫌うユノーの様子にはすぐに気付いたようで、慌てて視線をそらした。
「まあまあ、それじゃまるで本当の親子みたいで良いわねぇ」
うんうんとゆっくり大きく首を縦に振って仕立屋はにっこりと、今度はガンスティールを見た。
その言葉は彼の胸に深く響いた。ガンスティールとユノーは本当の親子ではないこと、人間とエルフィンという違う種族であることを改めて認識させられる言葉だと彼には聞こえた。
押し黙り考え込むガンスティールをよそに、仕立屋は手際よくユノーの服を作っていった。
「本当によくお似合いだと思います」
ガンスティールに仕える高齢の給仕エメトは、新しい服を着たユノーを見せられてそう感想を述べた。
先日の仕立屋が作った服は、緑色の簡素なドレスだった。季節が夏の盛りという事もあって通気性の良い涼しげなつくりになっていた。
そのドレスは採寸した時にサンプルとして作られたものである。採った寸法を元にして他に数着の服を作るようにも頼んでいたのでそれらは一月後にはまた届くことになっていた。
しかしユノーは緑のドレスが気に入ったようで、鏡に映る自分の姿を何時間も飽きずに眺めていた。
鏡に見とれるユノーを見ながらガンスティールは仕立屋の言葉を思い出していた。
「まるで本当の親子みたい」と言われたときの事である。
子どもの代わりにエルフィンを飼う老夫婦と大差ないという意味であったろうか。
父娘として暮らすようになって既に五ヶ月、傍目にも本当の親子と見紛う程に自分たちは親密になれたはずだとガンスティールは思っていた。そのはずである。ガンスティールは思いつく限りの事をすべてユノーに施してきたつもりだったのだから。
ユノーも近頃は、ガンスティールから何かを与えられるたびに満面の笑みで喜びを表現するようになっている。
ガンスティールはすっかり気を良くし、今まで一度も聞かなかった事を初めてユノーに訊ねた。
「さぁ、ユノー。何か次に欲しい物はあるかい」
訊かれてすぐにユノーは鏡を見るのをやめ、真っ直ぐに立ってガンスティールを見た。そしてたった数瞬の後にこう答えた。
「ありません、お父様。私は物を欲しいと思った事もありません」
ユノーはごく当然のことを答えただけだった。
しかしガンスティールにとっては全く理解できない答えだった。
ガンスティールは何を考えるでもなく狼狽するほか無い。
長い沈黙の後にわずかな落ち着きを取り戻すと、ガンスティールはこれまでの五ヶ月のすべてを思い返してみた。
彼のどの記憶の中でも、ユノーが自ら何かを欲求したことはなかった。そしてまたガンスティールはただひたすらに自分の思いつきのままにユノーに与えるだけだった。何を与えるにしても、ガンスティールはユノーの反応を見るだけで精一杯だった。
ユノーがその場で喜べば気を良くしていた。ユノーが無反応であればすぐに投げ出して、次に何を与えればユノーが喜ぶかを考えていた。そうして次第にユノーは、ガンスティールが何をしても満面の笑みを向けるようなったのではないか。
「そうか、私の半年間は何の意味もなかったのか。ユノーを満足させてなどいなかったのか。これではただ私が一人自己満足していただけではないか。ユノーはただ、私の顔色をうかがって反応していただけだったのか。ユノーは喜んでなどいなかったのではないか」
彼にとって、ユノーを娘のように可愛がり幸せにさせようというのが『彼自身に課した義務』だった。それが出来ていなかったのだという実感が、彼にその胸中を吐露させた。
誰に問うでもなく虚空に向かって投げ出された言葉だったが、返答する声があった。
「いいえ、お父様。私は喜んでいましたよ」
呆然としたまま、ガンスティールは平坦に紡ぎ出される声を聞いた。そしてそれに訊ねた。
「ユノーが喜んだ振りをしなければ私が不機嫌になるからそういった表情をしていたと言うだけの事だろう」
ガンスティールは茫然自失し、声の主がユノーであるとも分からずにそうつぶやいた。
声は再び応える。
「はい、そうです。お父様の機嫌を損ねないように喜びを表現していました」
声は、あくまで平坦に言った。
ガンスティールはもう何も言わなかった。
再び沈黙がガンスティールを包み込んだ。
そして次に長い沈黙を破ったのは、声の方だった。
しかしその声は今までと違い、わずかに声色を孕んでいたものだった。
悲しみと不安によってかすれた声だった。
「でも、嬉しかった。お父様が懸命に私の為に何かをしようとしてくれていることが、とても」
声は次第に小さくすぼまり、やがて消えた。
混迷する意識の中からガンスティールが目を覚ますと、ユノーは瞳をわずかに潤ませていたが、薄く優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
ガンスティールは朦朧とする意識の中で、ユノーの本当の表情を見た気がした。
彼はそのまま、ユノーの体にすがり恐る恐る抱きしめた。
ユノーは彼女の腰の辺りにあるガンスティールの頭を、子どもをあやす母親のような手つきで撫でた。
『私と向き合うことに、怖がらないで』
誰かの声が、ガンスティールの脳裏に響いた。
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