第1話 父娘(おやこ)
「素晴らしい」
品評会の委員は彼女を見るなりそう言った。
いや、彼女と言うのは正確ではない。『それ』は品評会にとって食材でしかないのだから。
「褐色肌に白毛、瞳は紅。毛並みも良く、引き締まった体をしている」
品評会の者は恐らくエルフィンを見ただけでその味が判るのであろう。先程から喉を鳴らして『それ』を見定めている。
応接室にいるのは三人。エルフィンも人数に加えるならば四人であった。品評会の委員を務めるイルストル卿。その従者。褐色肌の裸体をさらすエルフィン。そしてこの屋敷の主であり、そのエルフィンの所有者であるガンスティール・ビノシェ。
イルストル卿は王都から派遣された品評会の委員であった。来年のオムニバルで国王に献上するエルフィンを探しに来たという。
オムニバルといえばこの国の主要な祭典の一つであり、つい先日終わったばかりである。ガンスティールいるガーベント領でももちろん催した為、余分なエルフィンの在庫など底をついている事ぐらい王都でも把握しているはず。何故わざわざ辺境の地にまで、たかがエルフィンを探しに来たのであろうか。ガンスティールは注意深くイルストル卿を見張った。
ガンスティールの疑念など意に介さず、イルストル卿はエルフィンをさらに嘗め回すかのようにじっくりと眺めた。彼の従者も同様にエルフィンを眺めているが、その視線は食欲というよりは性欲に満ちたものであった。ごく稀にエルフィンに対しても劣情を催す者がいる、その事はガンスティールもよく知っていた。だがその従者の厭らしい視線に彼は気分が悪くなった。
「少々痩せ過ぎのようですな。来年のオムニバルまでに良く肥えさせておけばよろしいでしょう。王は、恐れ多くも大食であらせられるからな」
ハハハと乾いた笑いをして、イルストル卿はようやくエルフィンから目を離した。
「ガンスティール殿も人が悪い。これほどのエルフィンを後生大事にとっておくお積もりでしたかな。繁殖用にするには惜しいですよ」
そこでイルストル卿はベロリと舌なめずりをして言った。
「美しいエルフィンは我々に食べられる為にいるということをお忘れなく」
では御機嫌ようと彼は従者を連れて足早に応接室を出て行った。
部屋の中にはエルフィンと主人だけが残った。
エルフィンは始めから終わりまで何も言わず、ただ呆然と立っていた。
ガンスティールも終始無言であった。イルストル卿と従者が屋敷から出たのを応接室の窓から見届けてから、彼は彼女の白いボサボサの髪を撫でた。他のエルフィンにも行うような、家畜への優しさに満ちた愛撫であった。
彼女の表情が明るく輝いた事など彼は気づくはずも無かった。
ここで、この物語の舞台と背景についていくつか御説明しよう。
ガンスティールが経営するエルフィン養殖場『ビノシェ農場』の敷地内にある私邸、この屋敷は地元の山村から離れた山奥にある。不意の侵入者を拒むように、屋敷と農場は巨大な鉄柵に囲まれている。村から峠に向かって山道を行き、森の中から突如として現れる二本の巨柱が正門である。赤煉瓦を積み上げて出来たそれはビノシェ家初代から伝わる門柱だという。門柱の間には鉄格子の扉。扉越しには屋敷しか見えない。そこが農場だと知らぬ者からは、広い中庭を持つ邸宅にしか見えないだろう。だがその邸宅の裏にはさらに広大な敷地があり、そして遥か遠方にエルフィン舎がある。
ビノシェ家は国内でも有数のエルフィン畜産農家である。エルフィンの養殖には相応の知識と土地と財力が必要不可欠であるため、ガンスティールの『ビノシェ家』もそれなりの家柄であるといえよう。また、彼の家は領主マハエルの治めるガーベント領の中でも古くから続く農業貴族であり、彼自身も領地内の同業者の間では名の知れた男であった。
農業貴族とは、特定の農業を営むために広大な土地を占有する事を認められた者への呼称である。土地を専有することが認められたのは貴族だけだという王都の意向により、敷地面積が一定以上の農家には貴族の称号が与えられていたのだ。王都を除いて封建社会が廃れた今となっては貴族という身分も形骸化していたが。
ガンスティールは成人した時点で農業貴族としての権利と農場を継いだ。彼の父親は畜産業に興味を失ったようで、彼の成人を機にガーベント城下町で活動写真館の経営を始めたとのことだった。彼の父親によればこの頃は大衆娯楽に人々の関心が高まっているという。生活水準のレベルが高くなってきたことで娯楽のために浪費する余裕が民衆の間に生じているためだった。
それでもいまだに、ガーベント領の主な産業はエルフィンの養殖とその飼料となる穀物の栽培であった。近年ではエルフィンの飼料には魚肉が良いという評判があるがガーベント領は山に囲まれ海を持たない。その為、つい最近になってこの領地はやっと近隣との交易を本格的に始めた。ガーベントにおいては、近隣領との文化交流により産業の発展が加速している。
このウェルトゥム王国は、王都オルパスを中心として大陸ウェルトゥム全土にわたる統一国家であった。しかし、国王アラクトはオルパスにのみ君臨し、それぞれの国家の元王を領主として据えて自治を認めていたので事実上は連合国家であるともいえた。近年は産業の発展に伴い人々の思想は絶対王権を尊重するものから離れている。昨今の風潮である民主主義に馴染めない者だけが王都オルパスで封建主義の真似事を続けている。
この大陸全土に共通する風習のひとつが、エルフィンの養殖とその食用である。エルフィンとは、野生ではウェルトゥム山間部に生息していた二足歩行の哺乳類であり、知能が発達し両前足で道具を使うという特徴を持っていた。外見は人間に酷似しているものの、耳が極端に細く長く尖っているため、幻想小説に登場する亜人の名称にちなんでエルフィンと名付けられたと歴史書には記述されている。
現在では全てのエルフィンが養殖であると言われている。養殖場からはぐれたエルフィンが出る事もあったが、そういったものは生き延びることがまず無い。森に入れば野犬に食われ、町に出れば人に食われるからである。人々が口にするエルフィン肉はよほどのことがない限り畜産農家の下で育成された養殖のものである。
エルフィン肉は大陸ウェルトゥムでは主に慶事にのみ用いられる特殊な食用肉とされているがその育成は容易ではなく費用もかかる。整った環境で育てられればより上質の食肉になると言われるため、限定された地域で養殖されるのが常である。
ビノシェ農場での徹底した管理飼育は上品なエルフィンを生むと評され、特に上流の貴族に好評である。近隣の領地からわざわざこの農場にエルフィンを注文しに来る者もいるほどだ。事実、半年前に行われたオムニバルの際も近隣の貴族から多くの注文を受けた。
これがこの物語の舞台とそれを構成する諸々である。
品評会のイルストル卿が帰った後、ガンスティールは応接室に残ったままひとしきり思案した。
応接室の中には彼と、褐色の裸体を晒すエルフィンの雌がいる。彼女は見知らぬ男たちがいなくなって緊張が解けたのか、興味深そうに部屋の中をキョロキョロと見回している。
ガンスティールはこれまで何頭ものエルフィンを飼育してきたため、エルフィンにもそれぞれ人間でいうところの「性格」のようなものがあると知っている。その中でも彼女は特に好奇心が旺盛なようだと感じた。
彼はまた、品評会の者の言動を思い返す。随分と反応が良かった。好感を持たれた事は間違いないと彼は思った。彼は国王というものに忠節を感じてはいなかったが、権力者の式典に自分の農場のエルフィンを献上することが大きな宣伝効果になるだろうとは思い、それを大いに期待した。品評会から一時的に大きな報酬も出るだろうと欲も出た。
今ここにいる識別番号7741326番のエルフィンはもともと繁殖用にするつもりだったが、この好機の為であれば出荷用に回しても構わないと彼は考えた。
胸の内に打算的な喜びを秘めて、ガンスティールは目の前のエルフィンの頭をもう一度撫でた。
それの表情がわずかに曇った事など彼は気づくはずも無かった。
品評会の訪問から二週間後、王都からの便りが届いた。
その日ガンスティールは、今はこの屋敷にいないかつての恋人の部屋で肖像画を眺めていた。
絵心の無いガンスティールがその恋人にせがまれて描いた物だった。彼自身は良く出来ていると思ったが、屋敷の給仕も執事も苦笑しながら傑作だとその絵を褒めたものだった。ガンスティールが成人する前、十余年前に描いたものだ。その恋人を失って以来、彼は時折この絵を眺めては当時の記憶を辿る。
空想に耽る彼の肩を、ふいに誰かが叩いた。屋敷の中で最も高齢である給仕エメトだった。
「何だ」
「旦那さま。何度もお呼びしたのですがお気づきになられなかったので失礼いたしました」
エメトは、穏やかな笑みが顔に張り付いたような高齢の女性だ。ガンスティールの父親の代からこの屋敷に仕えている。彼女はガンスティールが眺めている絵を見ても表情は変えなかった。
「伝令役が来ているようです。ご確認ください」
彼女はただ用件を伝えただけだったが、言外にガンスティールを咎めていた。かつての恋人に心を奪われたまま妻を娶ろうとしない彼を責めているのだと周りの者は言った。彼女は彼が元恋人の部屋にいるときだけは機嫌が悪い。それ以外の時には外見通りに穏やかな老婆だった。
「ああ。分かった」
ガンスティールは居心地が悪くなり部屋を出た。廊下の窓から外を見下ろすと、ビノシェ邸の正門の鉄柵前に二頭立ての蜥蜴車が止まっている。そしてよく見れば、格子扉の前に小さな人影がある。呼び鈴を鳴らす様子もなくただその人影は立っている。それが当然であるかのように、ほとんど動かずにその人影は正門の前にいる。まるでこちらが気付くのを待っているかのようだとガンスティールは思う。
確かにあれが伝令役のようだと理解し、ガンスティールは正門に向かう。廊下から屋敷中央の階段を降り、一階の玄関から出て庭を横切り、正門までゆっくり歩いて二分でたどり着く。
たどり着いたところで、その伝令役がまだ成人していない程の幼い少年であると気づく。やけに気取った服装が不自然に感じられる。仕事上のみ着用する貸衣装なのだろう。格子扉越しに見るとその顔は少し垢で汚れている。注意深く観察するガンスティールの視線にも物怖じせずに、伝令役の少年は無感動に立ちつくしていた。
そしてその少年は、しっかりと伝令役としての仕事をこなして帰っていった。
伝令役とは辺境の貴族へ国王の意図を伝えるための役職のことである。彼らは貴族の邸宅を訪問しても、その敷地内に入ることはない。身分が違うと教えられているためである。ガンスティールのもとへ来た伝令役もその通りであった。だからガンスティールは彼の給仕の報告を受けて伝令役の訪問を知ったときも、部屋に通すことなく彼自身が正門まで出向いたのだった。
ガンスティールが正門の格子を開き伝令役と対面すると、その伝令役の少年は肩にかけた鞄からうやうやしく手紙を取り出した。白い肌のエルフィンの背中から剥ぎ取った皮膚を乾燥させて作った高級な皮紙(ヴェラム)だった。その手紙は決して手渡されることはない。伝令役がその場で読むからだ。
伝令役はその手紙の内容を、一字一句に時間をかけて独特のイントネーションで読み上げていく。読み上げられた文章もまた特殊な文法で書かれている。
これは、その文法をしっかりと教育された貴族にしか理解できないようにと考案された風習であった。貴族と平民の明確な差別化という意図によるものである。これは現国王アラクトの治世になるよりもさらに以前からの根強い貴族思想を象徴していた。今となっては貴族と平民の違いも希薄となっているため、多くの者には面倒な風習だとしか認識されていない。
この奇怪な風習のために、伝令役が来た時にはは必ず自分で聞きに行かなければならなかった。ガンスティールの屋敷の中にその貴族語が正確に理解できる者がいなかったからだ。
たっぷりと時間をかけて手紙を読み上げると、伝令役は手紙を差し出してきた。受け渡すためではない。その手紙がしっかりと役目を果たしたことを証明するためにサインを求めているのだ。
ガンスティールは指に黒インクをつけて器用に自分のサインを書いた。乾燥したエルフィンの皮膚の感触がインク越しに伝わった。
伝令役はサインを確認し、嬉しそうにそれを鞄にしまって帰っていった。恐らく伝令役は文字の読み方だけを習得しているのだろう、手紙の内容には無関心の様子であった。
ガンスティールは屋敷の自室に戻り、今しがたの手紙の内容を思い返した。
「満足なエルフィン、か」
不可解である。彼には王都の意図が理解できなかった。
手紙は、国王からガンスティールに宛てられた物ではなく、聖誕祭の準備会からの物であった。
その内容は、要約すればこのような事である。
『来年度に王都で開かれるオムニバルでは国王の聖誕祭を兼ねる事になった。そこで、国王に献上するエルフィンには最上級のものを用意したいと準備会は考えている。
ガンスティールのビノシェ農場で育成されたエルフィンは貴族にも評判であるという話は前々から聞いていたので、品評会の委員を遣わして品質を確かめさせた。
報告によれば、特に質の高いエルフィンが一頭いるようなので、今後一年間はそのエルフィンの育成に力を注ぐように。王都からは助成金を出すので余力を惜しむな。
ある美食家の話では、エルフィンは我ら人間と同じく感情を持ち、その肉を食した者にエルフィンの感情が伝わるという。それを聞いた国王はエルフィン肉によって満足感を得たいと望んでいる。
そこで準備会では国王に「満足なエルフィン」という名で料理を献上することにした。
聖誕祭までに例の褐色肌のエルフィンを満足させ飼育するように』と。
ガンスティールはその手紙の内容を把握したとき、呆れるほかなかった。
エルフィン農場を経営する彼でさえ、エルフィン肉を食べた者に感情が伝わるという話を聞いたことが無かった。
もしそれが本当であれば、毎年のオムニバルの後に人々はどのような感情を得るだろうかとガンスティールは空想する。そして、恐らく絶望と恐怖のどちらかだろうと結論付ける。一般に広くは認識されていないが、エルフィンは確かに感情を持っている。しかも人間と同じ程度に豊かな感情をだ。自らの死を悟れば絶望もするし、痛みには恐怖感を覚えるだろう。
また、満足なエルフィンという言葉がどれほど残酷なことかと落胆した。エルフィンはすべて満足になれないとガンスティールは考えている。ガンスティールはこれまでに数え切れないほどのエルフィンを育ててきた。だから判る。彼らは食われるために生まれているのだと。
もちろんガンスティールは、せめて生きているうちは悲しませないようにと出来るだけ愛情を注いでエルフィンを育ててきたつもりだ。
エルフィンの飼育に手間をかける農場は少ない。多くのエルフィン農家は、小さな施設の中に詰め込むだけ詰め込んで、定期的に餌を与えるだけだ。その施設からは常に悪臭が漂い、不衛生なこと極まりない。また、そういった乱雑な農家では精肉する際も意図的に即死させるということを行っていない。もともと知能の高いと言われるエルフィンの多くは、自分の死を悟ったときに出来る限りの反抗をして息絶えていくものだった。中には損傷が激しく食肉にすらなれないものもいるという。
一方ガンスティールは、自分の農場で精肉する場合においては、なるべくエルフィンらに恐怖を与えぬよう一頭ずつ速やかに屠畜する様に心がけていた。彼の農場のエルフィン肉が美味であると評判なのは、その肉に「苦痛」といった雑味がないためかもしれない。
稀に生きたままのエルフィンを出荷することもあったが、その後のエルフィンがどうなるかをガンスティールは追及しなかった。
いずれにしても、エルフィンは「満足」という感情を持たないはずだった。彼らはそういった感情を得ることなく死が与えられるのだから。それが彼の持論であった。
そんな彼の思惑も、他の者には通じないのだろう。
ガンスティール自身もエルフィンを食べて生きてきた。エルフィン食文化の恩恵を受け、その中にいる以上、彼はエルフィンを食べることを否定はしない。
しかし、エルフィンにとっての幸福などを考えると自分自身の矛盾に突き当たってしまうので、これまで避けてきた問題だった。
今はそれに向き合わなければならない。
自分は任された仕事を全うするだけ。ガンスティールは自分にそう言い聞かせた。
王都からの手紙の内容をどのように解釈するかは先送りにして、ガンスティールは行動を開始しようと思い立った。
まず彼は7741326番のエルフィンを応接室に呼び寄せた。品評会に検品された例の牝の褐色肌エルフィンである。
彼女がガンスティールの応接室に入るのは生まれて二度目である。先日見知らぬ男に全身を撫で回された記憶が蘇ったのか、ひどく不安げな表情を浮かべていた。
ガンスティールの農場で飼育されるエルフィンはガンスティール邸から離れたエルフィン舎で飼育されている。エルフィン舎とは言わばエルフィンの共同生活所であり、現在では約五千頭のエルフィンがそこで生活、飼育されている。
この農場のエルフィン舎はガンスティール邸よりもはるかに大きい建造物であり、そして邸宅よりも厳重に警備されている。脱走するエルフィンを捕らえるためではない。侵入者を防ぐためだ。エルフィンが農場を抜け出したとしても、町を歩けばすぐに捕らえられ食われてしまうだろう。それ以前に、意図的に脱走するという思考を持たないはずだ。それよりも、外部から食肉目当てで進入してきた者が何らかの病原体を持ち込むことのほうが問題であったのだ。
エルフィンは通常、エルフィン舎を出ることはない。なぜなら、そこを出る前に彼らは物言わぬ食材となっているからである。
例外としてエルフィンを施設から出すのは、品種改良の為の交配実験として他の農場へ売る時と、年に二回開催されるエルフィンの品評会に連れて行く時だけである。
そういった理由から、7741326番のエルフィンもエルフィン舎を出た事がなかった。
彼女は先日の男たちがいないとわかったのか、おとなしくその場に直立していた。
ガンスティールは、彼女が彼の視線に気づくまでずっとその肢体を観察した。
年齢は十四年。褐色の肌に白い体毛。瞳は透き通った紅。もともと繁殖用にするつもりだったが、まだ繁殖能力はないようだ。肉付きも良くないが、確かにあと一年あれば十分改善できると彼は考えた。
その姿を見ているうち、ガンスティールは彼女に対して愛情とも親近感ともつかない柔らかな情念を抱いていることに気づいた。
そしてガンスティールは心の中で誓った。彼女を一年間、出来る限りの愛情をかけて育ててやろうじゃないか、と。国王に献上するエルフィンとして他に見劣りしない素晴らしいエルフィンに仕立て上げてやれば、彼女自身も満足に至るだろうと確信したからだ。
このエルフィンを特別なものにするには、やはり他のエルフィンから隔離し自分の手元で飼育するのが良いだろうと彼は考えた。
それならばいっそのこと自分の娘同然に接してやれば、きっとこのエルフィンも幸せだろうとも彼は考えた。エルフィンの身でありながら貴族の娘として民衆よりも丁重に扱われる事ほどの幸せはないはずだとの考えだった。
世間ではエルフィンを家庭で飼育することも稀にあった。例えば庶民でも富んだ夫婦などの中には、老いてから子どもを亡くした寂しさを紛らわすために生のエルフィンを丸ごと買って飼う者もいるのだという。そういった者たちは飼っているエルフィンに服を着せたり人間の食事を与えたりして自分の子どものように可愛がるとの事だ。本当の子どもだと思い込んでしまう者もいたようだが。
ガンスティールが7741326番のエルフィンに先ず与えたのは、彼女の名前であった。
「さて、君の名前は何にしようかね」
あくまで独り言としてガンスティールは目の前の彼女に向かって語りかけた。
食用の家畜といえどもエルフィンは人間と同じ体のつくりをしている。だから、それなりの知能も持っているというのが世間のエルフィンに対する認識だった。
話かければ声に反応して振り向くなどは当然として、つけた名前を何度も呼びかけていればそれを自分の名前と認識する知能はあると知られている。それどころか人間の言葉をいくつか覚えることも可能で、簡単な命令ならば例えば「来い」や「座れ」といった芸も身につくものだった。
エルフィン農家のガンスティールとしてはもちろんその程度の理解はある。
しかし、エルフィンの知能はその程度ではないとガンスティールは実体験として知っていた。
かつてガンスティールが恋したエルフィンは人と同じように言葉を操り、豊かな感情を見せた。肖像画を描いてほしいとせがまれた事もあった。
ガンスティールが回想するその記憶は彼が十六歳の頃までさかのぼる。
その頃、彼の父親クラパウト・ビノシェはエルフィン農家として現役だった。
父親はガンスティール以上にエルフィンへの愛情に溢れた人物だった。彼が思い出す限り、父親は常にエルフィン舎に篭っていた。エルフィンを育てることが彼の父親の人生だった。
彼の父親は休憩時間も常にエルフィンと過ごし、彼らに幻想小説などを読み聞かせていた。ガンスティールはそんな父親を仕事上の師として尊敬していた。
そんな中、ガンスティールは父クラパウトが育てたエルフィンに恋をした。
人間の年齢にして十四歳ほどの、褐色肌に白髪というこの農場では最も多く育成している種類のものだった。彼女は、繁殖用として育てられ既に二度の生殖・出産に成功している優秀なエルフィンだった。
ガンスティールは赤子を抱く彼女の妖艶な姿に魅入られ、父親に無断で彼女をエルフィン舎から連れ出した。そして、仕事に耽るばかりの父親に愛想をつかして出て行った彼の母親の部屋に匿ったのだった。
ガンスティールと彼女の生活は、彼が十八歳で成人するまで続いた。彼の父親が異常な事態に気づき、二人を引き離したのだった。
淡い回想の途中で、彼はふとある単語を思い出した。
『ユノー』
思い出した、というよりは唐突に頭の中に挿入されたような言葉だった。もしかしたら、その恋人の名前だったかもしれないなとガンスティールは思った。
そして、部屋の中でぼんやりと立っているエルフィンを改めて眺めた。記憶の中の恋人に良く似た姿だと感じられたので、その名前を目の前の少女にも与えることにした。
「よし。君の名前は、今日から『ユノー』だ」
名前を与えられたことが理解できたのか、『ユノー』は口元に薄く笑みを浮かべたようだった。
「ユノー、自分の名前を言ってごらん」
ガンスティールは先刻まで7741326番の繁殖用エルフィンだった少女を自分の近くに呼び寄せて語りかけた。
少女はゆっくりと口を開き、発音を確かめるように一言ずつしっかりと発声した。
「ユ、ノー」
「そう。それが君の名前だ、ユノー」
「ユノー。ユノー。ユノー」
少女、ユノーは自分の名前を覚える為か何度も自分の名前を声に出して言った。こうして7741326番の繁殖用エルフィンには初めて名前が与えられた。
そこでガンスティールは理解する。やはりエルフィンは人の言葉を理解しているし、必要があれば喋る事も出来るのだと。ただ彼らには機会が与えられていないだけなのだと。
自分の思い通りになって気を良くしたガンスティールは、続けて自分の名前も教えた。
「君の名前はユノー。そして、私の名前はガンスティールだ」
ガンスティールはユノーと自分を交互に指差して何度も言い聞かせてみた。すると、やはりユノーはすぐにそれを理解したようだった。
「私の名前はユノー」「あなたの名前はガンスティール」
その様子に、我が意を得たりとガンスティールは大いに喜んだ。だが、違和感を得た為それを訂正することにした。
「ユノー。これから君を私の娘として育てることになった。だから君も私の事は『お父様』と呼ぶように」
彼はこれからの一年間を父娘としてユノーと生活し彼女を育てると決めたのだ。だからお互いに父娘として意識しなければならない。彼はそう考えた。
「わかりました、お父様」
物分りの良い人間の少女であるかのように、ユノーはごく自然にそう返事をした。
そしてガンスティールは娘としてユノーを見たときに真っ先に気づかなければならないことを、いまさらのように気が付いた。
それは、服を着ていない事。
ユノーをエルフィンとして見れば、服を着ていないことなど当然であり意識もしなかった事だ。
しかし自分の娘が全裸で応接室にいると考えれば、それは酷く不自然なことであった。
そこでガンスティールは次に、服を与えることにした。
応接室の呼び鈴を鳴らすと十秒で給仕がやってきた。この屋敷で働く給仕の中でも最も若い十七歳の給仕、シェンレイだった。
「いかがなさいましたか、旦那さま」
彼女は白と黒を基調にした、給仕用の制服を着ていた。
自分の娘に給仕の服を着せることを思いとどまると、ガンスティールは給仕に服を持ってくるように頼んだ。給仕はそれをすぐに了承し、部屋を出た。
約二百六十秒後に給仕が戻ってきた。給仕はガンスティールの普段着のハンガーを丸ごと持ってきた。
ユノーに与える服と伝えなかったのがいけなかったようだが、たしかにその給仕からすれば、今現在の応接室の中に服を着る者としては主人であるガンスティール以外に考えられなかったのであろう。
かといって裸で放置するわけにもいかない。とりあえずは今、与えるべき服を考えなければならない。
ガンスティールはユノーに、彼の普段着を着るよう命じた。
ユノーには服の着かたを教えたことがない。だから服を与えただけでは着ることもできないはずだったが、ガンスティールはそれにしばらく気付かなかった。
そこで彼は再び給仕を呼び、ガンスティールの服をユノーに着させた。
その作業をさせられながらも給仕は終始不可解な顔をしていた。
これから一年間のことを思うと、彼は自分の屋敷の中の人間に対してだけでもしっかりとユノーのことを伝えなければならないと思った。
彼の屋敷で働く者は、農場やエルフィン舎の内部事情などには詳しくないだろう。実際、屋敷とエルフィン舎を行き来する給仕も警備員もほとんどいないはずだった。
今後はユノーも屋敷の中で生活することになるのだろうから、一度紹介しておいたほうがいいのは確かであった。
ユノーに服を着せ終えて給仕が出て行ったところで、ガンスティールは再び気が付いた。
「ユノーに部屋を与えなくては」と。
「この屋敷で生活するとして、まずは今夜寝るための部屋を用意しなければならないではないか」
窓の外を見ればもう日も沈んでいる。
ユノーが娘であるならばエルフィン舎に帰すという訳にもいかない。
ガンスティールは給仕に屋敷内の空き部屋を探させ、ユノーの部屋を確保した。
ユノーの部屋としてあてがわれたのは、ガンスティールのかつての恋人の部屋であった。
彼とユノーがその部屋に辿り着くころにはしっかりと部屋の中が掃除されていた。彼が描いた肖像画は屋根裏の物置に片付けられたようだった。
何かあったら呼ぶようにと部屋の呼び鈴を示し、ユノーをその部屋に置いてガンスティールは彼の自室に戻った。
こうして、ユノーには初めて私室が与えられた。
しかし自室に戻り一息つく間も無く、ユノーの部屋から狂ったように呼び鈴が鳴らされた。
呼び鈴が珍しいので何度も試しているのだろうと思い、彼はあまり気にしないことにした。
しかし呼び鈴が鳴り終えてしばらくすると、すごい勢いで給仕が彼の部屋に飛び込んできた。
「旦那さま、先程のエルフィンが……」
まだ自分に思い至らないことがどれだけあるのだろう。彼はそう思いながらユノーの部屋へ急いだ。
ユノーの部屋の前には数人の給仕がいた。
しかし彼女らはどうすればよいのか分からない様子で、ただ落ち着きなく互いの顔を見回すだけであった。開放された扉を覗き込んでは困惑していた。
「何があった」
ガンスティールはそう言ったが、部屋に近づいただけで何が起きたかは気付いた。
廊下まで異臭が漂っていたが特に慌てることもなく、彼はユノーの部屋に入った。
下半身を着衣のまま汚物で汚し、放心状態で部屋の隅にうずくまるユノーの姿があった。
失敗だったとガンスティールは落胆した。
ユノーが服を着る方法を知らなかったのであれば服を脱ぐ方法も分からないのだと、彼はそれにすら気付かなかった自分を恥じた。
そもそも、排泄とその処理にしても人間とエルフィンでは違うではないか。
ガンスティールはとりあえず一人の給仕に指示を出し、ユノーの体を洗浄することに、いや、入浴させることにした。
残る二人の給仕にはユノーの部屋を掃除させながら、彼はその異臭のする部屋の中で深く考えた。
まず、エルフィン舎では『ウォーターポッド』と呼ばれる排便用の容器があり毎日三回それを回収し洗浄していた。ならばこの部屋にもそれを置くべきか。
「違う、そうじゃない」ガンスティールはすぐに自分の考えを改める。
ユノーは人間ということになっているのだからこの屋敷のルールに従ってもらうしかない。
屋敷では、二階建てになっているうち一階部分にのみ排便用の個室がある。下水につながっている、いわゆる『水洗トイレ』だ。
彼女が風呂から出たらまず、服の着方と脱ぎ方と、水洗トイレの使い方を教えなければならないな。そう思いながらガンスティールは部屋の真ん中で、掃除する給仕たちをしばらく眺めていた。
ユノーの入浴が終わるとガンスティールは屋敷で働く者を集め、ユノーに関する事の次第を説明せざるを得なかった。
給仕が四人、執事が一人、料理人が一人、主人であるガンスティールとその娘となったユノーを含めた八人が書斎に集められた。
説明を終えて、集められた者の顔を一人ひとり見回す。
歓迎する者はいない様だった。
呆れながらも、諦めている。そういった表情を隠すことなく彼らはガンスティールに視線を返す。
彼らから見ればユノーが屋敷に住むことは、着飾られた家畜が歩き回ると同じであろう。
ガンスティールにとってそれは、ある程度は予想されたことではあった。
しかし彼らは反発しない。
あくまで主人の意向に従うまでである。
明日から一応は『主人の娘』としてユノーを扱ってくれることだろう。
説明が終わり解散させ、ユノーをつれてガンスティールも書斎を出る事にした。
思えば慌ただしい一日であった。もうすでに日も落ちている。
若い給仕の私服を譲り受けて着飾られたユノーは、その尖った耳さえ見えなければ人間の少女と何ら変わり無かった。
説明が終わり、全員外に出たと思ったら、給仕のエメトが誰もいない書斎に残った。ガンスティールが彼女を連れ出そうと中に入ると、彼女は「話がございます」と告げ、ガンスティールの後ろに回って書斎の扉を閉めた。
「話とは、何だ」
ガンスティールは、エメトがユノーに対する文句を言うのだろうと身構えた。しかし給仕は文句など言わなかった。
「単刀直入に申し上げます。旦那さま、あの少女はエルフィンです。人間ではありません。ですから私はあれを人間としては扱えません」
エメトは叱られる事を覚悟でそういったようだった。一方のガンスティールは余りに怒りが激しすぎて逆に気の抜けたように、
「君には失望した。君は分かってくれていると思った」と言い、エメトを書斎から追い出した。
私は間違っていない、とガンスティールは心の中でだけ強く念じてから、彼の自室に戻った。
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