#20

 空洞に木霊す鳴き声に誰もが言葉を失った。

 おぎゃあおぎゃあと繰り返されるその鳴き声は赤子の鳴き声。それは何処から聴こえてくるのだろうか。それは咲いた花の中央、黒い衣のその中からだった。


 蠢くうちに衣はずれ動き、やがてそこから真っ白くふくよかで小さな手が伸び出てくる。何を探し求めているのかも分からないその手は宙を掻き、そうしていると更に衣はそこに隠したものを露わにしていった。


 そうして現れたのは紛れも無い赤子。泣き叫ぶばかりの唯の赤子であった。黒い衣の中に居て際立つその白い肌は泣いているからかうっすらと赤みを帯びる。

 泣き止まぬ赤子を皆はしかし見詰めるばかり、目を離すことが出来ないでいる。赤子の姿はオーバーサイク、ミュールと良く似ていて、白い体毛も同じであった。間違い無く、あれはベアトリクスだと、オーバーサイク、ウォーヘッド、そしてアルテッサは理解する。その中で驚愕し表情を失っている二人とは裏腹にアルテッサの表情だけが驚きこそしているものの明確な笑みを浮かべていた。


「――凄い……凄いわ、ベティ。貴女はやはり天才だ……」


「アル、テッサ……?」


 それが耳に届いたらしいオーバーサイクが彼女の顔を覗くと、それに気付いたらしいアルテッサはオーバーサイクらと同じ真紅をした瞳を輝かせながら彼女に向けて頷く。まるでベアトリクスを母に持てた事を誇れとでも言うように。


「ミュー、貴女の彼女に対する気持ちは分かる、けれど今はあの人の成し遂げた事を誇るべきだと思う。同じ魔女なら――」


「――違う!」


 アルテッサの言葉を遮ったオーバーサイクの叫び。それに彼女がはっとした時には既にオーバーサイクは赤子へと回帰した母であるベアトリクスを見詰めていた。しかしその瞳は彼女に対する憎しみを映してはおらず、それは決別と決意の眼差しであった。


「違う……同じじゃないわ。だって私は、私たちは皆を守るんだもの。ママとは、あの人とは、違う」


「……ミュー、ああ、お前ならきっと、きっと出来る。ベアトリクスからも、何からだって皆を守れる、救える」


 そんなオーバーサイクの頭に乗せられたぼろぼろで歪な手はウォーヘッドのもの、彼は彼が言葉を一つ紡ぐ度に涙を目尻に溜めて行くオーバーサイクを見詰め、共に同じものを見詰めた。そして彼女もまた彼との時間、同じ目的を持てる時を大切に、そしてその言葉を胸に刻んで行く。ウォーヘッドの、父親としての彼の願いは確かに娘たるミュールへと伝わった。


 足元ではイヨが二人の会話を聴いて笑みを浮かべていた。彼もまた己の父親との軋轢が残っているのだった。いつかは解消しなければならない、しかし決して頭の上の親子のようにはならないことを知りながら、二人は自分のようにはならないことを願い。そして共通の敵を見据える。


「奴さん、やっぱあのままじゃあ終わらないみてえだぜ」


「言っておくがわしは脅されて奴に銃を向けているだけだからの。強要されているだけじゃ。さっさと済ませようぞ」


「あいあい、しゃーねージジイだぜ」


 イヨとレオン、共に行動しているのはそれこそ偶然の様なものであるが、腐れ縁でもある。共に次元を超えてこの世界にやって来た獣人二人、もしくは二匹。時には別々の思惑で、そして最終的には共に肩を並べ背中すら任せ合い、どうしてか逃れられない争いを情け容赦無く力で捻じ伏せる。彼らのやる事はいつでもどこでも変わらないのだ。


 皆が決意を固め、ベアトリクスの打倒を掲げる中で、一人だけ彼女、アルテッサは割り切れないでいた。ここに来たのはベアトリクスが居るからに他ならない、今度こそ彼女を止めることが出来るのではないかと、かつての後悔を無かった事に出来るかもしれないとやって来た。それは紛れも無い自身の弱さであり、それを知られたくないからと愛弟子すら置いて来た。


(ベティ……私に、気付いて)


 そして皆と同じ、アルテッサもその眼差しを赤子”だった”ベアトリクスへと向ける。

 そう、先程までは確かに赤子だったベアトリクス。しかし今はどうだ、そこにへたり込んでいる姿はどうだ。長く伸びた白髪は無造作に広がり、細い体躯は幼いながらも最早赤子と呼べるものではなくなっていた。


 最年少、ティーンエイジャーであるオーバーサイクよりも幼い、齢二桁にもまだ届かないであろう外見までしかし急成長を果たしたベアトリクスは、顔を上げそこを覆い隠す程に伸びた白髪のその隙間から覗く真紅の眼光を浮遊した一同へと向けた。そうして、互いの視線は絡み合う。


「――とても、とても、好い気分……幸せぇ……これが、幸福」


 前髪を揺らし、額と頬から滑り落ちて行き露わになった柔肌の丸っこい、幼いベアトリクスのその顔はちょうどオーバーサイクがウォーヘッドを見い出した頃と瓜二つ。しかしその頃の怒りと憎しみばかりに歪んでいた彼女のそれとは違い、ベアトリクスの表情、それは赤く上気しとろんと目尻の下がった恍惚の、大きく裂けて口角の上がった笑顔であった。舌足らずの口が紡ぐ言葉もまた甘ったるい、熱い吐息のよう。


 そしてその大きく潤んだ紅い瞳に映すものは唯一人。しかしそれは皮肉にもそれを望む者では無く、決別と決意を見せる己の実の娘、だが肉体的成長度の逆転した彼女、ミュールであった。


 ベアトリクスが自らを見ている事に気付いたオーバーサイクは、今こそ決着を付けようと魔力を双眼より溢れさせた。が、その直後であった。響き渡った炸裂音、迸った閃光は赤く、一筋の稲妻が内側よりオーバーサイクの障壁を打ち砕いて飛び出して行った。


「ッ……ベアトリクス! ベティィィイッ!!」


 障壁の消失と共に押し寄せてきた魔力の泥をオーバーサイクはトゥーセイバーの剣で切り裂き、イヨとレオンは共にブラスターで吹き飛ばす。そしてオーバーサイクは叫ぶ、稲妻の正体である魔女の名、アルテッサと。


 アルテッサは叫ぶ、己の過ちである魔女の名、ベアトリクスと。光速の稲妻、アルテッサ自身であるそれはしかし直前でベアトリクスが展開した障壁により拒まれ、突き出した拳がそれにひびを入れた。


「私を見ろ……ベアトリクス。私を――ッ!」


「アルテッサ……」


「っ……ベティ……」


「――なんて、何処までも、目障りな女」


 響いた音はアルテッサが己の奥歯を噛み砕いた音か、幼いベアトリクスが己に向ける冷ややかな視線、それに対しアルテッサは目を見張り、歯を食いしばった鬼の形相で振り被った拳を彼女目掛け振り抜いた。雷と化した光速の拳はひび割れた障壁を容易く打ち砕き、彼女の間合いにベアトリクスを捉えることに成功する。


 速攻がアルテッサの戦い。全身を雷へと変え、音すらも振り切った突撃がベアトリクスを鮮血の霧に変える筈だった。しかし鈍い音と共にアルテッサは再び姿を現し、その両方の鼻孔から血を撒き散らしながら逆にベアトリクスから吹き飛んで離れて行く。彼女は泥の中へとその身を打ち据え、泥を巻き込みながら地を転がった。


 そしてベアトリクスがそんなアルテッサに一瞥すると泥は蠢き彼女を包み込んで行こうとする。だがアルテッサはそんな状態でも防衛としてその身から幾つもの雷を放ち泥を事も無げに吹き飛ばして体勢を立て直そうと体を跳ね起こした。


「まだ……私は、ベティ……」


 顔を上げ、再びベアトリクスを補足したアルテッサ。だが、その視界に映るのは赤黒い輝きを放つ閃光、サイクブラストの輝きだけであった。回避しようと雷に変わろうと彼女はするものの、何故かそれが出来ない。見てみると周囲の泥が彼女の魔力を吸収しているようだった。


 障壁も間に合わない。転移は己の適性や技術では、これも間に合わない。受け止める他無い。アルテッサはそう判断し両腕を十字に組み合わせて腰を落とした。無事では済まない、最悪命を落とす可能性もある。一瞬、自らの指示にいつも食い下がって文句を言って来る弟子の姿が思い浮かんだ。アルテッサは覚悟を決める。しかし、果たして目の前に降り立ったその背中に、思わず懐古すら覚えてしまう。突き放されて、避けられてばかりだった、最終的に裏切る形にもなってしまった、けれど憧れたその背中に、それはよく似ていた。


「――誰も、死なせない!!」

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