#19

 子宮の中で羊水に浸り、いったいどれ程の時間が経過したのか。成長を果たし、後は老いて朽ちて行くだけの肉体は、まるでテープを巻き戻すかのようにこれまでの人生を振り返っていった。


 闇に潜んでいた時期。娘であるミュールと、彼女が見付けたウォーヘッドにより敗走を余儀無くされた時。ミュールの魔法によって細切れにされた時。


 考えてみれば、穏やかな日常だったように魔女ベアトリクスはそこまでを思い返して感じていた。これより後は恥辱にまみれた、最悪最低も生温い人生しか無い。


 しかし、けれども悪くないとベアトリクスはそれを受け入れる。何故ならこれから再び歩む人生は自らの望んだ通りにしかならないからだ。あらゆる記憶、そして経験、魔力をそのままに肉体を新たに作り直す。


 ミュールが成長と共にその力を増大させて行く様に、これからベアトリクスもまた同じ様に成長して行くのだ。今までの全てを備えた上で、更に力をつけて行く。誰も至れぬ究極へと至る事が出来る、この喜びは何事にも代え難く、これまでのあらゆる屈辱にも勝る。


『人形が支配する世に終焉を』


 そんな言葉がベアトリクスの頭へと、意識へと入り込んでくる。勿論、構わない。彼女はそれを拒否しない。その内にやり遂げるだろう。


 やがて思考すら儘ならなくなる。ベアトリクスの肉体は始まりへと遂に還った。


 どれ程の時間が経過しただろう。

 ベアトリクスは遂にたった一つの細胞に還り、その細胞は今度は分裂を始め、そして分化し、人に必要な機能を備えて行く。


 受精卵、胎嚢、胎芽、胎児。一度はたった一つの細胞まで退行したベアトリクスは再び人への成長を歩み始める。陰鬱とした怒りと悲しみに満ちた人生を送る為でなく、あらゆるものを見返し、自らの望んだ人生を謳歌する為に。


 やがて鼓動が始まり、次いで胎動を行い、胎児へと至ったベアトリクスは再び思考を始めた。そして自らを取り戻す。喜びに満ちた彼女の鼓動は速く、強く、産まれ出る時を今か今かと待ち続けた。


 これ程までに期待と希望に満ちた時間はかつてあっただろうか。ベアトリクスの胸に溢れ返るそれは感動で、かつての人生ではたった一度しか味わう事の無かったものであった。それも随分と掠れた思い出。だがこれからの人生にはそれがきっと何度も幾度も待っている事だろう。早く早くと、まるで子供の駄々のようにベアトリクスは誕生を待つ。


 ――ママ。


 それは唐突に彼女の中に蘇った光景。たかが野良犬を前にして己に縋り付く幼い日の娘の姿。弱々しく、怯えたその声で己を呼ぶ娘の姿。この時自分はどうしただろう、突き放しても良かった。恐怖は力を育てる。脅威にさらされた時、力は目覚める。だがベアトリクスはそうしなかった。何も娘を抱きしめて慰めた訳では無い、野良犬を追い払った。ただそれだけ。しかし確かに彼女は娘を護った。何故だろう。ただそれだけが気掛かりだった。


 やがて、そんな彼女の前に光が差し込んだ。嗚呼、とうとうその時が来たのだと、ベアトリクスは歓喜した。そして――。

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