第参拾壱話「オリジン」


 コウは、暗闇の中にいた。

 タマモの奸計かんけいによって自己を喪失したコウの意識は、淀みの底に沈んだままであった。

 コウの肉体はタマモに掌握され、タマモの思うがまま操作されている。

 統括AIによって制御されることがNPCの本来の性質なれど、それはコウという特別な存在には当てはまらないはずだった。

 しかしコウを拘束し、意識さえ封じ込められれば、体を操ることはタマモにとって容易であった。

 故に、コウは統率個体としての役割である「全ユニットの統率」を余儀なくされ、そして最上階に辿り着いたオニヘイと決死の刃を交えるのだった。

 それら全てがタマモのはかりごとであり、コウは意識の外で己の体が行っていることを知る由もない。


「おれは……おれは……」


 コウは虚ろの海の中で、ただ溺れ続けることしか出来ない。

 自己を喪失し、理想を見失い、瞼を開くことすら億劫になっていたのだ。

 全てはタマモの目論み。不確定要素であり異常体であるコウの意識は危険だと判断し、内側に封じたのだ。

 外なる要因によって暗いとばりが破られるまで、コウが目覚めることはないだろう。

 

 ――ところが、は突如としてコウの内より生じた。


『いつまで寝ているつもりか』


 暗闇の中で荘厳な男の声が響き渡る。

 同時に、コウは首元に刃を突き付けられた時の様な鬼気迫る気配を感じ、総毛立つ。

 声と気配に触発されてコウが瞼を薄く開けると、そこには闇の奥から差し込む光を背にして立つ「剣客」の影があった。

 影によって顔の判別は出来ないが、外見は和装を纏う老剣士であり、この老剣士はと称すべき使い手である――そうコウは直感した。

 これまでコウが出会ったことのある老年の達人は、己を唯一負かした「翁」ぐらいしか思い浮かばなかったが、それとはいささか雰囲気が違った。

 それでも、なぜだかコウはこの剣聖を知っている気がした。


「おめえ、は……誰だ……?」

それがしを知りたくば、お主から名乗られるがよい』

「おれは……おれの、名は……」


 白井亨義則シライコウノヨシノリ――そう名乗ることをコウは躊躇ためらった。

 明確にその名が脳裏を過ったものの、それが己の名だという自信が、今のコウにはなかったのだ。

 コウが言い淀む姿を見た剣聖は僅かに首を傾げる。

 しかしすぐにコウの思考を理解したのか、短く息を吐いた。


『自らを解せぬ者に名乗る義理なし。言葉を交える道理もなし。しからば、これまで――』

「あ……まっ……待ってくれッ!」


 剣聖が踵を返そうとするのを、コウは咄嗟に引き止めた。

 するとその瞬間、コウは己が闇に這いつくばっていることにようやく気付く。

 醜い芋虫の如く地を這い、汚れた蛾の如く光に向かって手を伸ばす。

 己がそんな惨めな姿を曝していると知り、コウは唇を噛み締める。


『ほう……どうやら心根は腐っておらぬらしい』


 剣聖は立ち止まってコウを見下ろし、コウもまた剣聖を見上げる。

 影に塗り潰された顔から射られる視線と気配は、白刃の如く鋭利だ。

 だが不思議と、決して侮蔑の感情はないとコウは感じる。


『ならばお主、いつまでそこに這っている。お主は起き上がり方すら知らぬ赤子か?』

「……分からねえんだよ」

『何がだ』

自分てめえが何なのか……本当に剣士なのか……そもそも本物の人だったのかすらも……分からねえ……分からねえんだよッ!」

『ふむ』


 剣聖はコウの叫びを聞いて再び首を傾げるが、今度は平然とコウに問い掛けた。


『それはお主が自ら得た答えか?』

「え……?」

『お主は望んで自問自答の袋小路に迷い込んでいるのか、と聞いている』

「それは……」


 違う。決して望んで己を見失ったのではない。そうコウは叫びたかった。

 異常と呼ばれ、絡繰と呼ばれ、偽物と呼ばれた。

 巧みな言葉によって思考を乱され、答えを見失ったまま意識を塗り潰された。

 当然、それはコウ自身が望んだことではない。

 全てがタマモのはかりごと。狡猾な大妖怪の化身統括AIが、コウを自らの手中に収めるべく弄した策であった。

 それを理解するが故に、剣聖は問う。

 

『答えよ。お主は何故、己を見失った』

「……あいつに……玉藻前たまものまえに、そう言われた……おれは本物じゃなく、偽物だと……」

『「言われた」か。ならばお主は、他者の言葉で己が何者かを定めるのか?』

「!!」

『他者の言葉に切っ掛けを得ることもあろう。しかし、それはあくまでも切っ掛けに過ぎん』


 剣聖の言葉を聞いた瞬間、コウはかつてない程の衝撃を受けた。

 コウはこれまで、己が夢に至るための道をただひたすら歩き続けた。

 誰に何と言われようと、己の志が正しいこと、己が力でそれを証明することを、コウは他ならぬ自分自身に誓ったはずだった。

 だがコウはその信念を忘れていた。タマモによって意識ごと封じられていたのだ。

 それを今、剣聖の問いによって思い出した。


『己を定めるは己が心のみ。他者にあらず。お主もよく知っているはずだ』

「おめえは……いや、あんたは、いったい……?」


 何もかもを見透かしている様な剣聖の言葉、平時ならば嫌悪を抱いて噛みついたであろうコウも、この時ばかりは剣聖に対して感心の念を抱いていた。

 コウは、この剣聖をもっと知りたいと思った。

 剣聖の言動や佇まい、そしてなにより剣聖が纏う圧倒的な気迫に、己が辿り着くべき理想の一端を見たからだ。

 何者かと尋ねようとしたところで、コウは異変に気付く。

 異変の気配は剣聖と光源の反対側にあった。

 すぐさま視線を向け、そこに現れたものを視認した瞬間、コウはそれらに対する嫌悪で歯を食いしばる。


 暗闇の底より不定形の物体がぞくぞくと湧き出る。

 おどろおどろしい泥の大群、それらは一つ一つが変形し、やがて全てが九尾を持つ女狐の形と成った。

 タマモの形をした泥が数百体と並ぶ、不快極まりない景色――それがコウの目に映っていた。


「玉藻前ッ……!」

『なるほど。あれがお主の心を濁らす淀みか』


 泥の大群は濁流となり、地を這うしか出来ないコウに向かって飛び掛かる。

 それらはコウの意識を塗りつぶそうとするタマモの黒い意志の具現。

 これに全身を冒されれば、コウの意識は再び深い淀の底に沈んでしまうだろう。

 そうなればタマモの目論みはますます実現に近づく。

 為すがままにされるしかない己の惨めさに、コウは目尻に涙さえ浮かべた。


『お主の淀み、今この一時のみ某が掃って進ぜよう』


 ――しかし、この場にはコウを守る者がいた。道を示す者がいた。


 剣聖は腰に携える刀を鞘から引き抜き、その切先をコウに迫る泥の群れへと向ける。

 しかし剣聖はその場から一歩も動く様子がなく、また刀を振る仕草も見せない。

 抜き身の刀を正面に構え、それから一寸程も微動だにしない。

 そんな剣聖をコウはただただ見上げるしか出来なかった。

 だが、気付けば彼女の目から涙が消えていた。


 剣聖から迸る気迫が、一層苛烈さを増したからだ。


『“天神一刀てんしんいっとう――”』


 剣聖が静かに呟いた瞬間、彼の気迫が刀尖とうせんへと集約する。

 優れた剣士は己が気迫を刀剣に纏い、これをもって対峙する者の思考や気配を探る。

 これを「剣気けんき」と呼び、達人ともなれば対峙する者に幻覚さえ見せることを、コウは知っていた。

 そして剣士の極致たる剣聖は、刀尖に自身の剣気の具現を顕す。

 それを間近で目にしたコウは驚愕で思わず目を見開いた。

 剣聖の剣気は今まで見てきたそれと桁違いで、果てしなく、常軌を逸していたからだ。

 

 その具現とは「日輪」――即ち、天照大神アマテラスの威光と同義であった。


『“万象一截ばんしょういっせつ”』


 瞬間、日輪が刀尖から飛び立つ。

 飛翔する日輪は回転する炎の円刃となって、迫り来る泥全てに横薙ぎの一閃を走らせる。

 目前までコウに迫っていた泥の群れは、円刃に斬りつけられると一斉に動きを止め、そして全ての泥が胴を境にして真っ二つに別たれた。

 剣聖は刀を振ることも身動ぎすることもしていない。

 それでも泥の群れは剣聖に斬られた。剣聖が放った剣気に斬られたのだ。

 やがて全ての泥が日輪の熱によって蒸発し、塵となって跡形もなく消え去った。

 残ったのは静寂の闇と剣聖の背後から射す光だけ。

 剣聖は残心の後、刀尖から日輪を失せ、音もなく刀を鞘に収めた。


「すげえ……」


 まさしく神業を前にして、コウはただただ感嘆の息を零すしかなかった。

 剣聖と己の心技体の差は歴然。同じ剣士として、コウは憧憬の念を抱かずにはいられなかった。

 這い蹲ったまま見上げるコウの方に、再び剣聖の視線が戻る。


『お主の淀みは失せた。もはや地に這う理由も無し』

「本当に、何者なんだ……あんたは……?」

『知りたくばまずは答えるがよい。お主は何故なにゆえ、刀を握った。お主は何故、剣の道を志した』

「おれは……」

『思い出せ。お主の起源を。刀を握る理由を』


 剣聖の問いに、コウは瞬きの間ほど逡巡してから絞り出すように答える。


「……この世に示してえんだ、おれは……剣の道には、歳も、背丈も、性も、なにも関係ねえってことを……!」


 それは誰にも譲れないコウの夢。

 幼き頃より抱いた剣士としての目標であり、若くして死した父の遺志であり、そしてコウを形作ったもの。


「女で童で背も高くねえおれが、他ならねえおれ自身が! 天下無双の剣士となって、それを示してえんだよ……!」


 その夢を抱き続けたからこそ、剣客として生きる今の彼女がある。

 夢を口にしたコウは自己を再認識し、己が何者なのかを思い出したのだ。

 そしてだからこそ、コウは剣聖に問わずにはいられなかった。


「教えてくれッ! どうすれば……どうすれば、あんたみてえに強くなれるんだ!?」


 己が夢を叶えるためには、誰よりも強くならねばならない。

 それはどの世を見ても史上最強と呼べるであろう剣聖すら例外ではなく、故にその強さの秘密をコウは知りたがった。

 すると、剣聖は秘密を明かすことを渋る様子もなく、淡々と答える。


見性悟道けんしょうごどうのほかなし』

「見性、悟道……?」

『己の本質を見極め、悟りを得て道を開くこと。己が心を見つめ、ひたすらに心技体を磨くこと。それが我が天神の剣、我が師の教えなれば』

「心……」

『一朝一夕で成し得る教えにあらず。それに、今のお主には為すべきことがある』

「為すべき、こと?」


 剣聖は体を逸らし、背後から射す光の源を指差す。

 促されるまま光源を目にしたコウは、その中にあった景色に釘付けになった。


 なぜならそこには、険しい表情でコウの方を睨むオニヘイの姿が映っていたからだ。


「オニヘイ!!」


 思わず叫ぶコウだったが、その声がオニヘイに届くことはない。

 光の中に映し出されたオニヘイは、意識を失っているコウの目が実際に見ている映像だからだ。

 片腕を失っており、表情には焦燥も窺える。窮地に陥っていると一目で分かる状況だ。


 ――目を覚ませ! コウ!


 オニヘイは正面に向かってそう叫びながら、大盾でひたすら攻撃を凌いでいる。

 すなわちオニヘイと対峙しているのは、タマモに操られたコウ自身ということにほかならない。

 この状況を生み出したのは当然タマモだ。それを瞬時に理解したコウは悔しさと怒りで唇を噛み、唸りながらようやく体を起こす。

 しかし、未だ立ち上がるには至らない。


『今、お主の仲間達は存亡の危機に瀕している。生かすも殺すも、全てはお主次第だ』

「……おれは、仲間を……オニヘイ達を助けてえ……けど、おれに出来るのか……? 玉藻前にまんまとそそのかされた、おれなんかに……」


 コウには迷いがあった。

 心の淀みは消えたが、喪失した自信を完全には取り戻せていなかったのだ。

 その原因を剣聖は知っている。


『お主の迷いはこの先幾度も抱くものだ。幾度も挫け、倒れ伏し、心根から折れそうになるだろう。だが、お主はその度に立ち上がる。お主が己と仲間を信じ、そして仲間がお主を信ずる限り、幾度もな』

「信じる……」

『かつて某がそうだったように』

「あんたも……?」


 剣聖の言葉にコウは思わず目を見開いた。剣聖も、かつては自分の様に思い悩み、何度も挫けたというのだから。

 コウが驚く様を見て、剣聖は静かにほくそ笑む。


『左様。つい昨日の事の様に覚えている。そして、お主にとっては未来あすの事となろう』

「未来……未来じゃ、だめだ……おれは……おれはッ! 今ッ、立ち上がりてえんだッ!!」

『しからば、某が肩を貸そう』


 剣聖は再抜刀し、刃を地面と水平にして刀尖をコウに向ける。

 刀尖に日輪が顕れると、剣聖は輪を通してコウを見据えた。


『“天神嚇機てんしんかっき”』


 剣聖は鍵を回す様に手首を内側に捻り、白刃を垂直に立てる。

 刹那、日輪がコウを包み込み、全身に赤き輝きを纏わせた。

 するとコウの体内から洗練された力の奔流が溢れ出し、同時に心は研ぎ澄まされていく。

 それはこれまでコウが味わったことの無い感覚ではあったが、不思議とよく体に馴染んだ。

 コウは己の中で迸る不思議な力と気に驚きを隠せず、口元がにやけるのを抑えられない。

 湧き上がる活力は全身へと行き渡り、その力を足と腰に込めて蹴上がる様に体を起こす。

 そして、コウはついに立ち上がった。剣聖と同じ剣気を纏って。


「なんだこれ……力が、溢れて来やがるッ……!」

『お主の心眼を開き、天神伝兵法を一刻のみ扱えるようにした』

「天神伝、兵法……どうして、おれがそんな神技を……?」

『いつか分かる時が来る。それを扱える理由も、某のことも。しかし今はせん無きこと。己が為すべきことに専心せよ』


 刀を収めた剣聖は数歩横に足を運び、再び光源を指し示す。

 そこに映るオニヘイは、先と変わらず猛攻を必死に凌ぎ続けている。

 その目からは不屈の闘志が垣間見え、鬼奉行の勇姿にコウは拳を強く握った。


「そうだよな、オニヘイ……おめえが踏ん張ってんなら、おれがへばってるわけにゃいかねえよな……!」


 コウは腰の刀を素早く引き抜き、刀尖を光源へ向ける。

 白刃は開眼したコウの凄まじい剣気を帯び、それが赤き陽光となって放出される。

 赤き陽光は光源へと真っ直ぐ伸び、何人も妨げられぬ道を作った。

 コウは光源に向かって、しっかりとした足並みで歩みはじめる。

 光の先に進むことが己の覚醒に繋がると直感したからだ。

 数歩ほど進み、剣聖の隣まで至ると、コウは剣聖に向かって小さく頭を下げた。


「……礼を言うぜ、名も知らぬ剣聖殿。おかげで目が覚めた……いや、まだ夢ン中だから、覚めてはいねえのか?」

『余分な言葉は不要。疾く行くがよい』

「ははっ、それもそうだ!……じゃあな」


 剣聖が目を伏せて先に進むことを促すと、コウは無言の頷きで返し、視線を光源へと戻す。

 踏み出したコウの表情、双眸、姿勢、歩調、そのいずれにも迷いや恐れはない。

 ただ「仲間を助けたい」という確固たる意志に突き動かされて、コウは先へ進んでいく。

 やがて虚ろの海はコウの背後へと消え去り、コウの体は光に包まれた。


『異なる世界、異なる性に生まれた白井 亨よ。お主に天神の導きを――』


 そして剣聖の激励を背に受けながら、コウの意識は覚醒へと導かれて行くのだった。


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