第拾参話「鼠の夢」
居合から繰り出されたコウの神速の一閃は、柱状の転送光ごと現れた人影を水平に両断した。
コウは今度こそ確かな手応えを感じ、転送光の中から覚束ない足取りで現れた人影を視認する。
光の中から現れた人影は、紛れもなく数秒前まで戦っていた大義賊ゴエモンの姿だった。
対して、ゴエモンは何が起きたのか分からないといった表情を浮かべている。実際、彼はバックドアを通じて直接自身のサーバーにアクセスしたはずだった。
しかし彼が辿り着いたのは数秒前に居た管制塔の三十七階層、その展望区画だ。
そしてゴエモンの目の前には、刀に付着した何かを振り払って鞘に納める女剣客の姿があった。
つい先程までゴエモンを殺すつもりだったはずの彼女だが、既に戦う意志がないのか、目を閉じてその場で黙して佇んでいる。
理由はどうあれ戦う意志が無いのであれば、このままもう一度バックドアを目指して地上に向かうだけだ。そう思い駆け出そうとするゴエモンだったが、彼は自らの異変に気付いた。
――足が思うように動かない。いや下半身が動かないのだ。
転送されてから三歩程足を動かすことは出来たが、そこからゴエモンは全く動くことが出来なかった。
ゴエモンは下半身の感覚が完全に失われていた。神経を断絶され、信号を拒絶された様な非常に奇妙な感覚であり、それに対してゴエモンは不快感と恐怖を覚えた。
そして、その現象は間違いなくコウの仕業だとゴエモンは直感する。
「お前……何をしたぁ!?」
「……ああ、やっぱこりゃ夢だな。普通に考えて上半身と下半身がおさらばしたら、喋る間も無くおっ
「は――?」
呆れた様子でコウがそう言った直後、ゴエモンの視界は一気に下へ落ちた。
一瞬ゴエモンは自身に何が起きたのか理解出来なかったが、あるものが彼の視界に入り、漸く彼は状態を理解する。
ゴエモンが目にしたもの――それは腰より上が消えた自分の下半身だった。
ゴエモンの上半身と下半身は、先程コウが放った居合の一閃により腰を境にして綺麗に別たれていたのだ。
彼女の太刀筋が余りにも鮮やかで洗練されていた為に、ゴエモンはアバターの体が別たれたことはおろか、斬られた事にすら全く気付かなかった。
もしもこれが
だが彼等が居るのはVR世界、たとえ手足がもげようと、下半身が消失しようと、ユーザー達は決して痛みを感じない。
故にゴエモンは自身の下半身が切り離されるという一見絶望的な状況に陥っても、己の夢を諦めようとはしなかった。
ゴエモンはアバターの下半身を置いたまま両腕を使って懸命に床を這いずり、やがてガラス壁へと辿り着く。するとゴエモンはガラス壁に手を当て、先と同じ様にセキュリティホールを作り出してその穴に体を通した。
そして体を窓の外に出した上半身だけのゴエモンは、そのまま両腕の力を使って前に飛び出し、地上へと自由落下した。
現実では自殺と思えるその行為は、ゴエモンの最後の逃走手段であった。なにせVR空間では人は死なず、アバターは物理演算により発生する落下の衝撃を受けない。
ゴエモンは再び地上へと逃げたのだ。
しばらく目を閉じていたコウはその光景を見ていなかったものの、振り向いた先にゴエモンの死体が下半身だけしか残っていないことに気付くと、すぐさま回線を開いた。
「オニヘイ」
『どうした? まさか
「あ〜……盗人は斬り伏せた。もうヤツに足は無え。ただ……体の方が下に落ちた。悪りぃ」
『足を潰したんなら問題無え。それに地上に落ちたんなら逆に好都合だ』
「どういう事だ?」
『地上にはアイツが居る。俺もすぐに向かう』
「アイツ?」
確信めいた物言いのオニヘイの言葉を聞いて、コウは窓から地上を眺める。
人の姿が小さな点にしか見えない程の距離があるが、コウの視覚は地上に落ちたゴエモンの上半身を捉えていた。
ゴエモンは未だ諦めていないらしく、その体はゆっくりと地を這って動いている。
しかしその進行方向、這いずるゴエモンの目の前には、見覚えのある一人のユーザーの姿があった。
卍
地上に落下した上半身だけのゴエモンは両腕を使って地面を這い、惨めな姿を野次馬に晒しながらも必死にある場所を目指していた。
それは地上に設置したもう一つのバックドア。セキュリティが地上に配置されなかった場合に使用するはずだった、正規の逃走経路だ。
尤も奉行所は地上のバックドアなど予測済みのはずで、ゴエモンはそれを見越して最初から離れたビルの上のバックドアを使用するつもりだった。
故にゴエモンが地を這ってでも目指しているバックドアは、奉行所に把握されている。既に対策されて、自身のサーバーに辿り着けなくなっていたとしてもおかしくはない。
もはや鍵を手に入れるという目的を果たせる可能性は、微粒子レベル以下だ。
それでもゴエモンはバックドアを目指す。
彼には果たしたい想いがあるのだ。
鍵を捨て、今すぐダイブアウトすれば奉行所の捕縛は免れるだろう。しかし彼はそれをしない。
――きっとゴエモンなら、こんな惨めな敗北はしない。敗走もしない。
彼が抱き続けた理想の光、その輝きを自ら手放さない為に、彼は地面を這う。
大義賊ゴエモンの名声と彼が自分に見せてくれた夢を、自ら壊さない為に。
力の限り這いずり、地上のバックドアまであと五米というところまでゴエモンが近付いたその時、行先を阻む様にして彼の前に一人のユーザーが立ち塞がった。
鉄鎧に白い羽織を身に付けた男のアバター。同心達が使用する犯罪ユーザー制圧タイプと同じ武装を身に付けたそのユーザーは、這いずるゴエモンにスタン銃の銃口を向けた。
「終わりだ、ネズミ」
ゴエモンはそのユーザーの声と「ネズミ」という呼ばれ方を聞いて、はっとした。
ネズミという呼ばれ方は随分と久しぶりで、その呼び方は三年前に捨てたユーザー名だった。
彼はゴエモンが消えたあの日、彼を慕っていたネズミというアバターを捨て、自らがゴエモンに成り代わる事を誓った。現在の彼のアバターもゴエモンとなる為に用意したもので、ネズミの時のアバターとは完全に別物だ。
以来、彼がネズミと呼ばれた事はない。
しかも当時からネズミに知り合いはほとんど居なかった。それもそのはずで、ネズミは当時ゴエモンの義賊行為の手伝い紛いを行なっていた準犯罪ユーザーだった。
故に極力知り合いは作らなかったネズミを知っている者といえば、手伝いの為に協力を頼んだ情報屋か、三年前のゴエモン本人しかいない。
そこまで思い至った現在のゴエモンは、そのユーザーを見上げた。
目に映ったのは、スタン銃を構えて真剣な眼差しを己に向ける男。表情はほとんど無いが、その目にはどこか憐れみが宿っている様に思えた。
そしてゴエモンはその男の眼差しに覚えがあった。
「アンタ、まさか……!?」
「俺は奉行所与力にして筆頭補佐のチュースケだ。大人しくお縄につけ」
「チュースケ? ……はっ、ははっ、ははははははははははは!」
チュースケの名を聞いた途端、ゴエモンは壊れた絡繰の如き笑声を上げた。
明らかな嘲笑だが、ゴエモンの言をチュースケは黙して聞く。
「チュースケ! チュースケ! 鼠! あっははははは! アンタが、鼠! 皮肉なもんだな、ええ!? 夢見た鼠が今はゴエモンで、夢を諦めたアンタが今は鼠なんてな! こいつは傑作だ! あっはっは!」
「ネズミ……もうゴエモンの夢は終わりだ。いや、夢なんて最初から始まってもいねーんだよ」
「ふざけんなッ! アンタが俺達を裏切ったんだ! アンタはもっとやれたはずなのに……だから俺がやってやった! 俺がゴエモンになった! 俺がEDOの奴等に、夢を見させてやるんだ!」
「いい加減に目ぇ覚ましやがれ! お前がやろうとした事はただのサイバー犯罪だ。義賊の矜持も無視した、ただ私欲に溺れた男の……悪行だ!」
「違う! ゴエモンは正義だ! この鍵があれば全てを変えられる! 私腹を肥やしたクズどもの金は全てのユーザーに均等に渡り、EDOは平等な世界になる! それを大義賊ゴエモンがやってやるんだよ!」
ゴエモンを演じた男の叫びが、願いが、夢が、辺り一帯に木霊する。
それはかつて大義賊が成し遂げた偉業に憧れを抱き、それまで地面を這いずるだけだった鼠の悲願。一際大きな輝きを放ち、しかし最後には闇夜に跡形もなく消えていった花火の如き理想。
地を這い空を見上げる鼠の慟哭だった。
チュースケはそれを聞くとゴエモンの前に膝を着き、ゴエモンの襟首を両手で掴んで強く引っ張り上げた。
目と鼻の先まで顔を近づけ、じっと目を見つめ、そして彼は己の意志を告げる。
「ネズミ。ゴエモンはあの日、死んだんだよ。自分の行動じゃこの世界を変えられないと知って、やってきたこと全てが無駄だったと知って、絶望した。皆に一時の幻想は見せられても、全て電子の海に消える。本当の望みが叶う事は決してない。そう理解しちまった」
「本当の、望み……?」
「だからゴエモンは己を捨てた。本当にすべき事が分かったんだよ。ケジメつけて、罪を償って、どれだけ泥臭くても前に進むと決めたんだよ。派手さなんて要らねえ。誰かに見てもらう必要もねえ。一歩ずつ、自分が抱いた夢に向かって着実に歩いていく。そう決めたんだ」
静かに告げられた意志は鉄よりも固く、その内には圧倒的な熱が秘められていた。
それは三年前、最もゴエモンの近くに居たと自負していたネズミですら一度も聞いたことがない、彼の本音だった。
チュースケは掴んでいた襟をゆっくりと離し、ゴエモンの肩に優しく手を置く。
「だからよ、ネズミ。お前も前に進め。いつまでも過去に囚われるな。お前はゴエモンじゃねえんだ。お前は……お前自身に戻るんだ。お前の夢を追うんだ。ゴエモンの為じゃなく、お前の為に」
諭すようなチュースケの言葉に、ゴエモンは俯くしかなかった。
本当は、彼は分かっていた。
こんな事をしても、自分が求めた光はもう戻って来ないことを。
いくらゴエモンを演じても、本当のゴエモンにはなれないということを。
ただ、彼はもう一度見たかっただけだったのだ。
EDOに降り注ぐ金の雨と、人々が瞳を輝かせるあの景色を。
あの日見た夢を。
「それでも……それでも俺は……ボクはっ……ゴエモンに……アンタに、憧れて……アンタの夢を、もう一度っ……うぅ……あぁぁ……」
「……全てを償って来い。そして、またここに戻って来い。待ってるぜ」
チュースケはストレージから捕縛ツールを取り出し、ゴエモンの体にそれを巻き付け、ダイブアウトを不能にする。
そしてコンソールを操作し、共通回線を開く。
深く息を吸い、意を決し、チュースケは終わりを告げる。
「こちらチュースケ。ゴエモン……確保」
大義賊ゴエモン捕獲の報告を聞いた同心達の歓喜の声が、所々で上がる。それに便乗して、野次馬のユーザー達からも大きな歓声が上がった。
辺りは喧騒で満たされ、現場の近くに居た同心達は次々とチュースケを賞賛するが、それらの声がチュースケの耳に届く事はない。
彼の意識は電脳の夜空に向けられていたからだ。
その場で静かに佇むチュースケは、かつてゴエモンが飛んだEDOの星空に、想いを馳せるのだった。
卍
――西暦二〇八九年八月二十五日、午後一時二十八分。
――音声データ、再生開始。
「『大義賊ゴエモン』――世界レベルのファイヤウォールも突破する超級のハッカーが、どうしてサイバーセキュリティになろうと思ったんだ?」
「最後の盗みをやった時に、気付いたんだよ。俺の義賊行為はただ世間を騒がせて皆をほんの少し裕福にしても、俺の目的は果たせねえってな。俺の目的は多くの悪徳企業を潰す事だったんだが、俺が狙った銀行は全て企業の裏銀行で、謂わば存在しない銀行だ。だから企業側は被害申告が出来ず泣き寝入り。俺の足がつくことも無かった」
「裏銀行は謂わば予備銀行に過ぎねえ。それだけじゃ資金の一部を減らせても、決定打にはならねえはずだ」
「そうだ。だから俺は警察に自分が盗みをやった銀行とその企業リストのタレコミをする為に、サイバー犯罪対策課のある人物と交渉した」
「旗本か」
「バイトでハッカーとしてオニヘイと仕事をしてたこともあって、松平課長は俺を信用してくれた。俺がゴエモンであることを打ち明けても、逮捕しなかった。というか、バイトとはいえEDOを騒がせた大義賊が警察関係者に居たなんて、認められるはずがねーからな」
「ま、そもそも起訴されてもいなかったはずだし、扱いに困るだろうな」
「タレコミの結果、七つのうち四つの企業を営業停止に追い込んだ。本当は全部潰したかったんだが、それでも俺は満足していた。これでブタ箱にぶち込まれても悔いは無えってな。だが、その後課長からある提案を持ち掛けられた」
「それが、課外捜査官か」
「本当なら俺は逮捕されるべき犯罪者だ。だが警察は俺を逮捕したくねえし、そもそも俺は誰にも起訴されてねえ。でも俺はどうにかして自分がやったことの償いをしたかった。そこで課長から『三年間、課外捜査官として働くこと』を提示されたんだ」
「で、手前は俺の補佐になり、そして今に至るわけか」
「課長には感謝してる。サイバーセキュリティをやってるうちに、本当に俺がやりたかったのは『サイバー犯罪からユーザーを守ること』ってのが分かったからな。それと、お前や他の皆にはすまねえと思ってる。いつかは話さなきゃいけねーと思ってたが、ずっと話せずにいた。謝って許されることじゃねーのは重々承知してる。けど俺は――」
「バカタレ、今さら関係無えよ。旗本が認めてんなら俺達が口を出すことは無えし、そもそも手前はゴエモンじゃねえ。奉行所の一員で筆頭補佐のチュースケだ。今までも、そしてこれからもな。違うか?」
「オニヘイ……」
「ま、そんなに手前が償いてえって言うんなら今度の作戦成功祝いの打ち上げ代、全員分の奢ってやったらどうだ? 結構良い額いくぞ」
「……ぶっ、ははっ! そりゃいいな! 任せておけよ! なんなら今からでも――」
『オニヘーイ! チュースケー! 飯行こうぜ飯ー! あん? 二人して何やってんだ?』
「チュースケが飯奢ってくれるって話だ!」
『本当か!? なら今すぐ行こうぜ! ほらボサッとすんなよ! 置いてくぞー!』
「……だってよ。ちなみに俺の分も奢ってくれんだろ?」
「巫山戯ろよ」
「この野郎!」
「はーはっはっはっは!」
――音声データ、再生終了。
第弐曲 義賊ノクターン 終演
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます