第拾弐話「一閃」
ゴエモンは己の素早さに絶対の自信があった。
目標を迅速に奪取する為の高速移動に、建物から建物へ飛び移る為の跳躍力、そして通常のアバター規定の数倍に強化された反応速度、これらを持つ違法改造された彼のアバターには、同心達が使用する犯罪ユーザー制圧タイプであっても追いつく事が叶わない。それは先程の同心達との攻防で証明された。
そしてゴエモンは一般ユーザーでは実現出来ない「他ユーザーへの攻撃」すら実現している。
それは当然一般人には許されない技術であり、現時点でその攻撃に対抗出来るのはセキュリティ権限を持つユーザー達だけ、つまり奉行所の同心達だ。
だが彼等はゴエモンの速さに追いつく事が出来なかった。つまりそれは、このEDOにおいてゴエモンを打倒し得る者が存在しないという事だ。
――ただし、それは『彼女』がEDOに現れるまでの話だ。
「おっとっとぉ!」
神速の一閃が目と鼻の先を走り抜け、間一髪のところでそれを回避したゴエモンは跳びながら後方に退避する。
居合から繰り出した自身の一閃が空を切った女剣客――コウはその手応えの無さに眉を顰め、刃を見てそこにゴエモンの血が着いてないことを確認すると、腕の調子を確かめる様に刀を素振りした。
「避けるなよ」
「いやいや、その一撃は受けられねえなぁ」
ゴエモンは最初の打ち合いにより、コウの剣撃が速いだけではなく非常に重たいものであることを理解していた。
その証拠に、先程煙管で弾いた際に生じた振動が未だにゴエモンの腕には残っている。
次に同じ攻撃を受ければ、今度は腕が全く機能しなくなる可能性すらある。故に逃走経路を阻むコウと正面から打ち合う事は、自殺行為に等しいと彼の脳が早々に結論を出していた。
よってゴエモンが取る戦術は一つ、「逃げの一手」である。
それもそのはずで、何故なら彼の勝利条件はコウに勝つ事や彼女を行動不能にさせる事ではなく、彼女の背後のガラス壁を突破して地上へと降下することだからだ。
「なぁ
展望区画の窓から飛び降りる様に地上へ降下すれば、ゴエモンは予め用意したバックドアを潜ることが可能だ。バックドアを通って一度自身のサーバーに入ってしまえば、セキュリティが彼を負うことは出来ない。
そうなれば彼はキーマスターの鍵を使い、EDO全土のクレジットを意のままに操る存在と化す。歴史的犯罪ユーザーとなるのだ。
しかしコウはそれを許さない。正確に言うと彼女が許さないのはゴエモンが歴史的犯罪ユーザーになる事ではなく、黙ってゴエモンを通す事だ。
「生憎、おれぁ手荒なやり方の方が性に合ってんだよ。つべこべ言ってねえでかかって来いよ、盗人。それとも鼠みてえにこそこそ逃げ回るか?」
「俺は鼠じゃねえッ!! 俺は……俺はゴエモンだ! 大義賊ゴエモンだッ!!」
「はっ! 粋がるじゃねえか盗人!」
コウが放った挑発がゴエモンの何かを刺激したのか、激昂するゴエモンは煙管の他にショートカットストレージから刀型のアイテムも取り出し、右の手に刀、左の手に煙管を携えた。
それを見て狙い通りゴエモンがやる気になったと思ったコウは口角を釣り上げ、刀を両手で握り、切先を相手の眼の方へ向けた構えを取る。
コウが取ったその構えは現代剣道では基本の構えとされ、どの方向からでも攻め、そして守りが可能な『正眼の構え』である。
戦い慣れた剣術家であればこの構えに対して迂闊な攻めはしない。大振りな攻撃ではその隙を突かれ、小手先の攻めでは反撃を食らうからだ。
だがゴエモンは電脳世界での盗みが得意なのであって、戦い慣れているわけではない。
故に先に斬りかかったのはゴエモンだった。その速さと手にする特殊な刀をもってすれば、コウを斬り伏せてそのまま逃げ果せる事が出来ると踏んだのだ。
間合いを詰めたゴエモンはコウの頭目掛けて刀を素早く振り下ろす。
この瞬間、ゴエモンは攻撃が成功したと思い内心でほくそ笑んだ。
「
しかしその笑みは一瞬でかき消えた。
ゴエモンは自らが振り下ろす刀がコウの頭に到達するよりも速く、己の首元目掛けて刀の切先が接近している事に勘付いたのだ。
それはコウが繰り出した神速の『突き』であった。
予備動作なく繰り出されたそれを避けるのは至難の業であり、実際ゴエモンはこれを完全に避ける事が出来ず、首左側の構成データの一部が削り取られた。
現実であればこれにより喉が潰され、その痛みで怯んだ隙をさらに攻められてとどめを刺されていたことだろう。
だが電脳空間で痛みは発生しない。ゴエモンはそれ以上の攻撃を受けまいと攻撃を中断し、すぐさま後方に跳び退いた。
再び両者の間合いが開く。
「へぇ、その首串刺しにするつもりだったんだが……思ったよりもやるじゃねえか」
コウは刃を確認し、今度こそ確実に斬った感触とその証拠を捉えた。
刃に付着したものが血ではなく、
「けど、やっぱ所詮は盗人だな。次で決める」
「くっ……そぉ……!」
コウは再び正眼の構えを取り、刀の切先をゴエモンの眼に向ける。
しかし彼女から放たれる気配は先の比ではない。眼光は鋭さを増し、次こそ「殺す」という気迫に満ち溢れている。
次にコウから繰り出される一撃は、確実に己の首を刈り取るだろう。眼前に立つ女剣士を前にしてゴエモンはそう思い至り、ふと己の首が飛ぶ様を想像してしまった。
ゴエモンはまさに窮地に追いやられていた。
先程突きを受けた己の首は何故か上手く動かず、目の前の強敵を突破する手立てが無い。唯一突破出来る可能性があるとすれば、自らが持つ刀を相手の刀に打ち合わせ、それにより生じる隙を突くことだ。
だが先のコウの突きはゴエモンの刀をすり抜ける攻撃であり、反撃によるコウの神速の突きを刀で防ぐ自信がゴエモンにはなかった。
防御の体勢でコウからの攻めを待ち構えれば襲い来る一撃を刀で防ぐことは可能だろうが、コウが自ら攻めに転じる様子はない。
それも当然だ。コウは展望区画のガラス壁の前に立っていれば、相手が攻めざるを得ない事を理解している。
ゴエモンは唯一の逃走経路であるガラス壁を突破し、地上のバックドア目掛けて降下する必要があるのだ。その為にはコウを突破しなければならない。
そして先に行動不能にした同心達も、時間が経てば復帰する。故にゴエモンには時間が無い。
攻めなければ逃げられず、しかし攻めても逃げられない。
状況の悪化と迫り来る破滅の時間に強迫され、ゴエモンは緊張と焦りで汗が止まらない。
数秒の膠着状態が続き、両者とも痺れを切らそうとしていた、その時だ。
『――あ――――し――――――て――』
「ぐっ!? なんだ、これ……頭がっ……声、か……?」
突如、コウに異変が起きたのだ。
コウの頭にはノイズの様な不快な音が生じていた。それは声にも似ているが、はっきりと聞き分けられるわけではなく、しまいには脳を揺さぶり片手で頭を抑えてしまう程であった。
これによりもう片方の手で刀を構えてはいるが、正眼の構えは崩れ、体は軸が少しぶれている。
その隙をゴエモンが見逃すはずはなかった。
ゴエモンは自身が誇る最大加速でガラス壁へ疾駆を始める。そのまま止めるものが無ければゴエモンは窓を破って地上へ降下するだろう。
当然、不意の頭痛に魘されたとしてもコウがそれを見逃すはずはなく、彼女は自らの横をすり抜けようとしたゴエモンに対して上段から袈裟斬りを放つ。
しかし先の突きであればともかく、万全でない状態で繰り出されたその一刀を防ぐことは、ゴエモンにとって容易だった。
ゴエモンは走り抜けながら自らの刀を翳し、襲い来るコウの刀に打ち合わせる。本来ならただ一太刀を防いだとしても、続けて繰り出される剣戟を交わすことは叶わない筈だ。
ところが、金属同士が衝突する甲高い音が鳴り響いたその瞬間、ゴエモンの刀は内部で「カチリ」という音を発し、直後強烈に発光を始めたのだ。
ゴエモンが携える刀は、刀型の閃光爆弾であった。
「にぃゃあああっ!? くそッ、目眩しかこの鼠野郎!」
光を察知して咄嗟に目を瞑ったコウだったが、あまりにも強い光により片目が焼かれた様だ。
コウはその場から数歩後退り、連撃を繰り出すことが出来なかった。
「はーはっはっは! 試合に負けても勝負には勝つ! あばよお嬢さん!」
結果、高笑いを上げるゴエモンは蹴破る様にして窓のセキュリティホールを開き、そのまま三十七階層から飛び降りた。
ゴエモンからすれば、逃走はほぼ成功したと言えるからだ。
「くそッ、あの盗人……そうだ!」
コウは上手く逃げおおせたゴエモンに対する怒りと、それを許してしまった事を酷く悔やんだが、すぐさまこの事実をオニヘイに伝えようと思い至たる。
しかしその思考と同時にコウはある事を思い出し、急いで懐の円盤を床に放り投げた。
直後、機を見計らっていたかの如くコウの通信機が作動し、彼女の耳に聞き慣れた声が届く。
『上出来だ、コウ。だがもう一度構えろ。そして今度こそ、奴にトドメを刺せ』
「上等だ……!」
オニヘイの静かな言葉により、コウは自らの仕事を、この後に己がやるべき事を明確に思い出す。
閃光に封じられた片目を閉じ、刀を鞘に納め、床に落ちた円盤の前に腰を落として立つ。
感覚を研ぎ澄まし、居合の構えから繰り出す一閃とその振りを頭に浮かべ、次の一撃に精神を込める。
今度こそ、自らの一刀が勝利を掴む為に。
ゴエモンが降下してから時間にしておよそ七秒。
突如、ポインターと連動する円盤から天井に向けて一筋の緑光が発せられ、光柱の中に人の影が現れたその瞬間――。
「斬ッ――!」
光柱は人の影ごと横一閃に断ち斬られた。
卍
時はコウとゴエモンの一騎討ちが始まって間もなく。
管制塔を観察するチュースケは、三十七階層で繰り広げられている攻防を想像した。
恐らく同心達ではゴエモンを止める事は出来ない。自分から犯行予告を出している以上、ゴエモンは最初から同心達を無力化する術を持ち得ており、多少厄介な相手が居たとしても、それをかい潜って逃げる術さえ持ち得ているのだ。
チュースケにはそれが分かっていた。
彼はゴエモンの事をよく知っていた。
もしゴエモンがコウの様な凄腕の剣客と相対した時、どの様な逃走術を取るのか。
もしコウに隙が生まれたとして、その時ゴエモンがどの様な行動を取るのか。
管制塔から逃走出来たとして、その後ゴエモンはどこに逃げるのか。
そして、どこにバックドアを設置しているのか。
チュースケはそれらを全て理解している。彼は全て予測出来るのだ。
ふと管制塔の窓から眩い光が漏れたかと思った直後、正面側のガラス壁の中央には切り抜かれた様に穴が空き、そこから派手な装束のユーザーが飛び降りた。
その歌舞伎の様な格好に、花火の様な爆発頭、間違いなく捕獲対象のゴエモンだ。
ゴエモンはそのまま地面へと落下していく。バックドアを通るなら、当然窓の真下の地面が最適だ。落下時の加速も相まってバックドアを通るのに三秒もかからないだろう。
しかし、奉行所の予測班がそれを理解していないはずはない。その証拠に地上には既に十数人の同心達が待ち構えている。
地上に設置されているバックドアの位置予測も済ませ、その対策も為されているはずだ。
故にゴエモンの命運はここに尽きる――地上で待ち構える誰もがそう思った。
「はーはっはっはっは! 我が逃走経路は地上に非ず! 残念だったな諸君!」
落下しながらもゴエモンは高々とそう叫ぶと、手にした煙管の雁首を持ち手と分裂させ、雁首をどこかへと投擲した。
雁首と持ち手は長い紐で繋がっており、雁首は管制塔から数十米離れたビルの屋上へと真っ直ぐ飛翔、そして屋上に設置されたアンテナに引っ掛かった。
そしてゴエモンは持ち手のスイッチを押し、飛ばした雁首に繋がる紐を急速に巻き上げてその力を利用して空へ飛んだ。
ゴエモンの狙い、即ち彼の逃走経路たるバックドアは、地上ではなく離れたビルの屋上にあったのだ。ゴエモンは奉行所がバックドアの予測をする事すら先読みしていたのである。
こうしてゴエモンはEDOの夜空に高笑いを轟かせ、悠々と彼が設置したバックドアに降り立つ。
瞬間、ゴエモンの足先が屋上に設置した緑光の扉に触れ、彼の個人サーバーに繋がる通路が開かれた。
これでゴエモンは伝説となる。あの時果たせなかったゴエモンの夢を、果たすことが出来る。
バックドアを潜ったゴエモンは、歓喜に打ち震えた。
しかしゴエモンは知らなかった。
ビルの屋上、その物陰に一人のユーザーが潜んでいた事を。
そしてそのユーザーが、ある装置を起動していたことも。
「――やっぱりお前ならそうすると思ってたよ、ゴエモン。いや……ネズミ」
どこかで聞いた覚えのあるその声を耳にした瞬間、バックドアの緑色の転送光が赤色に変化し、ゴエモンはバックドアの転送ルートが書き換えられた事を察知した。
ゴエモンのアバターは、自身のサーバーではない別のどこかに転送されているのだ。
慌ててコンソールによるバックドア制御を行おうとするが、突然の事で思考は纏まらず、ゴエモンの操作は既に間に合わない。
転送光が収束した次の瞬間、ゴエモンの目に映ったのは、水平に刀を振り抜く女剣客の姿だった。
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