コップの中の漣 ~Ripple in a Teacup~

佐賀瀬 智

公平と麻衣子

「私がお茶を入れるわ」

「いや、僕が入れますよ」

「私に入れさせて。紅茶。ちゃんと言われた通りエビアンのお水使うから。公平さん、どのお茶にします? 今日はロイヤルアルバートのテイーカップを使っていいかしら?」


「そ、そう。じゃあ...アールグレイをお願いしようか...な...」


 と言ったものの、心ではお願いしたくなかった。


 僕は酒を飲まない。もう、15年くらい飲んでいないかな。酒など飲みたいとも思わない。その代わり紅茶を飲む。紅茶が好きだ。大学時代にイギリスに短期留学した時に紅茶の優雅さに魅了された。パブでピーナッツとポテトチップスをつまみに、ぬるいエールをくだらないジョークを聞きながら飲むよりもテイールームでアフタヌーンテイーの優雅な時間を過ごすのが好きだった。それ以来、紅茶の世界にどっぷりとはまっている。紅茶の種類は常備20種類以上、テイーカップは磁器、ボーンチャイナの由緒正しいカップアンドソーサーを少しずつ買いそろえ、今では50客くらいある。その日の気分によってお茶を、テイーカップを選んでお茶の香りと色、カップの柄、形、口当たりのよさを楽しむ。僕の至福の時間なのだ。おばさん趣味と言われてもいい。


 今、僕にお茶を入れてくれているのは、結婚を前提としてお付き合いをしている山本麻衣子さん。会社に来る保険会社の人の紹介で知り合った。いわゆるお見合いだ。初めて会った時からいい感じの人だなと思ったし、彼女も酒を飲まないから酒を飲まない僕のことを気に入ってくれたようだ。僕の紅茶の話やイギリスの話に興味を持ってくれて、話が弾んだ。それに何より彼女の顔が僕好みの顔だった。こんな40手前のぱっとしないおっさんに夢のような話が舞い降りてきたのだ。

 ただひとつ問題なのは、彼女は紅茶の入れ方が下手すぎる。最初は問題でもなんでもない些細なことだと思っていた。練習すれば彼女も美味しい紅茶を入れることができるだろうと。紅茶の入れ方を教え何度も彼女にお茶を入れてもらったけれど、毎回不味くて飲めたものじゃない。彼女自身、美味しいお茶を入れようと頑張っているのだろうけど、彼女の入れるお茶はこの上なく不味いのだ。どうやったらあんなに不味くなるのだろうか不思議でしかたがない。なので、今日のお茶も不味いだろう。


「お待たせしました」

「なっ!?」

 僕は唖然とした。不味い不味くないの前に、シルバーのトレイに乗っているテイーカップたちは僕の想像を遥かに越えた絵面だった。

 気品溢れる薔薇の模様のロイヤルアルバートのカップにテイーバッグがそのまま入っていてお湯が注がれておりテイーバッグのヒモがだらっとカップの口から垂れているではないか。ミルクと言えばピッチャーに入って横にちょこんと添えられている。


 ――――ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう!!

 なぜテイーポットを使わないのだ。このエレガントな美しいフォルムのロイヤルアルバートになぜヒモを垂らす?! その美的感覚おかしくはないか?


 怒りが、怒りが沸々とこみ上げてきた。ダメだ、叫んでしまいそうだ。いつかテレビでアンガーマネージメントのことをやっていたのを思いだし、僕は心の中でゆっくり数を数えそして深呼吸をして、やっとのことで平常心を保ち訊ねた。

「ま、麻衣子さん、なぜ、テイーバッグがダイレクトにカップの中に入っているのですか?」


「あの、それは、公平さんアールグレイで、私、ダージリンが飲みたかったから。一緒のポットにいれると香りが混じっちゃうでしょう。今回、ちゃんと硬水のエビアン使いましたから。紅茶は硬水じゃないと美味しくないのですよね」


 「ああああ......、あの、小さめのポットもありますので、次からは一人用のポットでお願いします」

 あからさまの僕の落胆の声に

「ご、ごめんなさい。次からは気を付けますね」

 少ししんみりした。

 僕は、ここでグッと我慢をしたら良かったのだけれど、腹の虫が収まらず続けてしまった。

「それに、これだとミルクを後に入れることになります。前にも何度か言いましたけど、ミルクが先で紅茶は後なのです」

「...でも、あの、ミルクが先でも、後でも味は同じでは」

「同じじゃないっ」

 僕はイライラして知らず知らずのうちに強い口調になっていた。


 少しの間、二人を沈黙が包んだ。ヒモを垂らしたロイヤルアルバートから湯気がユラユラと立ち上っている。それを見つめていた麻衣子が口火をきった。二人の間に漣が立った。


「なんかあ、面倒くさいです」

 彼女も強い口調になった。

「へっ、」

「同じよ。紅茶の味」

突然の彼女の反撃に目が点になったけれど、ここは負けられない。お茶に関しては譲れない。

「同じじゃないよ」

「同じよ。ミルクが先とか、紅茶が先とかで味が変わるわけ無いじゃない」

「いや、それが微妙に変わるのです」

「変わるとしたら、先とか、後じゃなくて量でしょう、どれだけミルクを入れたかで味は変わるのよ」

「温度なんです。温度で微妙に味が違ってくるんだ」

「なによ、違いがわかる男っていうわけ?」

「はあ、それ、バカにしてるだろう」

「バカになんてしてないわよ」

「君には分からないかもしれないが、ミルクが先と後では味がちがうんだ。紅茶の味が!」

「そんなの一緒よ。あなたの気分の問題よ。分かったふりして本当は味なんて分かってないんじゃないの!?」

「なんだって!?」

「もう、面倒くさいっ!」

「この微妙な味の違いがわからないなんて、話にならないよ。君は繊細さに欠けるんだ。だからいつまでたっても美味しいお茶が入れられないんだ!」

「――!! ひどいわ! 公平さん、それじゃあ、私ががさつな女って言いたいわけ? 私、一生懸命、公平さんの言われた通り、がんばってやっているのに。こんなに細かく言われたら、私、私、どうしていいかわからないわ」

 麻衣子は僕に背を向けてしくしく泣き出した。

 ......うっ、う、う、

 参ったな。女は卑怯だ。分が悪くなると泣けばいいと思ってる。

「ごめん。ちょっと言い過ぎました。ごめんなさい」

「......ごめんなさい。私の方こそ泣いたりして」

アイメイクを気にしながら中指の腹で涙を拭き麻衣子は言った。

 僕はテイッシュを2、3枚引き出して彼女に渡した。

「すみません。私ったら、いつまでたってもちゃんとお茶を入れられない自分にいらいらして。すみません」

鼻の下を伸ばし目をぱちくりさせて受け取ったテイッシュで、下瞼をおさえ拭いている

「いや、僕のほうこそすみません。つい、むきになってしまって。これからは僕がお茶を入れますから」

「いいえ、あたしがんばるわ。公平さんために、お茶くらい私が入れたいの」


 えっ、、今、って言った?



 ――――――



「些細なことじゃないか。そんなことで悩んでんの?」 

 社員食堂でスタミナ定食を食べながら同僚の山田が言う。

「おまえさあ、これ最後のチャンスじゃないの? 歳のこと考えろよ。麻衣子さんみたいないい人と出会うの、この先ぜったい無いぜ。紅茶の入れ方くらいどうってこと無いじゃないか、結婚式の日取りも着々と進んでいるんだろう」

「うん、まあ......」

「好きなんだろう? 彼女のこと」

「好きだよ。僕には彼女は勿体無いくらいだ」

「じゃあ、いいじゃないか。家庭を持っている先輩の俺に言わせると、結婚生活なんて我慢、妥協、諦め、の三つ巴。紅茶の入れ方なんて全然我慢のできる範囲じゃないか。っていうか、おまえそれ、のろけ話だろ。いいよなー。紅茶入れてもらって。俺なんか紅茶どころか、最近では家にも入れてもらってないよ。ガハハハ」

「ハ、ハハ...ハ......」

僕は豚カツ定食を見つめている。ただでさえ食事が喉を通らないのに、豚カツの衣は見るだけで喉に詰まりそうだ。なぜ豚カツ定食を頼んだのだろう。



 そう、それは些細なことなんだ、ちょっとした漣が二人の間たっただけ。いずれは解決する二人の間の些細なことなのだ。コップの中の漣。嵐にもならない漣。結婚すれば落ち着いて、結婚すれば......


 ああ、僕は、どうすればいいのだろう......




 おわり


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コップの中の漣 ~Ripple in a Teacup~ 佐賀瀬 智 @tomo-s

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