第34話:急襲の魔の手
「っ――逃げるわよッ!?」
その異形な怪物の咆哮は、地面をガタガタと揺るがし、確かな空気の振動を鼓膜へと届けてきた。なんて大声だろうか。声帯の仕組みが知りたい。同時に、禍々しい魔力も敏感なまでに感じられる。
あまりの唐突な事態に、無理解と畏怖とで呆然と見上げる人混みの中、エルウェは即座に判断を下した。すなわち逃走。生きるための選択だ。
「ぁ、あァ!!」
「ふぇぇえええ何あれ何あれ絶対ヤバいってっ!?」
僕とフラム先輩もハッとし、気を取りなおす。
そしてエルウェのある意味まともな行動を皮切りに、砦を囲うように造られた《ラズマリータの街》は大混乱に包まれた。武器を持ち抵抗する意志を見せているのは少数だけだ、それもあの怪物を見れば仕方がない。戦意喪失してないだけすごいけれど、僕らはもちろん逃げさせてもらいます!
無秩序に行き交う人々に揉まれながら、間隙を縫うようにエルウェは駆けた。
目指す先なんかわからない。弱者はただひたすらに逃げ惑うしかないのだ。
「どっ、どうしよ、どうすれば!? どこに――どこか隠れる場所はっ、」
「落ち着け主ィ! 遠目にだから恐らくだがァ、あの魔物の『基』になってるのは
「そ、そうね。それなら幌馬車を――あっ、待って!? 待って下さい!?」
フラム先輩が驚異的な動体視力で敵の情報を列挙する。
勢いよく肯首したエルウェは、目の端で今にも慌ただしく出発しようとしていた馬車を見つけて大声を上げる。なんとか待ってもらえたのは、エルウェが美人だったからに違いない。現金な御者だ愛してるありがとう。
ありがとうございます、と息も絶え絶えに、サムズアップしているでっぷり太った御者さんに伝えると、幌馬車は《皇都》に向けて走り出した。その間も化け物が破壊せんと暴れ回っているのか、《ラズマリータの街》からは立て続けに地響きが聞こえてくる。
「…………」
エルウェは責任感の強い子だ。
今頃ダンジョン街では想像するのも恐ろしい蹂躙激が繰り広げられていることだろう。だのに自分はその場から逃げ出しているのだ、彼女が気にしないわけがない。
思い詰めた顔をして俯いていた。
「……大丈夫だよエルウェ、グラトニーは別に僕たちを追いかけて来たわけじゃない。エルウェに責任なんてこれっぽっちもないんだからね。気にする必要なんかないよ」
「でも、戦えない人だってあの街にはたくさんいて……ダメね。私は、今も昔も弱いままよ……」
僕は座り込んだエルウェの膝上によじ登り、さりげない風を装うように背中を向けて腰を下ろした。柔いお腹と胸に頭を押しつけながら慰めるけれど、エルウェは僕を撫で始めただけで吹っ切れていない。
まぁ、僕くらいさっぱりした性格をしてないとこうなるのも無理はない。
さらに言えば彼女は数度グラトニーとの接触がある。僕らを思って撤退の指示を出したのも魔物使いとして主である彼女だし、その重荷は果てしないのだろう。
「そんなことないって。逃げるって選択をするのだってある意味強さだ。エルウェは二年前の失態を反省して、次に生かせてる。ちゃんと強くなってるよ。真の意味で強くならなきゃいけないのは――、」
「――あァ、オレ達だ……辛い決断をさせてすまねェな、主ィ……」
僕の言葉を継いだフラム先輩も、定位置である肩から落ち着かせるように寄り添った。エルウェは泣きそうな顔で彼の赤毛に手を添えて、ぎゅっと顔を埋めながら言う。
「ううん……家族のためだもの。だからずっと、私の側にいてね……」
「ま、そーいうことだね――っと……くそ。あんな反則級の化け物、迷宮のどこに隠してたんだよ。意味がわかんないんだけど」
一際大きな爆発音が、徐々に離れているはずの僕らの場所まで轟いてくる。
ぷるぷる、と鎧の中にいながらしがみつくように震えているルイにも今回ばかりは同情するね。あの化け物はまともに戦っちゃダメな奴だ。本能がアブナイ、ニゲロって片言で言ってるもん相当だよこれは。
僕の脳裏には、ありありと目撃したその歪なナニカの姿が焼き付いていた。
多種族の四肢をとってつけたかのような六本の足、二対の腕の先には鋭い爪。胸から腹にかけて生えるあれは――恐らく人間の手足や頭部。豚鼻だけがオークの名残か、何とも悍ましい魔物が誕生してしまったようだ。
『其方、其方……あの煩雑な魔力は、多分じゃがずっと《黄昏の花園》にいたのではないかえ? 前にも湖の底に異質なナニカを感じたであろ?』
僕の愚痴のような疑問に答えてくれたのはシェルちゃんだ。
ああ、あれか。確かにそんなこと言ってねそういえば。風呂という名目で投げ入れられたのだけど、そのまま喰われてたら洒落にならなかったね。超危ない。
(湖の底か……確かにバレなそうではあるけど、それにしても迷宮ぶっ壊して出てくるなんて常識を逸しすぎじゃない? あれ、多分5階層からぶち抜いたんでしょ? 馬鹿なの阿呆なの死ぬの?)
『聞くところによれば【暴食】の権能で魔改造された
(
Sからはプラスとマイナス表記がなくなり、その代わりに呼称が付くようになる。
さらに上もあるらしいんだけど、僕はそんなヤバイ奴見たこともなければ聞いたこともない。まぁ多分忘れてるだけじゃないかな、それより下の
「ずっと湖にいたンだろうなァ……不覚だったァ」
フラム先輩の憎らしそうな呟きに、エルウェがピクリと顔を上げた。
「湖……まさか――いえ、そうよ。そうだわ、前の
「っ……そうかァ、確かにその線が濃厚だなァ? ヤツは
二人の言う通り、湖に隠れてたんならそう繋がってくるわけか。そうだな。
権能を用いて天然の罠を故意に発生させるなんて、やってくれるよ本当に。それがあの怪物をパワーアップさせてるんだから堪ったもんじゃない。
「……あの怪物、《皇都》に行っても倒せる人なんているのかな?」
ふと不安になって、そんなことを呟いた時だ。
「――ふふ、ふははっ! 案ずることはねぇぜ!! ヒースヴァルムにはこの俺がいるだろうが!? この、【炎槍】のホームラ・イディオータがなっ!!」
突如、けたたましい大声を上げて僕らの前に男が現れた。
その金髪ツンツン頭、どこから湧いて出てるのか逆に知りたい自信満々の態度――またお前か。
「ホームラさんもこの馬車に乗ってたんですね……?」
「そうだよエルウェちゃん相席いいかなぁっ!?」
そう言ってずいっと近づいてくる。殺してやろうか。
僕は剣を抜いてホームラに切っ先を向けた。『武具生成』を使えばイチコロだ。
「シー、静かに。他の乗客の皆さんに迷惑だろ? 今すぐ降りて走り去る馬車を視界に入れながら土下座してくれない? そしたら許してあげるからさ、ほら早く」
「そ、そうかすまなかった、だから剣を降ろせ……悔しいがエルウェちゃんの眷属の言うことだ。今すぐに謝罪を――って走り去っては許すも何もないだろうがっ!?」
再びの大声に、周囲の乗客が嫌そうな顔をする。相変わらずうるさい奴だ。
でもエルウェに関係することには受容的な態度になるらしい。最初の頃に僕を虚仮にして怒られたりしてるからね。ホームラ君は馬鹿なようで実は学べる男だったみたいだ。
「馬車に乗ってるって事はァ、お前も逃げてるじゃねェかァ」
「う、うぐっ……これは、そのだな。武器をだな! 最強の武器を取りに帰るところだったんだよ!! 断じて逃げてる訳ではなーいっ! わかってくれエルウェちゃん!!」
フラム先輩の痛いところを突く正論に、ホームラは汗をたらたらと流しながら嘯く。何だこの生物は、格好悪すぎるな。少しだけ見直したのに……全力で反面教師にしておこう。
「ふ、ふふっ……何それ。でも、ホームラさんも無事でよかった」
僕とフラム先輩と乗客が辟易している一方で、エルウェは吹き出すように笑みを浮かべた。彼女は優しいから、いくらホームラとはいえ知り合いが無事と知れて喜んでいるのだろう。
「やはり君は女神のように美しく優しい少女だな!? ぜひともこの諍いが収束した暁には、俺と結婚を前提としたお付き合いを――」
「それは無理です。ごめんなさい」
「即答かよぉぉおおぉおおおぉおっっ!?」
よく言ったエルウェ。迷う素振りさえ見せないのだから大ダメージだろう。
「私にはこの子達がいるので」
「ひたむきな愛が眩しい!? なんて美しいんだ、慈愛の女神と呼ばせてくれぇ!!」
少しだけ気が紛れたのか、そう言って僕とフラム先輩を抱きしめるエルウェ。ホームラはそろそろ舌でも切り落とそうか、本当にうるさい。けど、ちょっとだけ感謝してやっても良いかな。
そのはた迷惑なくらい溌剌としたホームラのおかげで、馬車内の空気がどこか弛緩し始めた。触発されて会話を始める人も増えてきた。エルウェの震えも止まったしね。このまま何事もなくたどり着ければ、きっと大丈夫――そう思っていた。
だけど。この時の僕は、まだ知らないんだ。
もう二度と、ヒースヴァルムに踏み入ることが叶わないことを。
それは忽然と訪れた。
「――――――――ッッ!?」
唐突に訪れるは――浮遊感。
僕もフラム先輩も、エルウェもホームラも乗客も、全員が宙に浮かび体勢を崩す。全身にかかる気持ちの悪い圧に、誰かが高い悲鳴を上げた。
そして、そのまま僕たちは――
「――――――――」
馬車が崖から落下したのだと気づいたのは、水面に着水して何もかもが粉々になった後だった。
****** ******
脳がぐちゃぐちゃにシェイクされるような、そんな果てしない衝撃が全身を打ち付けた。視界が数度揺さぶられる。ぼやけた視界に大量の気泡が昇っていくのが見えた。
揺れが激しかっただけで特に痛みはない。流石の防御力、なんて思う暇もなく。直後に肌に纏わり付く極寒の液体。浮遊感を感じる最中に落下しているイメージはあったから、これは恐らく――幌馬車が道脇の崖へと飛び出し、底を流れていた川に着水したようだ。
意識がクリアになる前から、光の届きずらい黒に近い水中をバタ足で進む。
水底付近まで沈んでいたようで、目指すは鈍色の天井だ。
(くそっ、あのでっぷり太った御者は何やってるんだよこんな大事な時に!?)
馬車は落下の衝撃で粉々に砕け、エルウェやホームラを始め乗客の安否は不明。ある程度の高さはあった。この寒さといい、一般人の生存は絶望的だろうか。
「ぷはぁっ!? くそ、何が……エルウェ!? どこ!?」
とにかく優先事項はエルウェの命だ。
彼女を失ってしまえば、僕はもう立ち上がれる自信がない。
川の流れは割と速い。
水面で目に付くのは壊れた馬車の木片や無事だった乗客、頭部の半分が抉られて近くを流れている骸は、体型からして御者だろうか。早くエルウェを、エルウェはどこに――
「エロ騎士、うぷっ――こ、ここよ――」
――いた。
川の流れに呑まれかけてはいるけれど、どうにか無事なようで肩をなで下ろす。
僕は急ぎちょうどいい大きさの木片を捕まえると、全力バタ足でエルウェに近づいた。彼女は僕の持ってきた木片に捕まると、上半身を乗り上げるようにして掴まる。
「――ハァッ、ハァッ……た、助かったわ。寒さで、身体が、動かなくて……ありがとう、エロ騎士……うぅ」
しかし、やはり先の衝撃は凄まじかったようで、エルウェは額から血を流していた。それに加え、真冬の川は極寒だ。魔物の僕はまだしも、エルウェは顔面蒼白でガチガチと歯を噛み鳴らしている。これは命に関わる事態だ、不味すぎる。
「とにかく川から出よう! フラム先輩がいれば火の確保は出来るから、すぐに身体を温めて――」
その瞬間、ぬっ――と。
何か巨大なモノが僕の視界の上端から伸びてきた。僕の周りに影が落ちる。
咄嗟に仰ぎ見れば、そこには豚鼻が際立つ醜悪な顔の怪物がいて。醜い顔の隣には、紫髪を散らす男がにんまりとした笑顔を作った顔があった。
「あっはぁああ、みぃ~つけたぁっ!! にんまり」
「――――」
――そういうことか、と理解した時には既に手遅れ。
巨漢の怪物は四本あるうちの一本の腕で、僕を鷲掴みにせんと迫り――その
足に炎を纏った小柄な子猫が軽い身のこなしで宙を舞い、元の細い物よりも何十倍にも巨大化した
「消し飛べェ――『
メキメキメキ――と骨が砕ける音がする。
超物量の半身に直撃した燃え盛る超物量は、その小柄なカーバンクルらしからぬ膂力で骨を砕き、業火で肌を焼きながら怪物を吹き飛ばした。聞くに堪えない叫声と黒色の血が霧散する。
「――フラム!!」
「掴まれェ」
盛大な水飛沫を上げて川に落ちる怪物。肩に乗っていた黒外套も同じくだ。
エルウェは入れ違うように手を伸ばした。求める先は彼女が信じて疑わない眷属。
瞬時に元の大きさに戻った尻尾を伸ばし、エルウェを川から引き上げてくれるのはフラム先輩だ。僕も彼女に掴まって脱出できたし、フラム先輩も無事で良かった。それにあの怪物を吹き飛ばすなんて、流石の一言である。かっこよすぎ。
「た、助かったよフラム先輩……そうか、あいつがもう追いついてきたのか……ッ! とにかくこのままだとエルウェが凍え死んじゃう。お願いだ、早く暖めてあげてよ」
「あァ、わかってるゥ……だがその前に、すぐに場所を移すぞォ」
フラム先輩の鋭く吊り上がった紅眼は、僕らの背後――大量の気泡を発生させている川の水面に向いていた。きっとさっきの攻撃じゃ傷を負わせることも出来ないと、フラム先輩自身が一番わかっているのだろう。
「わかった。それなら森に入ろう――時間を稼がないと」
河岸の側に鬱蒼と茂っている森林を指さし、僕らはすぐに行動を開始した。
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