第32話:混沌の豚オルカ


 脳裏に深く刻まれたその記憶は、二年ほど前にまで遡る。


 当時、義父と義娘という関係から同じ宿の下で共に暮らしていたヨキ・テューミアにより、《荒魔の樹海クルデ・ヴァルト》に近づくことは禁じられていた。エルウェにはまだ早い、十五になる年を迎えて『冒険者』になってからにするべきだ、と。


 しかし、その言葉を素直に享受できる程、エルウェは大人ではなかった。


(強く、早く強くならなきゃ。私はこんな所で、足踏みしてられないの……!)


 何より燻っていたのだ。父が逝き、母も後を追うように旅立ち、兄まで事故で失った……だからこそ、母の願った『優しい魔物使い』だけじゃなく、父の求め続けた『世界一の魔物使い』を目指していたエルウェにとって、ヨキの言いつけは戒めにしかならなかった。


 その日は、前が見えなくなるほどの大雪が降る、それは寒い冬の日だった。


 ヒースヴァルムの街の住民は除雪作業に追われ、ヨキもその妻であるサエも忙しそうに働いていた。それは門衛も同じであり、極寒の中の終わりの見えない作業に気が滅入っていたのだろう。


 一人の少女とその眷属が、門をこっそりと抜ける姿を見逃してしまったのだ。


「……気づかれてないみたいね。ふふ、上手くいったわ」


 しばらく歩いてから振り返り、追っ手がいないことを確認する。

 楽しげに言いながら浅く雪の積もったフードを外し、先端にかけて白じむ薄緑の髪がふわりと揺れた。まるで雪に彩られる森の景観に溶け入ってしまいそうなその儚さでは、門衛が気づかないのも頷けるだろう。


「んっ、くすぐったい……何よ、フラム? 帰った方がいいって言いたいの?」


 と、肩にちょこんと座っていた薄赤の毛と額にザクロ石を持つ子猫が、エルウェを咎めるようにうなじを踏んで肩を行き来する。亡き母から次いだ異例にして希有な召喚獣――幸を呼ぶ幻獣カーバンクルだ。


 己の眷属がすり寄ってくるむず痒さに悶えたエルウェだったが、


「……そうね、叔父さんには怒られるかもだけど……だめ。私は今よりももっと強くなりたいの。そのためにも、まずは眷属かぞくを増やさないと。だからフラムも協力して。ね、お願いよ」


 華奢な手つきでカーバンクルの頭と喉元を撫でるエルウェの銀眼からは、ありきたりな子供の反骨心とは偏に言い捨てられない、ひたむきに強い意志を感じられた。波瀾の道を共に歩んできたカーバンクルだからこそ、心配こそすれども止めることなどできなかった……


 そして、最悪の悲劇は訪れる。


「ふぅ、お疲れ様フラム。そうね、そろそろ帰ろっか。叔父さんも気づきそうだし。眷属に出来そうな子はいなかったけれど、今日はこのくらいに――、」


 冒険者という職に就いていない幼き魔物使いの少女は、浅域の魔物を幾らか狩った後に額の汗を拭った。それはカーバンクルの実力を鑑みれば当たり前のこと。問題は、頃合いを見て帰宅しようとしていた先に現れた、黒づくめの人物だ。


「あれぇ? あれぇえ!? まさかぁ、まさかまさかぁその魔物ってカーバンクルぅ!? うっそぉ~こんな所で会えるなんてぇうそうそうそぉすっごぃ~っ!! きらきら」


「っ……だ、誰?」


 何とも気味の悪い男の声だった。エルウェは思わず後退りながら誰何する。

 その人物が甘ったるい語調で喜びを表しながら漆黒のフードを外すと、目を瞠るほど長い紫髪が揺れた。


「――――」


 同時に、エルウェの頭に痛みが奔り、かつての情景が想起された。



 濃い灰色の煙は雲に梯子をかけ、空は橙色に染まる。燃え盛り滅び行く街。泣き叫び、悲鳴を上げる住民達。縦横無尽に暴れる怪物と、それを迎え撃つ父の眷属。


 中でも一際目立つ巨人の魔物の肩に乗り、眼下の悲惨な光景を嘲笑っていた人物。遠目で素顔は判然としない、けれど煤混じりの風に揺れる紫色の長髪がいやに目についた。


『いや、いやよっ!? 一緒に逃げようよ――お父さん!?』


 自分は母に抱かれ、隣には兄がいた。額から血を流す父は遠ざかるばかりだ。


 それでも『強く生きろよ』とはにかんだ彼に、必死に手を伸ばして――



「――ま、さか……そんなっ、あなたは……ッ!?」


 エルウェは両手で口を覆い、絶句した。

 フラムは彼女の肩から飛び降りると、尻尾を逆立てて威嚇した。


 その異様なまでに黒い外套、、、、は。

 特徴的な長い紫色の髪、、、、、、は――まさか。


「んんっ? 君がぁカーバンクルの主ちゃんかなぁ? お~、どこかで見たようなぁ面影があるなぁ? まぁいっかぁ。ねぇ、君ぃ。あちしってばぁ昔うざったい正義感を掲げる魔物使いにぃ大量の下僕を殺されてぇ、今すごく寂しいのぉ。だからだからぁ、そのカーバンクルぅ……あちしにちょーだいっ? てへぺろ」

 

 ……間違い、ない。


 エルウェは血が滲むほど強く唇を噛んだ。拳をぎゅっと握りしめる。

 間違いない。彼は、たまゆらにエルウェの故郷を滅ぼし、最愛の父の命までもを奪った――大罪人。神薙教の【暴食】を司る大司教だ。


 どうしてこんなところに、だとか。危ないから逃げなきゃ、だとか。そのような無粋な疑問や相応の弱音は湧いてこなかった。ましてや命の危機などさらさら感じていなかった。


 その時、エルウェの心を支配していたのは――溢れんばかりの、濃厚な殺意、、、、、


「よくもっ、よくもお父さんをッ!? 大好きだった、私の家族を――ッッ!!」


 

 その選択は失敗だった。確かに許せない、けれど必死に逃げるべきだったのだ。

 強くなりたいのなら、大切なものをこれ以上、失いたくないのなら。


 その日、エルウェは全治三ヶ月の重傷を負い。

 エルウェを命がけで守り抜いた、カーバンクルの純然たる命の炎は。


 ――確かに、燃え尽きたはずだったのだ。



 ****** ******



「お前はァ、お前だけはァ――ぶッ殺すゥッ!!」


 エルウェに真実を伝えようとした僕を始末するかに思えたフラム先輩。


 しかしそれは杞憂に終わり、どこからか姿を現した『神薙教』の大司教――グラト二ーと名乗った紫髪の男の前に悠々と歩を進めると、内に秘めていた本性を曝け出した。


 爆発的に高まる炎の魔力、カーバンクルを中心に赤色の魔素マナが渦を巻く。


「穿ちィ、悉くを灰燼に帰せェ――『憤怒を告げる焔楼イグニス・トゥルム』」


 そして、低く唸るような言葉と同時。

 人族としては小柄な方であるグラトニーの体躯が、フラム先輩を中心に発生した巨大な剛炎の塔に呑まれ、その姿は人型の黒炭のように呆気なく黒焦げになる。


「あぎゃぁああぁあぁあぁあっ!?」


 当然、聞くに堪えない痛ましい悲鳴が上がった。

 対する僕は急な展開について行けていない。地面すら溶かして硝子化させてしまう灼熱を前に、手を翳しながら思慮を巡らせる。


 えっと確か、『神薙教』っていうのは世界的に有名な反社会的組織だったっけ? 

 にしてもやり過ぎじゃない!? こんな規模の攻撃、教徒どころかここ《黄昏の花園》が燃え粕しか残らないよ!?


「ちょ、ちょちょちょ、何してるのさフラム先輩!? いくら神薙教? って組織が相手だからって、初っ端から容赦なさ過ぎじゃない!?」


「うるせェお前は黙ってろォ! それにこんなもんじゃコイツは死なねェ! 新入りは主を死ぬ気で守れェ!!」


 フラム先輩はいつになく必死の形相で吠える。

 そして彼の言うとおり、地面を穿ち花々を黒焦げにした炎柱がぼぼ、と消失した跡には――黒焦げの人間が、大口を開けて歯の白と口腔内の赤を晒していた。


 それは口が裂けんばかりの笑顔、こんな状況だというのに狂気の沙汰だ。


「ふひっ、ふひひひひひぃっ……あぁ痛ぁい、すごい威力だぁ? ふひっ、でもぉ、あちしはぁそう簡単に死なないんだぁ――『混沌招来カオス・カオス』」


 円形の焦げ跡の中心に横たわる男がスキルを発動した、その瞬間。

 黒焦げになった男の全身の皮膚がブクブクと泡立ち、そこからさらにドス黒い触手が何十も飛び出した。何のスキルか見当は付かないけれど――全身に感じる悪寒に鎧が震えた。あれはやばい。


「……チィッ!!」


「フラムっっ!?」


 僕らの方向へと飛来した幾本かの触手は、カーバンクルから迸る炎によって焼き落とされる。それでも数が多過ぎて、フラム先輩は僕らを庇うような位置にいたため擦り傷を負った。エルウェの悲鳴、僕もどうにか目で追えた一本の触手を切り落とす。


「心配するな主ィ、オレは大丈夫だァ――『癒やしの篝火ボンファイア・キュア』」


「……すごい、さすがフラム先輩。でも、冒険者達が、」


 言いながら尻尾の炎を傷口に当てると、血を吹いていた傷が直ぐに塞がってゆく。僕らはどうにか無事だ。しかし、何事かと周囲に集まりつつあった冒険者達の方から次々に絶叫が上がる。


「なんっ――ぎゃぁぁぁああああぁああ!?」


「いてぇ、痛ぇよぉ!? 俺の腕がぁあぁあっ!?」


「何よこれっ、魔力が吸われ……いや違う!? 力が抜けるわ……あぁ!?」


「おっ、俺は聞いたことがあるぞ! 神薙教の大司教――【暴食】のグラトニーの触手に喰われると、経験値が持って行かれるんだ! 逃げろ逃げろぉ!?」


「なんでそんな化け物がここに――ぐぎゃぁああぁああ!?」


 黒い触手は一つ一つが鋭利な牙を持ち、如意自在に暴れ狂う。

 唐突な出来事に為す術なく蹂躙される冒険者達の腕や足、胴体に噛みつくと、その部位を噛みちぎって黒焦げになったグラトニーの元へと戻った。


 するとグラトニーの身体が淡い光に包まれ、徐々に肉体が再生していく。


 待て待て待て。いや何あれ。やばくない? いろいろやばくない? あれは……スキルなのか? そうだとしたら、喰らった獲物の経験値を奪い、回復さえしてみせるだなんてどんな凶悪スキルだよ……っ!


「あはぁん! もっとぉ、もっともっともっともっとぉぉおっ!? あちしにぃご飯、ちょうだいぁ~いっ!? ふひひひひぃっ! ぺこぺこ」


「ふぉおおお気持ち悪い! もっとやっちゃえフラム先輩!?」


 果てしない怒りを燃やすフラム先輩の背中を押す。だってグラトニーとかいうヤツずっと楽しそうに笑ってるし、黒い触手とかキモいよもうマジ無理……


 でもそうだそうだ、冷静に考えてみれば神薙教ってエルウェの故郷を壊滅させた集団だよ。おかげでエルウェは家族を失ったと語っていたし、さらには二年前にフラム先輩が死の淵に立ったとも言っていた。


 正直、出会い頭に殺しておいて損はない奴らだ。

 いけーフラム先輩! とさっきまでの態度を棚に上げて応援する僕だったけれど、


「…………逃げるわ。迷宮の外まで即時撤退よ」


 終始深刻そうな顔をしていたエルウェが、おもむろにそう告げた。

 小さな身体に闘気を滾らせていたフラム先輩が振り返り、烈火の如く反論する。


「ッ!? どうしてだ主ィ!? わかってるだろォッ!! あいつだけは殺さねェとッ!?」


「いいからすぐに撤退するわよ。ほらエロ騎士も早く!」


 エルウェは取り合わず、すぐにグラトニーから距離を取り始めた。

 言われるまま、走り出したエルウェの太股に抱きついておく。


「おい主ィッ!?」


「私だって許せないわよっ!? でも……今の私たちじゃ、勝ち目はないわ。私はもう、嫌なのよ。前みたいに、フラムを失いかけるなんて、そんなの嫌っ! 私は絶対にあなたを、あなたたちを失いたくないのよッ!!」


 なおも食い下がるフラム先輩に、振り返ったエルウェが全身で吠えた。顔は紅く、身体は震えていて、その吊り上がった瞳には涙が浮かんでいた。本当はエルウェだって悔しいんだ。


 僕には優勢に見えたけれど、何か知ってそうなエルウェがそう言うのならそれは正しいのだろう。それに、こんなに躍起になってるエルウェを見るのは……『原戒種』の話を持ち出した時くらいか。だからこそ気軽に触れられないし、素直に従っておく。


「っ……わかったァ。撤退だァ」


 フラム先輩も迫真のエルウェに何か思う所があったのだろう。

 その身に纏う火炎を収めると、再び走り出したエルウェの後をすぐに追って来る。


 太股から見渡せる《黄昏の花園エールデン・ガーデン》は阿鼻叫喚の大混乱へと陥っていた。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う冒険者たちに紛れて、僕たちも迷宮からの脱出を目指す。


 爆発。激震。悲鳴。怒号。花園は血色に染まりゆく。

 嘲るような笑声が、逃走する僕らの背中を追いかけてきていた。



 ****** ******



「『混沌招来カオス・カオス』ぅ、『混沌招来カオス・カオス』ぅッ、『混沌招来カオス・カオス』ぅッッ! あははぁ、おいしぃ~っ!? 汝らにぃ『暴食』の裁きをぉお!! ぎらぎら」


 その後しばらく《黄昏の花園》を蹂躙していたグラトニー。


 触手で喰らった者の経験値を得て、すっかり回復した彼は肉、臓器、皮膚、衣服すら、それら全てを【暴食】に与えられた権能で修復して見せた。『混沌招来カオス・カオス』の強みは実体のない魂を喰らうだけでなく、その強制的な変換を可能とすることだ。


「うひひっ、ひひひひ……あれぇ? もうこんなに静かになっちゃったぁ? 新種ちゃんとカーバンクルもいないしぃ、むむむぅ、逃がさないぞぉ!? ぷりぷり」


 恍惚とした表情を素に戻し、気づいた頃には地獄のような光景が広がるだけで、命の欠片もない夕焼け色に染まる花園。グラトニーはわかりやすく怒った体を表すると、ゆっくりとした足取りで階層の端の湖へと向かった。


「あぁっ、でもようやく力が戻るぅ、楽しみだなぁ。うひ、うひひひっ……でも、あれれぇ? あの女の子ぉ、確か二年くらい前に森で会った子だよねぇ? その時もぉカーバンクルを連れてたぁ……えぇ、おかしいなぁ? どうしてぇ今もカーバンクルを使役してるのぉ? 子供が残ってたとかぁ? もやもや」


 通りすがら、まだ息のあった冒険者の頭部を砕き、ぶちまけた脳梁で水分補給。いろいろと疑義を呈したい点はあるが、何にせよラッキーだと。


「まぁいいやぁ。今度こそ生きたままぁあちしのコレクションにぃ加えてやるんだからぁ~。ってことでぇ起きて起きてぇ改造餌1271号……作戦開始だよぉ!! ごーごー」


 グラトニーが辿り着いた湖の前でぴょんぴょんと跳ねると、すぐに水面に波紋が生じ始める。ごごご、という地震のような揺れ、間歇泉の如き水柱を立てて邪悪なナニカ、、、が姿を現した。


 それは――醜い怪物だった。


 ベースは二足歩行の豚型の魔物――豚魔族オーク

 その中でも水棲に近い魔物へと派生した豚魔蒼種オーク・アグワ


 けれどその存在は純粋なオークではなく、かといって亜種や変異種という訳でもない。

 歪なナニカが大量に混じっている、、、、、、のだ。


 第一に湖から這い上がってきたのは、合計して六本の足。うち二つはオークの面影があるが、残りは鱗に覆われていたり毛が生えていたり、甲殻に覆われていたりと統一性がない。


 胴体は見上げるほど巨大で、オークの生肌に甲冑のような甲殻とまばらな鱗が生え揃い、象牙のような牙と豚の鼻を持っていて、背中に生える剛毛はたてがみのようだ。不気味な黒い皮膚、眼は絢爛と赤に輝き、かぎ爪の生えた長い腕を二対持つ。


 何より目を引くのは、胸から腹にかけて縦二列で並んでいる人間の手や足、そして頭。あまりに悍ましいそれは、見る者に畏怖を与えるに違いない。


 その姿はまるで、数多なる魔物の特徴を混ぜ合わせた、、、、、、かのような。

 餌として手当たり次第に取り込んだ魔物や人間を、【暴食】の権能で『基』となる魔物を強制進化した結果、出来上がったのがこの怪物だった。


「うんうん、怪物の饗宴グリアパレードをここでぇ引き起こしたぁ甲斐があったねぇ。種族等級レイスランクなんてぇわかんないけどぉ、階級はぁ――Sってところぉ? ふひひっ、今度こそぉ準備万端っ、ドラゴン狩りを始めよぉ! ついでにカーバンクルと新種ちゃんも手に入れるよぉ。うきうき」


 陸に上がった怪物の周りを回り、じろじろと歪んだ目で見やるグラトニー。うんうん、と満足げに頷くと、改造餌1271号と呼んだ怪物の掌に乗り宙を移動する。案内された先で肩に飛び乗ってから、乱暴な動作で座った。


 そして、ス――と結晶がはびる天井を指さす。



「さっそくぅ迷宮を破壊するよぉ――穿て、改造餌1271号――『混沌の豚オルカ』。ばんばん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る