第7話:名もなきスライムの過ぐる日に、記憶の断片を抱きしめて
――
その存在は、産まれながらにしてどうしようもない程に『弱者』だった。
魔物とは魔から生じる物。
濃厚な魔素から生じる場合もあれば、魔物同士の生命の営みの中で『子』として産まれる場合もある。そしてその存在は後者だった。
名もなき父と名もなき母から生まれ。
名もなき存在として何もない日々を過ごした。
偶にすれ違う同族とコンタクトをとる程の自我もなく、ただ『攻撃しなくていい相手』とだけ認識。圧倒的な弱者であるが故に繁殖能力だけは高く、強者に貪られたであろう屍を目にする機会だけはそれこそいくらでもあった。
けれど。
粘性を持ったゼリーのような粕だけが残るそれを見ても、その存在の心には何も響かない。何の感慨も湧いて出てこない。そもそも『心』というものがあるのかさえ定かではないのだ。
それがその存在を始めとする最下位の魔物に定められた、悲しき残酷な定め。
貪られるだけの『餌』に与えられた、最低限の慈悲でもあるのかもしれない。
そんな種のうちの一匹として、その存在は特に秀でた個体ではなかった。数多なる種の数に埋もれるただの一匹でしかなかった。
唯一例外があるとすれば、両親が変わり者だったことだろうか。
種としては本来育児を放棄するはずの両親が、概念自体を持たぬはずの二匹の同族が、いつもその存在の側にいてくれた。食料を与え、寝るときはくっついて、本能のまま三匹で遊ぶ時すらあった。
心を持たぬはずの彼らがその存在を育ててくれた。
何気なくでもいい。気まぐれでもいい。
父と母であることすら認識できていなかったかもしれないが、その二匹が側にいてくれる――それだけがその存在にとっての幸せだった。
それは群れないはずのその種にとっての
形だけ、見た目だけかもしれないけれど、感情のない者同士が織り成す茶番なのかもしれないけれど――それは確かな『愛情』を分かち合う行為だったのだと、その存在は後になって知ることになる。
その二匹こそが、その存在にとっての
いつも通りに三匹が寄り添って朝を迎えたある日のこと。
等級が一つ違えば絶望的な差がそこには生じるため、実力差を覆すことなど滅多なことでは起きない。種としての等級ではなく個体としての
単体のゴブリンといえど、秘めたる等級はF。
本来、
――それこそ、
その存在が初めて遭遇する圧倒的強者に恐れをなし、ガタガタと震える中――父である身体の大きな個体が、朽ち木の棍棒を手にギヒギヒとニヤつくゴブリンに果敢に挑んだ。
「――ギョォアッ!?」
突拍子もない吶喊。為す術なく喰われるだけであったはずの餌が、強烈とは言わないまでの突撃をかましてきたのだ。不意を突かれたゴブリンは転倒。不幸中の幸いか、ちょうど背後は河へと続く急な傾斜だった。
父はゴブリンの濁声と共に転がっていく。
それを見た母はすぐに行動を開始。震えて動けないその存在を頭上に載せ、傾斜とは反対方向へと全力で駆け抜けた。
その存在が正気を取り戻したのは、背丈の高い草藪に放り込まれた後だった。
自身を投げた母を見る。その流動体に表情というものは見られなかった。
けれど、どこか物寂しげに微笑んだように、表面がぽわりと揺れた。
しばらくお互いを見つめ合う。
顔というものが存在しないため背を向けている可能性もあるが、機能しない目ではなく心、存在しない心ではなく本能で、見つめ合い別れを惜しんでいることがわかった。
その存在は母にかける言葉も見つからず、言葉を発せられる機能もついておらず、何かを伝えようにもそもそもの発想が出てこない。
筆舌に尽くしがたい感情が渦巻いて、ぐにゃぐにゃと身体が揺れ動いた。
結局母は踵を返し、遠ざかる姿をその存在はただ見つめていた。
何をするつもりか、そんなもの言葉や感情がなくともわかった。
――それから数日が経ち。
戦く粘性の身体を叱咤し、なんとか川辺へと向かった。
そこには蝿が集るゴブリンの亡骸と。
――ゼリーが崩れたような粘性の粕が、きっかり二匹分あった。
ゴブリンの死因は恐らく転落の際に負ったダメージによる失血死。その場から動けないようにか、執拗に足が狙われた形跡があった。
結果としては片足を折ることができているため、大奮闘といえるだろう。
その存在――『スライム』はその光景を前に立ち尽くした。
しばらくじっとしていたスライムだったが、ポツポツと雨が降り始めた段階で身体をずるずると引きずるように動かして、両親だったスライムの残り粕を自身の身体へと取り込んだ。本能のままに。
その瞬間、スライムのか弱い霊魂が昇華した感覚があった。
魂の螺旋階段を僅かに登り、身体が燃えるように熱くなる。
内部をズタズタに挽かれる感触がする。熱い。熱い。熱い。
けれど、それ以上に。
ズタズタに引き裂かれるように痛む部位があった。
小さな身体のどこかで爆発したような激流の如く痛みがあった。
それは身体のどこから発されているのかわからない。
でも確かな形をもって、波が、大波が押し寄せる。
これは、
――『悲しい』
偽りに似た紛うことなき本物の愛を受け、人一倍の幸せの最中忽然と訪れた絶望。大きすぎる感情の機微に、その時初めて最弱と謳われるスライムに自我が芽生えた。
冷たい雨が格段に強くなる。
無力なスライムへと無情に降り注ぐ。
スライムは痛みに身を捩るでもなく、進化によって生じた小さな黒目からひたすらに大粒の涙を流していた。激情のあまり溢れ出る初めての涙は止まることを知らず、身体に打ち付ける雨に流されて濁った河に溶けていく。
動く気力も起きず両親の死を嘆き続けたそのスライムは、そのまま大雨によって増水した河の流れの中に姿を消した。
――その後、意気消沈した黄金の龍に拾われることになるのは、また別の話だ。
****** ******
「スライム?」
僕は目の前で小刻みにぷるぷると震えている
「……まてまてシェルちゃん。冗談もほどほどにしなよ? これのどこがスライムだって言うんだい。どこからどうみても黄金のおっぱいじゃないか。ちょっと
「そ、それはさすがに無理があるのじゃぁあ……其方、本当に乳房が独りでに動き出すと思うのかえ? あり得ない。あり得ないであろ? な? な? じゃ?」
シェルは変な説得の仕方を始めた。まるで子供に言い聞かせるような言い方だ。
子供扱いとは癪に障る、が。
……まぁ、流石に無理があったかもしれない。
冷静に考えれば彼女の言う通りだ。
金銀財宝を前にして頭が狂っていたのかもしれない。
だから決して僕の本性がおっぱいを求めている訳ではないのだ。ほんとだよ。
「……いや、まじかぁ。黄金のスライムかぁ。ええー? 未だに信じられないけど、そんなのいるんだね。で、どのくらいで売れるのかな?」
「其方はまだ諦めてなかったのかえ!?」
目をゴシゴシと擦ってみても、やはり目の前に佇んでいるのはその楕円を描く流動体のボディはスライムそのものだ。いや、僕の紫紺の眼に実体はないんだけど。
でもその可愛らしい矮躯が黄金に輝いているのだ、違和感しかない。
違和感の塊だ。何なんだいったい。
ちなみに背丈は僕の胸元くらい。
僕自身が小さいのもあって、巨大なスライムに見えるね。
よくよく目をこらせば、その金の液体が途切れない流れで渦を巻いているような気もする。目のつもりなのか二つ付いてる
あれ、以外と可愛い。
キュンキュンくるぞ。
そうか、これが……親心ってやつか。
「どれどれ……」
そう言って、僕がもう一度感触を確かめようと手を伸ばしたところで――、
「――――――――――――ッッ!!」
「はぇ――ッ!?」
声を噛み殺したような無音。
視界を遮る黄金色。
尾を引く青。
すぐさま全身に強烈な衝撃。
砲弾もかくやのその威力は、僕の鎧の身体を易々と後方の壁まで吹き飛ばした。
理解が追いつかないまま高速で宙を切り、壁にクレーターを作って静止した僕はそのままグシャリと崩れ落ちる。
自分の姿は見えないので確かではないが、このダメージと違和感はきっと鎧の正面が盛大に歪んでいる。鎧の一部がカランと軽快な音を立て剥がれ落ち、きしきしと軋む身体はちょっと動いただけで分解してしまいそうな程、継ぎ接ぎが怪しい。
――まずい、まあずいまずいまずいっ!?
「――――――ぁぐぅッ!?」
そして尋常でない痛みが後から後から這い上がってくる。
僕の身体に血が流れていたのなら、華やかなまでに鮮血を吹き出していたに違いない。
これは……あかんやつやぁ……
「な、い……なに、が……起、きて……」
いったい何が起きたのか?
息も絶え絶えの率直な疑問には、すぐに返答が来た――どこまでも物理的なヤツが。一片の情けの欠片もなく。それはまるで無慈悲な隕石。
「――――――――――ッ!!」
先よりは距離があったからか、痛みで気が引き締まったからか、冷静に目をこらしたからか。
それは、今度こそしっかりと僕の紫紺に映った。
再び、音はないが、体中の力を余すことなく全力で込めたような唸るような声。そして眼前に躍り出る――黄金のスライム。それすなわち、渾身の体当たり。
全身全霊、会心の一撃――青の軌跡が奔った。
「――金剛化ァッ!?」
今の体勢、鎧の状態でその超高速の体当たりを回避できる訳もなく。
けれど瞬時に発動していたスキル――『金剛化』によって、多大な魔力と精神力を代償に鎧が
――衝突。火花が散る。
硬い金属がぶつかり合う、腹の底を振動させるよう高音が鳴りはためいた。
バラバラになりかけていた僕の身体に再度激しい衝撃が走り、此度は壁に深くめり込んだ。軋む全身鎧の三割りが剥がれて宙を舞うも――砕けてはいない。
偶然か必然か、どうにか『核』は守り抜いた。
それで無事でいられる保証などなかったが、今はそれどころじゃない。
待ってましたとばかりに訪れる脱力感。
その身に余る力の行使による代償は、魔力枯渇という衰弱の状態異常だ。光り輝く金色と化していた鎧は元の白の鎧に戻り、すぐに魔力枯渇で芯から凍えるような錯覚。視界が揺れる。
僕の意識は朦朧とし始めた。
揺れる。揺れる。
ぐらぐらと揺れる頭で、きっと次の一撃は耐えられないと悟った。
視界の端に力を蓄えるスライムが見える。
青い瞳をギラギラさせている。
ああ、と死地を認識した。
覚悟を決めるまでもなく、僕は意識を手放し始める。
それは走馬灯に近いもの。
途端に僕の潜在意識の奥底に眠る、鮮やかな記憶の欠片が想起された。
なによりも目に付く、夥しい血の暗赤色。
曇天の鈍色、崩壊する白亜の城と町並み。
降りしきる雨に、なおも燃え上がる橙。
斃れる人間、蠢く幾万の黒。
セピアを脱し色づいた情景の最後に映るのは――泣き腫らしたのか赤くなった淡紅色の瞳、透き通ったストロベリーブロンドの髪をたなびかせる、絶世の美少女。
そして。
――その胸からは『腕』が生えていた。
薄桜の唇の端から滴る鮮やかな朱。
常軌を逸した光景をすぐ前に、蹲り目を瞠る黒髪の少年は――僕、なのか?
笑った。初めて見るのに、初めて見た気がしない少女の美しい顔が、笑った。
それはどこまでも痛ましい笑みで。つう、と頬伝い流れ落ちるものがあった。
しかし次の瞬間。
空の上から俯瞰するような眺めは、次には異次元に吸い込まれるように灰燼と化して消え去った。色を抜かれ灰と化す情景は渦を巻き、暗闇に消えていく。
最後の最後に映った黒髪の男の、血色の悪い唇が――確かにこう言った。
『どう、して――
克く訪れる暗闇。
それは『死』を連想させる、どこまでも悲しい色で。
「――それ以上はよせ、こやつは我の――大事なオトモダチなのじゃ」
そんな満足げな声を最後に、僕の意識は完全に消失したのだった。
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