第三章 神託勇者
第九話 一仕事を終えて
久しぶりに魔物の命を奪って得た収入、銀貨と銅貨を見比べる。どちらも現皇帝の横顔が彫られている。実際にその顔を拝んだことはないので、似ているかは分からない。ともあれお金は俺達の生活において一応大事な物なので、皇帝の顔は皆知っていることになる。帝国の中で一番の有名人と言える。
先日会った魔王軍の一員らしき男は皇帝や帝国を恨んでいたが、彼は稀な例だ。よほどのことがないと現皇帝を嫌う理由はない。なにせ、二十年前の魔王軍に対抗するために各国の音頭を取った王国の君主だ。一種の勇者である。戦争していた国同士すら無理矢理和平を結ばせたという話もあり、当時の話を物語にする者も多い。今度の魔王軍に対しても、皇帝は断固として戦うのだろうか。まあ、田舎出身の俺には帝国中央の政治模様など分かるはずもない。知っているのは勇者に関する政治の歴史程度だ。
そうやって自分から縁遠い政治方向の思考を切り上げ、小さな木の器を傾けて、口に蒸留された水を含む。ここは店からはみ出たように机が雑然と並ぶオープンテラスの外縁の席。周りの机で食い散らかす人々と交わらず、俺は食事をしないでいた。もちろん金が無いからではない。
焦げた四つ目狼の臭いが鼻に付いているからだ。汚れは布で拭っておいたが、恐らく体にも付いている。今更あの狼たちを思いやったところで生き返りはしないと分かっているが、今だけは思いを馳せたかった。俺が役者に戻るにしろ、勇者を目指すにしろ、あのような体験は二度もあるまい。劇をやったり、依頼をこなす内に体験の新鮮さは失われ、忘れたり、慣れたりするのだろう。今だって、貨幣を眺めながら別のことを考えていた。そうやって人の心は移り変わるものである。
グギュルルー
このように、いかに真面目なことを考えていても、いつかは腹が空くのだ。のんきに綺麗事も言っていられない。
「大きな音ですね。このような場所ですから仕方ないのでしょうけど」
突然降ってきた誰かの言葉に驚き、振り返る。俺の背後の街路に立っていたのは、ついさっき町の外で一波乱あった僧侶さんだ。
互いに顔を合わせると、向こうは俺の顔を確認するように見てから、ゆったりと話を切り出す。
「先ほどはどうも。申し遅れましたが、私はイノンといいます。勇者として巡礼と治癒の旅をしているイルジオ教の者です」
「俺はリヒト。役者をやってる。君も勇者だったのか」
「ええ。魔法使いの彼と同じ、勇者です。席、掛けてもよろしいですか?」
俺のいる机を指して言うので相席を許可すると、向かいの席に座った。
正面に来て店の明かりで見ると、イノンは少女だった。同い年くらいだろうか。頭に被っていたヴェール付きの四角い帽子を取ると、短い金髪がよく見えるようになった。
「でもさ、いくら勇者だからって、女の子の一人旅は危険じゃないか?」
会った時の疑問を投げかけると、すかさず答えてくる。
「今日は特別です。近くの村まで隊商に同行させてもらっていました。そこから日が落ちるまでにはこのオルミーに着くだろうという目算で村を出たんです」
「ははあ、考えてるなあ。羨ましい」
故郷からオルミーまでしか旅をしていない俺には、なんともワクワクする話である。
「巡礼ってことは、この町にも何か用があるのか?」
「教会があるはずです。そこで神に選ばれた勇者として、受け取った神の言葉を伝えるのが役目であり、修行のようなものです」
「神の言葉って、さっき外で言ってたみたいな言葉?」
「あれは、聖典に書いている言葉です」
そう言ってどこからか、分厚くも小型の本を出してきてめくる。その動作に迷いがないため、全て暗記しているのではと思ってしまう。
「いわゆる、人と他の生き物との共通点、人の特異性、人の義務を表わした言葉です。この言葉が出てくる箇所では……」
よどみなく喋り始めようかというところで、イノンは口をつぐむ。苦い顔だ。
「どうした?」
疑問に思って尋ねると、いきなり本を閉じた。
「すみません、悪い癖です。何も悪くないあなたまで説き伏せようとして……ごめんなさい」
「ああ、気にしないで。俺は神のこと嫌いじゃないから大丈夫。説教も子供の頃から慣れてるよ」
「……お気遣いありがとうございます。とにかくですね、聖典とは別に神の言葉があるのです。私のいた教会の司祭様がそれを聞き届け、その言葉の中で巡礼に出るように言われた勇者が、私なのです」
「なるほど、神に選ばれたってのはそういう事か。歴史的にもよくあるんじゃなかったかな。神託を受けた勇者は」
「そのようです。ここに来るまでいくつか話を聞いてきました。聖エグロン様や聖アルドア様、ご存知ですか?」
「もちろん。神託勇者の代表格だ。慈悲深い聖エグロンは医者として病魔と戦い、勇敢な聖アルドアは騎士としてドラゴンと戦ったと言われてる。それに加えて、二人とも悪魔を退けた話があるんだって。人を助け、世を救う姿はまさしく勇者だった、って『西国勇者伝』に書いてた」
神託勇者は宗教的にも歴史的にも偉大とされる人が多い。神から選ばれるのだから、それ相応の才能があるのだろう。そこに神のお墨付きと功績が加われば、勇者として名を残すのも無理はない。
「随分と詳しそうですね」
「勇者専門の役者でね。昔から勇者好きだったこともあるから、詳しいつもりだよ」
女の子に褒められると少し照れる。照れ隠しで器の水を一気に飲む。飲み終えたところで、イノンは鋭く切り込んできた。
「ところで、このような場所であなたは何をしているのですか? ここは飲食をする場だと思うのですが」
「そっちこそ、夜になったのに外をうろついて一人で何してたの? 最近は治安も乱れてるし、危ないと思うよ」
「……」
「……」
つい言い返してしまった。理由が言えない訳ではないが、酒場の席で水だけ飲んでいる自分がやけに滑稽に感じて恥ずかしくなり、意地を張ってしまった。すぐ謝ろうとすると、イノンに先を越された。
「人様の食事に口を出してはいけませんよね。申し訳ありません」
「いやいやいや、いいって! 俺も本当にごめん。そうだ、俺が先に理由を話すから、その後話したければ話してよ。うん、それがいい」
先に話をすることを無理矢理決めて、男のしょうもない面目を保ちながら、俺は先ほどの四つ目狼の件について話し始めたのだった。
「ふふっ、それで水だけ飲んでいたんですか?」
開き直って滑稽に脚色した俺の話が終わる頃には、イノンの硬そうな顔もほぐれていた。
「まあね。それでも空腹は紛れない。聖職者のようにはいかないなあ」
「僧侶だって食べる物は食べます。だからあなたも食べていいんですよ。そうやって思うだけでも、四つ目狼の魂はきっと慰められます」
「そうだといいなあ」
「きっと、そうですよ」
そう言って、二人とも柔らかく微笑んだ。
「私の話はつまらないものです。教会が目的だと言いましたよね? 教会は宿泊場所も兼ねているんです。ですがこの町に着いたばかりで教会の場所が分からないので、誰かに案内してもらおうと思っていたんですよ。そこへ、やけに質素な食事をしている顔見知りの方が目に入ったので、声をかけたんです」
「質素な食事かー、こいつは参った。それが俺って訳ね。いいよ、案内する。町には詳しい方だから大丈夫」
「ありがとうございます、リヒトさん」
「あ、でも待ってくれ。軽く食べてからでいいかな? 勇者の話もしたいし、一緒にどう?」
「いいですよ。私も、神託を受けた人々の話は知っておきたかったので、ありがたい限りです」
勇者の話は盛り上がり、夜は更けていった。
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