第2話うろくず
ごめんなさいね。すっかりみっともないところを見せちゃって。せっかくこうして遊びに来てくれたのに。あらあら、わたくしはちっとも怒ってなんかいませんよ。あの子だって
それにしても、もう
いいえ、金魚が嫌いなわけではなくてね、ただ…苦手なの。
見るとどうしても思い出しちゃうから。
わたくしがM家に
そうよねぇ。年寄りの話と言えば昔話しかないのだもの、
でもね、これはきっと役に立つ話だから、まあ、お聞きなさいな。
M家の旦那様は
奥様とは言え、いま
そんな少女を
どんなお客が来るのかですって?それはもう様々で、
相談の中身については分らないわ。奥様がサシでお客の相手をしている部屋へ入ることは禁じられていたし、それはわたくしごときが知る必要の無いことだったから。
子供らしい思い出話は無いのか?あらいやだ、苦労話しか聞いたことが無い!?ふふっ、じゃあやっぱりこの話がちょうどいい。
ある夏の日のこと、なぜか奥様の元に続々と金魚が集まってくるということが起りました。どういう
話を戻して。心ばかりの贈り物ですから
その日最後のお客を帰し、はじめて金魚に目を留めた奥様はちょっと目をしばたたかせただけで、それについては何も
奥様が金魚に気を
わたくしに割り当てられたのは五匹ほど。赤いのや黒いのが丸い金魚鉢の中でゆらゆらと泳ぎ回っていました。その中に一匹だけ、頭から
こいつは金魚の
そう思うとどこかいじらしくて、わたくしはそいつにだけ“おしろい”と名前をつけて
ですからね、“おしろい”たちの世話を
気がついた時には、鉢の底にいるはずの“おしろい”がお
“
まずは“おしろい”の
夏の夕暮れはまだ空も明るく、足元も
―と、後ろからなにか固いものが飛んで来たような感じがしました。
振り向いて見ると、年頃も
“そこに持っているのはなんだ?”
わたくしの片手には穴を掘るための
箱の中身を見せろと言うので、わたくしは少し
“なんだ、うろくずか”少年は
少年を見送りやれやれと、わたくしは最初に向かおうとしていた方へ向き直りました。するとわずかの間に庭の景色は変わっていました。
そこでわたくしは少年の
こうしてわたくしのガラス鉢の中には、文句のつけようの無い立派な金魚だけが残りました。わたくしには
それでもわたくしはSさんをがっかりさせたくない一心から金魚の世話を続けました。
“おしろい”がいなくなって二日経った朝、またしても一匹、金魚がお腹を上にして浮いていました。夜の間にでも死んだのでしょう、水は薄く濁ってすっかり生臭くなっていました。うかうかしていると夕方まで手をつけられなくなってしまいます。わたくしはすぐに死骸を片付け、手早く鉢を洗って水を替えてやりました。
翌日の昼過ぎにまた一匹、裏返った金魚が水面に浮かんでいました。
なるほど。この前のお客のいったとおり、ここに来る前からずいぶんと弱っていたのだろう。そうに違いない。わたくしは自分に言い聞かせ、言い聞かせしながら
そして、その翌日にもまた一匹。
屋敷の中には至るところに金魚鉢が
それではなにがいけないのでしょう。わたくしは
いずれにしろ残り一匹となってしまいました。
明日にはわたくしの鉢だけもぬけの空となってしまうのでしょうか。分かりません。
わたくしが
金魚鉢に目を留め “おやおや。これは
Sさんが良いと言うのですから、間違いありません。わたくしは安心して、わたくしの金魚鉢を眺めました。しかし、“そらごらん、金魚も仲間が増えてよろこんでいるよ”と言うSさんの言葉には
“おしろい”がいなくなった時、悲しそうな
もちろんそんなことは口に出したりはしませんでしたよ。ただ、わたくしがSさんとは違う考えを持っていることが悲しくありました。でもそれも間違いないことなのです。自分はなんと
翌日の夕方、わたくしは再び庭へ忍び出ました。わたくしの両の手には相変わらず移植ゴテと古い石鹸箱が収まっていました。
“なんだ、またか?”またあの少年がいました。“そう毎日毎日植えてたら、そのうち地面から金魚が
少年の声には意地悪な響きは無く、軽い
“なんだよ。うろくずが死ぬくらい、大したことじゃないだろう”少年は慌ててわたくしの方へ駆け寄って来ました。
そうではない。
他と同じようにきちんと世話をしているにも
少年は筋道の立たないわたくしの話にジイッと聞き入っていました。
“それで、おまえはこれからどうしたい?”
少年の
“これからもうろくずが尽きるまで、そいつらを庭に埋め続けたいか?”
わたくしが急いでかぶりを振ると、少年はわたくしの手の中の石鹸箱に向かってあごをしゃくり、片が付いたら金魚鉢を持って来いといいました。
一体どうするつもりなのか分りませんが、わたくしは少年の指示に従いました。
金魚鉢を抱えて庭に出て行きますと、少年の姿がありませんでした。
“こっちだ、こっち”
少し離れた屋敷の建物の
フランス窓の中に足を踏み入れようとした時、わたくしの横を
カリン、カリン。
頭上で硬く涼やかな音が立ち、見上げるとガラスの風鈴がひとつ揺れていました。
“早く来なさい、
聞こえてきたのは少年の声ではなく、大人の男性の低い声でした。
部屋の奥には
旦那様でしょう。
少年に誘われて、わたくしはまったく場違いなところへ来てしまったのです。
ところで旦那様の
わたくしは
すると旦那様はいきなり鉢の中に手を突っ込み、金魚を一匹
“これで良い。もう大丈夫だろう”
あまりのことに驚いて身を固くして金魚鉢を抱えているわたくしに向かって、旦那様は
“うろくずに名前などつけてはいけない。これらは我らと違う、冷たい血を生きているのだ。温かい血を生きる者と同じように扱ってしまうと、いつの間にかこれらもその気になって淋しがるようになる”
わたくしが今日まで庭に埋け続けてきた魚たちは、寂しがった“おしろい”に連れて行かれたのだそうです。
“だから連れて行かれる前に、こちらから供を与えてやれば良い”
旦那様が
ね、役に立つお話だったでしょう。だからくれぐれも金魚には名前をつけないように、あの子にもよーく言い聞かせておいてちょうだい。きっとよ?
ええっ、トラ…なあに?虎の話なんかしていませんよ。あらいいえ。金魚が苦手なのはね、目の前で千切られたことが原因じゃあないのよ。
旦那様の部屋を辞す時に、旦那様が奥様の名を呼んだの。奥様が来たのかと思って振り返ると、旦那様はわたくしに向かって呼び掛けていました。
旦那様はフランス窓の上の方を指さすと“それそこの、この前見たことも無い女中がやって来て勝手に吊り下げていったが
金魚模様のガラスの風鈴でした。
この前、別に
奥様の風鈴でしょう。
わたくしは手が届かないのを理由に、逃げるようにしてフランス窓の外に出ました。
そうね。今時だとそんな言い方になるわね。好きじゃないけど。
旦那様は時のうつろう
それを思うと、千切れた仲間の死骸が天から降って来ても
金魚を見るたびに思い出してしまうのよ、その時の気持ちを。わたくしはどうしたって温かい血を生きてるのだもの、仕方が無いわよねえ。
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