第2話うろくず

 ごめんなさいね。すっかりみっともないところを見せちゃって。せっかくこうして遊びに来てくれたのに。あらあら、わたくしはちっとも怒ってなんかいませんよ。あの子だって悪気わるぎがあってのことではありませんもの。こちらこそ、いい歳をして不調法ぶちょうほうったらありゃしない。

 それにしても、もう縁日えんにちが立つような季節なのねぇ。早いわねえ。

 いいえ、金魚が嫌いなわけではなくてね、ただ…苦手なの。

 見るとどうしても思い出しちゃうから。

 わたくしがM家につかえていた頃に…、ああ、また始まったと思ったでしょ。

 そうよねぇ。年寄りの話と言えば昔話しかないのだもの、仕方しかたがないじゃない?

 でもね、これはきっと役に立つ話だから、まあ、お聞きなさいな。

 M家の旦那様はみついた寝たきりの老人で、そちらのお世話はわたくしのような子供ではつとまりませんから、わたくしがお世話をしていたのはもっぱらに奥様の方でした。

 奥様とは言え、いまあらためて思えば二十歳はたちにもらない少女だったのよねえ。そんな時代だった。でも、そんな若い女の子だったとしても、いまとは段違だんちがいに威厳いげんがありましたよ。

 そんな少女を目指めざして何やら相談にくるお客をさばくのがわたくしの役目でした。

 どんなお客が来るのかですって?それはもう様々で、老若男女ろうにゃくなんにょの区別も無ければ貧乏人も金持ちも関係無かったわねえ。

 相談の中身については分らないわ。奥様がサシでお客の相手をしている部屋へ入ることは禁じられていたし、それはわたくしごときが知る必要の無いことだったから。

 子供らしい思い出話は無いのか?あらいやだ、苦労話しか聞いたことが無い!?ふふっ、じゃあやっぱりこの話がちょうどいい。

 ある夏の日のこと、なぜか奥様の元に続々と金魚が集まってくるということが起りました。どういうめぐり合わせか、その日は訪れる客訪れる客各々おのおのがなにかしら手土産てみやげたずさえており、なんとそのほとんどが金魚。いま思えばその時も、今日のように近くで縁日でも立っていたのでしょうね。

 話を戻して。心ばかりの贈り物ですから無下むげにするわけにもいかず、とりあえずそれらを皆おおぶりのたらいに放してお客たちとながめておりますと、そこへやはり金魚を携えたSさんが現れて、もうこれでいつでも縁日に店開き出来そうな具合です。

 その日最後のお客を帰し、はじめて金魚に目を留めた奥様はちょっと目をしばたたかせただけで、それについては何もおっしゃいませんでした。贈り物の中からうりと、ガラスの風鈴ひとつだけを選んで拾い上げると“これだけいただこう”つぶやき、さっと自室じしつに引き上げてしまいました。

 奥様が金魚に気をめたのはその一度きりで後は一切おかまい無しでしたが、その代わりにSさんの方は売るほどもある金魚をいたく面白がり、翌日には大小様々な形をした金魚鉢きんぎょばちを買い込んでM家に届けさせました。こうして売るほどの金魚たちはM家の使用人それぞれに分けて育てられることとなり、あやういところで命をつなぎ止められたのでした。

 わたくしに割り当てられたのは五匹ほど。赤いのや黒いのが丸い金魚鉢の中でゆらゆらと泳ぎ回っていました。その中に一匹だけ、頭から尻尾しっぽの先までまっ白なやつが居ました。そいつは他の仲間にくらべてひと回り身体も小さく、はなやかさも無ければ黒出目くろでめのような愛嬌あいきょうも有りません。

 こいつは金魚の出来損できそこないに違いない。

 そう思うとどこかいじらしくて、わたくしはそいつにだけ“おしろい”と名前をつけて贔屓ひいきにし始めました。といって犬猫いぬねこのようになででてやったり散歩に連れ出してやったりすることはかないませんから、ただ名前を呼んで話しかけるだけ。もちろん“おしろい”がこたえるはずもありません。まったくの知らんぷりで鉢の底をくるりくるりと泳ぎ回り、仲間の取りこぼした餌をぽちぽち食べています。でもわたくしはそれで満足でした。朝な夕な、えさやり時や鉢の水替みずがえの時、わたくしがなにを話しかけていたのかはもう覚えてはいないけど、“おしろい”を自分の下の妹分いもうとぶんにでもしたような気分でいたのでしょう。都合が良いことに、決して口答くちごたえなんかしない相手でもあるし。

 ですからね、“おしろい”たちの世話をおこたったことなど無いのです。鉢だっていつもわたくしの目の届く談話室に置いてありました。そりゃあずっと見張みはっているというわけにもいきませんから、ちょいちょい見るだけでしたけど。

 気がついた時には、鉢の底にいるはずの“おしろい”がおなかを上にして水のてっぺんに浮かんでいました。

 “出処でどころが縁日の金魚すくいじゃあしょうがない、ここに来る前からずいぶんと弱っていたのだろうよ”そういってなぐさめてくれるお客もありましたが、わたくしはすっかり気落きおちしてしまいました。

まずは“おしろい”の死骸しがいを庭の奥の大きな木の下にけてやることに決め、その日のお客が退けた後わたくしはこっそりと外に出ました。

夏の夕暮れはまだ空も明るく、足元もあぶなげなく見えます。

 手早てばやく済ませてすぐに戻らなければいけませんから、わたくしは脇目わきめも振らずに庭の奥へとずんずん進んで行きました。

 ―と、後ろからなにか固いものが飛んで来たような感じがしました。

 振り向いて見ると、年頃も背格好せかっこうもわたくしと同じような少年がひとり手招てまねきをしています。見たことも無い男の子でしたが、ここに居るのがさも当然といった堂々とした態度ときちんとした身なりから、わたくしはM家に関係するどこかの家の子供なのだろうと思いました。

 “そこに持っているのはなんだ?”

 わたくしの片手には穴を掘るための移植いしょくゴテがひとつ、もう片方の手には“おしろい”を入れた古びた石鹸せっけん箱がそれぞれ握られていました。

 箱の中身を見せろと言うので、わたくしは少し躊躇ちゅうちょしながらふたを取り、少年に中を見せました。

 “なんだ、うろくずか”少年はあきれたようにそう言うと、しげしげとわたくしの顔を眺めました。めてやるのかと聞かれてうなずくと、少年はすぐそこの地面を指差ゆびさし“それなら、そこいらへんがいいだろう。むかし池があったから”いったなり少年はくるりとわたくしに背を向け、すたすたと屋敷の方へ立ち去ってしまいました。

 少年を見送りやれやれと、わたくしは最初に向かおうとしていた方へ向き直りました。するとわずかの間に庭の景色は変わっていました。

 庭奥にわおくには透かしてみる事も叶わないほど濃い闇が落ち、目当てにしていた大木になぞ、決して辿たどりつけそうにありません。

 そこでわたくしは少年のすすめに従うことに決め、し示されたあたりの地面を掘り返して“おしろい”を埋けてやりました。

 こうしてわたくしのガラス鉢の中には、文句のつけようの無い立派な金魚だけが残りました。わたくしには判官贔屓はんがんびいききらいがあったのでしょう。まるで“おしろい”と一緒に埋けてしまったように、鉢の中を泳ぎ回る魚たちへの関心はきれいに失くなっていました。

 それでもわたくしはSさんをがっかりさせたくない一心から金魚の世話を続けました。段取だんどりは決まりきったものですし、取り立てて苦にはなりません。下手へたにはしょったりすると、られるように他でもしくじりを出したりしますから、決めたことはきっちりとくり返していました。

 “おしろい”がいなくなって二日経った朝、またしても一匹、金魚がお腹を上にして浮いていました。夜の間にでも死んだのでしょう、水は薄く濁ってすっかり生臭くなっていました。うかうかしていると夕方まで手をつけられなくなってしまいます。わたくしはすぐに死骸を片付け、手早く鉢を洗って水を替えてやりました。

 翌日の昼過ぎにまた一匹、裏返った金魚が水面に浮かんでいました。

 なるほど。この前のお客のいったとおり、ここに来る前からずいぶんと弱っていたのだろう。そうに違いない。わたくしは自分に言い聞かせ、言い聞かせしながら後始末あとしまつをしました。

 そして、その翌日にもまた一匹。

 屋敷の中には至るところに金魚鉢がえられ、そこにはなんの変事へんじも見られません。くわしいことは分かりませんが、急に魚の数が減って貧寒ひんかんとしているのはわたくしの金魚鉢だけです。金魚を振り分けた使用人が、とりわけ弱っているものをり出してわたくしにおっつけたのでしょうか。そんなことは有ろうはずもありません。なにしろ売るほどの金魚の一群ひとむれを分けるだけでもひと仕事なのですから。

 それではなにがいけないのでしょう。わたくしは家令かれいにいい付けられたとおりに世話をしていたのですから訳が分かりませんでした。

 いずれにしろ残り一匹となってしまいました。

 明日にはわたくしの鉢だけもぬけの空となってしまうのでしょうか。分かりません。

 わたくしが溜息ためいきをついている談話室にSさんが顔を出しました。

 金魚鉢に目を留め “おやおや。これはさびしいことだ”。それだけ言うと、よその金魚鉢から二、三匹すくい上げて来てわたくしの鉢に足してくれました。“まだいくらでもいるのだからこれで良い”。

 Sさんが良いと言うのですから、間違いありません。わたくしは安心して、わたくしの金魚鉢を眺めました。しかし、“そらごらん、金魚も仲間が増えてよろこんでいるよ”と言うSさんの言葉には承服しょうふくしかねました。

 “おしろい”がいなくなった時、悲しそうな素振そぶりを見せた金魚はいませんでした。仲間が次々といなくなっても、不審ふしんそうにしたり食が細くなったりしたものはいませんでした。

 もちろんそんなことは口に出したりはしませんでしたよ。ただ、わたくしがSさんとは違う考えを持っていることが悲しくありました。でもそれも間違いないことなのです。自分はなんとねた心の持ち主なのだろう。問題がひとつ解決したかと思えば、一方でおのれの正体を知って落胆らくたんし、その日はふさいだ気持ちで過ごしました。

 翌日の夕方、わたくしは再び庭へ忍び出ました。わたくしの両の手には相変わらず移植ゴテと古い石鹸箱が収まっていました。

 “なんだ、またか?”またあの少年がいました。“そう毎日毎日植えてたら、そのうち地面から金魚がえて来るんじゃないか”わたくしの方ではしばらく少年を見かけていませんでしたが、少年の方はどこかに隠れてわたくしの様子を見張っていたようです。

 少年の声には意地悪な響きは無く、軽い揶揄やゆのつもりだったのでしょうが、少年の言葉にはわたくしの胸をき、涙をあふれされるのに充分な力がありました。

 “なんだよ。うろくずが死ぬくらい、大したことじゃないだろう”少年は慌ててわたくしの方へ駆け寄って来ました。

 そうではない。

 他と同じようにきちんと世話をしているにもかかわらず、自分の鉢の中の金魚だけが毎日死んでいくこと。それは恐らく自分のような心のねじけた者が世話をしているせいであること。もうそれ以外の原因が思いつかないこと。出来損ないの“おしろい”のこと。Sさんのこと。わたくしはしゃくり上げながら、少年に話しました。

 少年は筋道の立たないわたくしの話にジイッと聞き入っていました。

 “それで、おまえはこれからどうしたい?”

 少年の唐突とうとつな質問に、わたくしは答えにきゅうしました。

 “これからもうろくずが尽きるまで、そいつらを庭に埋め続けたいか?”

 わたくしが急いでかぶりを振ると、少年はわたくしの手の中の石鹸箱に向かってあごをしゃくり、片が付いたら金魚鉢を持って来いといいました。

 一体どうするつもりなのか分りませんが、わたくしは少年の指示に従いました。

 金魚鉢を抱えて庭に出て行きますと、少年の姿がありませんでした。

 “こっちだ、こっち”

 少し離れた屋敷の建物のかげから少年の片腕だけが突出つきだし、こちらに手招きしているのが見えました。わたくしは鉢の水をこぼさぬように加減をしながら、そちらに歩いて行きました。ようやくにして建物の角を曲がると、目の前に開け放たれたフランス窓の中に少年の後姿うしろすがたが消えていくのを見つけました。わたくしはなんの迷いも無く少年の後を追いました。

 フランス窓の中に足を踏み入れようとした時、わたくしの横をかすめて風が吹き込みました。

 カリン、カリン。

 頭上で硬く涼やかな音が立ち、見上げるとガラスの風鈴がひとつ揺れていました。

 “早く来なさい、日暮ひぐれてしまう。私は夜目よめが利かない”

 聞こえてきたのは少年の声ではなく、大人の男性の低い声でした。

 部屋の奥には天蓋てんがいの付いた立派な寝台しんだいが有り、その手前に老人がひとり車椅子に腰掛けていました。

 旦那様でしょう。

 少年に誘われて、わたくしはまったく場違いなところへ来てしまったのです。

 ところで旦那様の面差おもざし、特に目元が少年と似通にかよっていたせいなのか、わたくしは不思議と恐ろしい気がしませんでした。ああやはり、あの少年はM家の親族の子供だったのだと、妙な納得をしておりました。

 わたくしはめいぜられるままに旦那様の正面に近づき、金魚鉢を差し出しました。

 すると旦那様はいきなり鉢の中に手を突っ込み、金魚を一匹つかみ出すとぷっちりふたつに千切ちぎって鉢の中へ放り込んでしまいました。

 “これで良い。もう大丈夫だろう”

 あまりのことに驚いて身を固くして金魚鉢を抱えているわたくしに向かって、旦那様は諄々じゅんじゅんさとし始めました。

 “うろくずに名前などつけてはいけない。これらは我らと違う、冷たい血を生きているのだ。温かい血を生きる者と同じように扱ってしまうと、いつの間にかこれらもその気になって淋しがるようになる”

 わたくしが今日まで庭に埋け続けてきた魚たちは、寂しがった“おしろい”に連れて行かれたのだそうです。

 “だから連れて行かれる前に、こちらから供を与えてやれば良い”

 旦那様がったとおり、それからわたくしの鉢の中の金魚が死ぬことは無くなりました。

 ね、役に立つお話だったでしょう。だからくれぐれも金魚には名前をつけないように、あの子にもよーく言い聞かせておいてちょうだい。きっとよ?

 ええっ、トラ…なあに?虎の話なんかしていませんよ。あらいいえ。金魚が苦手なのはね、目の前で千切られたことが原因じゃあないのよ。

 旦那様の部屋を辞す時に、旦那様が奥様の名を呼んだの。奥様が来たのかと思って振り返ると、旦那様はわたくしに向かって呼び掛けていました。

 旦那様はフランス窓の上の方を指さすと“それそこの、この前見たことも無い女中がやって来て勝手に吊り下げていったがうるさくてかなわないからおまえにやろう”と言いました。

 金魚模様のガラスの風鈴でした。

 この前、別にしめし合わせたわけでも無いのに、こんなモノまで金魚くしかとお客たちと笑い眺めていた品。

 奥様の風鈴でしょう。

 わたくしは手が届かないのを理由に、逃げるようにしてフランス窓の外に出ました。

 そうね。今時だとそんな言い方になるわね。好きじゃないけど。

 旦那様は時のうつろうやまいわずらっていたのね。いまがいつとも、の人がだれかもあいまいになってしまって、見たことも無い女中とは奥様だったのでしょうねえ。

 それを思うと、千切れた仲間の死骸が天から降って来てもおびえるどころか気づきもしないような冷たい血を生きる方が幸せかも知れないと思ったりしてね、切なくて苦しい気持ちになった。

 金魚を見るたびに思い出してしまうのよ、その時の気持ちを。わたくしはどうしたって温かい血を生きてるのだもの、仕方が無いわよねえ。

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