梅雨

丸い空

 買い物の帰り道、傘を差して歩きながら何となく視線を左に運んでみると、花屋の店先の綺麗な紫陽花が目に留まった。ふと足が止まってしまって、昔の事を思い出した。そして、私はもう紫陽花を紫陽花としか見ることが出来ないのだと気が付き、随分と遠い場所に来てしまったなと、その道のりでボトボトと綺麗な飴玉をいくつ落としてきたのだろうかと、そんな事を思った。



 昔は飴玉が好きで、中でもソーダ味の青い飴玉が好きであった。良く母親や祖母に飴玉欲しいとねだっていたものであったが、思えばここ何年も飴玉なんてものを口にはしていない気がする。同様に、こうして紫陽花を見るのも何年振りであろうか。



 初めて紫陽花を見たのはいつだっただろうか。その時、まだ祖母は生きていたから、少なくとも私は小学三年生よりも幼いはずだ。



 小学校の帰り道、雨の降る通学路を、私はピンク色の傘をクルクル回しながら、時折長靴で水たまりを踏みつけ歩いた。あまりにも雨の日が続くものであったから、私は露骨に不機嫌であった。大げさに水たまりを踏みつけては、ぴしゃり、ぴしゃりという音を確かめて、それでも傘を叩く雨音は止まないものだから、諦めて家に帰った。



 家に帰って、傘についた雨粒を払い落とし、長靴を脱いでリビングに行ってみると、いつもご飯を食べているテーブルの上に青空が広がっていると、幼い私は紫陽花を見て思ったのだ。実際に、花瓶に紫陽花を生けていた祖母に「青空が外にないと思ったら、こんな所にあったのね」なんて、何とも頬が熱くなる言葉を祖母に投げたのを覚えている。



 私のその言葉に、祖母がどんな言葉を返してくれたかは上手く思い出せないが、頭の中に浮かぶのは、柔らかい祖母の笑顔と、飴玉のソーダ味と、テーブルの上に置かれた丸い青空であった。



「…………」



 紫陽花はどこまでも紫陽花で、ただ、ポツポツと傘を叩く雨音だけは昔と変わらない気がするなと、そんな事を思ったのと、「いらっしゃいませ」なんて花屋の店員さんに声をかけられたのは同時だった。



 花を買う気なんてなかったのに、気が付けば私は紫陽花を買っていて、買ったはいいが家に花瓶などないことに思い至り、仕方がないから帰り道の途中店に寄り、花瓶を買った。何をしているのだろうかと、溜息一つ漏らしそうになった。赤信号で止まり、ふと傘の下の紫陽花に目を落とすと、なんだか今度は無償にソーダ味の飴玉も舐めたくなって、結局コンビニに寄ってソーダ味の飴玉を買い、家に帰った。



 扉を開けて、薄暗い部屋に電気をつけて、それから買って来たものを冷蔵庫何かに仕舞った後、せっかく買ったので、紫陽花を花瓶に生ける。昔、花が好きであった祖母と一緒にこうして花瓶に花を生けたことが何回かあったが、それももう遠い昔のことで、祖母のお墓参りもここ数年していないなと、そんな事を思った。きっと、この紫陽花は夏を迎えることは出来ないだろうなと思うと、私の手は自然とソーダ味の飴玉に伸びた。



「…………」



 雨音を聞きながら、紫陽花を眺め、そうして飴玉を口にする。



 これを丸い青空だと言った昔の私が、やはりとても遠くに行ってしまったような気がして、ソーダ味がじんわりと内側に溶けて消えた。

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