おばあちゃん

『十時十七分。本日、八月十四日の予想最高気温は三十五度、降水確率は……』



 今年の夏は例年と比べ別段暑く感じてしまう。というのは私の錯覚だろうか。車の中で流れているラジオではいつもの女性が天気予報をしているが、過去最高という言葉を毎年聞いているようでならなかった。



 東京から車で二時間半。空高くそびえるビルは樹木に変わり、陽の漏れる山道を時々小石に乗り上げながら走っていく。



 流石は田舎というべきか、この山道に入ってからというもの車と全くすれ違わない。これは毎年のことだ。ラジオの音はそれなりに大きいのだが、それでもセミの大合唱が車内にまで聞こえてくる。昔はこの道を歩いて学校まで通っていたのだから、私もなかなかな者だったなどと我ながら思った。



 山道に入って十分ほど、約一年ぶりの古ぼけた家が姿を現す。



 玄関前に車を止め、こちらに来る前に買っておいた東京では有名な羊羹を手に持って車を降りる。



 今時には珍しい瓦の屋根の、だいぶ痛んだ木造の家。これが私の実家だ。玄関のすぐ左隣にある畑には今年も例年通りトマトやらトウモロコシやらスイカが実っている。それを見て少し安心した。



 インターフォンを押さずに戸を開ける。やはり鍵はかかっていなかった。東京ではありえないことだとあちらに住むようになってから思うようになったのだが、私もだいぶ変わったものだと思う。



 それもそうだ。私も今年で二十六歳になる。つい最近、弟に会う機会があったのだが、その時に「姉ちゃんは結婚しないのか」などと言われて、弟の頬を思いっきり打ったことが記憶に新しい。



 ここに帰って来るたびに母からもそんなことを言われていたのだが、それも懐かしいと思えるほどの年月が経った。



 玄関を通って廊下を歩いていく。昔、弟と共同で使っていた自室には目を向けずに縁側へと向かう。すると、やはりそこに小さく丸まった背中を見つけることが出来た。



「おばあちゃん」



 いつからか私は母のことを「おばあちゃん」などと呼ぶようになってしまったらしい。明確にそう呼ぶようになった時期は分からないが、きっかけは恐らくあの時のことだろう。



 私がその小さく丸まった背中に声をかけると、母はゆっくりと体を動かして私に目を向ける。そして、目を細めながら年相応な皺しわを顔いっぱいに作って怖いほど優しい笑みを浮かべた。



「おや……珍しい……こんな家にお客さんかい? お嬢ちゃん、可愛いね~」



 私が母のことを「おばあちゃん」と呼ぶようになったのは、父がこの世を去った時からだと思う。父が亡くなったのは私が二十一の時のこと。その後すぐに、母は言うところの認知症というやつになったようだった。



 しかし、ただそれだけなら私も母のことを「おばあちゃん」などと呼ぶことはなかっただろう。父が亡くなった後、私は父の部屋で一通の手紙を見つけた。言うところの遺書というものだった。



 そこには「めぐみの本当の両親は私たちではない」と書かれていた。



 目を疑った。目が眩んでその一文が歪んでいった。



 後日、DNA検査というものを初めてしたのだが、父の最後の言葉が覆るということはなかった。



 母にそのことを聞こうとしたのだが、すでに母は認知症を起こし答えてなどくれない。そして、私のことは忘れてしまったようだった。



 弟は実の子供であったらしく、かろうじてまだ母は弟を理解できる。だが、私だけ忘れられたようであった。



 私の本当の両親を探そうにも手がかりは何一つない。何かを知っていそうな母は、もう似たような言葉を何度も繰り返すだけになった。



 一瞬で私は家族というやつが分からなくなった。たぶん、私がまだ結婚できていないのはその所為もあるのだと思う。



 だが、弟は依然として私のことを姉と呼んでくれるため、かろうじて留まることが出来ていた。そう考えると、この間は頬を打って申し訳ないと謝ったほうがいいのだろうかなどと考えてしまうのだが、結局謝ることはしないだろう。



 私を育ててくれたのは今目の前にいる人であることに変わりはない。たとえ目の前の人がそのことを忘れてしまっても、私はそのことをどうしようもなく覚えているのだから仕方がなかった。



 なにより、母は時々驚くような顔で私を見つめる時がある。そのたびに私の頭は勝手に過去の母の姿を浮かべてしまう。



 そのたびに、虚しいという気持ちはきっとこういうもののことを言うのだと思うのだ。



「おばあちゃん。羊羹買ってきたよ。食べる?」

「おやおや、それはありがとうございます。お茶を用意しましょうね」



 母はすっかり細くなった足でゆっくりと小さな体を起き上がらせる。去年よりも背中が小さくなったと毎年のように思ってしまうのは私の錯覚なのだろうか。



「はい、お茶。お口に合えば嬉しいのだけどねぇ」



 母は笑う。私も私が怖いと思える笑みを浮かべる。



 どうしてここに来るのかと尋ねられれば、きっと私は答えることが出来ないだろう。ただ、自分勝手に私の過去にいる母が時折顔を覗かせるのだ。



 ここに来るたびに人と言うやつが虚しいものに思えてならない。



 母の出すお茶は昔みたいに暖かい。



 虚しすぎて、私は毎年暖かい涙を流してしまうのだった。

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