2)母と娘

母と娘(1)

 壬は、真っ暗闇の中、ぼんやりと意識を漂わせていた。背中に感じる地面の冷ややかさが妙に心地いい。どうやら自分は寝ていたようだ。瞬きを一つして、視線を左右に動かす。辺りには何もない。何も見えない。


 あれは、事故のようなものだった。

 雑蟲ぞうこに取り憑かれ正気を失い襲ってくる祥真。そんな祥真と対峙した拓真が、壬の隣で決死の表情を浮かべた時、壬はとっさに(ダメだ!)と思った。

 実の兄をその手で殺そうとしている。自分と伊万里のために。

 そんなことをさせてはいけない。そんなことをさせては、恐ろしいほど重いものを彼に背負わせることになる。

 次の瞬間には、壬は伊万里を拓真に押し付けていた。あとは、無我夢中で祥真に突っ込んだ。彼と取っ組み合いのようになり、拓真の叫び声が聞こえたのがその直後。刹那、突然地面がなくなり、壬は祥真と絡み合いながら崖から落ちた。そして、次に気づいたときには、この暗闇の中にいた。


 ぎしぎしと音が鳴りそうなほど強張った体をなんとか動かし、壬はゆっくりと起き上がった。やはり、周囲は真っ暗だ。

(ここは、俺の意識の中?)

 この真っ暗闇の空間には見覚えがある。初めて焔を振るい彼と話をした、あの空間だ。

 あの時も死にかけていたから、あり得るなと壬は思った。しかし、不思議とこのまま死ぬとは思わなかった。胸を見ると、貫かれたはずの傷はなく、綺麗なままだ。意識の中だから当然と言えばそうかもしれないが。

 それよりも、体が燃えるように熱い。そして、この体の熱と同じように心の奥底から怒りがふつふつと沸き起こっていた。

 よりにもよって伊万里を殺そうとしている奴がいる。太一郎は死んだ、祥真も正気を失っていた。だとしたら一体誰が?

 絶対に許さない。

 体がじりじりと焼けていく感覚にとらわれる。内側から怒りが煮えたぎる。

(くそっ!!)

 壬は吐き捨てた。口から火炎が一緒にぼわっと溢れ出た。

 もっと強ければ、力があれば、こんなことにはならなかった。

 早く目を覚まさないと。こんなところに閉じ込められているわけにはいかない。

 怒りと焦燥が体の中を駆け巡った。


 その時、黒い影が闇から浮かび上がった。

 全身に黒布をまとい、どこまでが体でどこからが闇なのか分からない。唯一のぞく赤い眼がギラギラとした光を放ちながらこちらをじっと凝視している。

(焔、)

 壬はさして驚くわけでもなく彼を見返した。

 黒影がゆらりと揺れた。

を呼んだか)

(ああ、呼んだ。おまえを呼んだ)

 その瞳に怒りを滲ませ、壬は苛々と頷いた。気持ちがはやる。

(今から伊万里を殺そうとしている奴を見つけ出して始末する)

 すると、焔がくっくっくっと笑った。

(怒っておるな、壬)

(当然だ)

 怒りを露わにする壬に焔は含みのある目を細め、首を傾げた。

(しかし、今のおまえではは振るえぬよ)

(どういう、ことだ?)

(分からぬか。荒ぶる力が、おまえ自身を喰らおうとしておる。そのような状態で、どうやって吾を振るうと言うのか)

 言って焔は壬の体を指差した。焔に言われ、初めて壬は自分の体を見た。体のあちこちの皮膚が割れ、炎がくすぶり出ていた。

(これは……? 俺の体はどうなってる?)

 体が熱い。息が上がる。

(それこそがおまえの力。ただし、ぎょすことが出来ればの話だが)

 刹那、地面から炎が立ち上がり、壬を取り囲んだ。

 焔がゆらりと揺れ、すっと壬から遠のいた。

は刃であることを望む。このまま納まるべき所もなく、おまえに振るわれ続ければ、吾は刃ではなくなる。そしてそれは、おまえも同じ)

 壬がガクッと膝を着く。体がじりじりと燃え始める。焔はそんな彼の姿を冷たく見下ろした。

(このまま力に飲み込まれれば、おまえはおまえでなくなるよ。怒りを鎮め、が納まるべき鞘を持ち、を呼べ。そしてその心臓に、魂に誓え。おまえが我が主であると。さすれば、はその荒ぶる力を全て喰らい、この刃をおまえに捧げよう)

 暗闇が炎に飲み込まれる。壬の意識も一緒に炎にさらわれた。





 猿師のエイに乗り拓真たちが別邸まで来ると、亜門をはじめ古老たちが屋敷内外で忙しなく動いているのが見えた。彼らは空を飛ぶエイの姿を見つけると、さっと顔を強張らせ刀を抜いた。

「親父!」

 亜子が上空から声をかける。いかつい顔の男は娘の姿を確認するとばっと頬を上気させた。

 エイが急降下し、庭へと降り立つ。

「亜子、よくぞ戻ってきた!」

 亜門が破願しつつ厳しい面持ちで亜子の元へ駆け寄った。しかし、彼女の背後にいる拓真の姿を見つけると、目を見開いて驚いた。

「拓真、それと伊万里姫……」

「なんじゃ、帰ってきたら都合が悪かったんか?」

 拓真が皮肉げに口の端を歪める。亜門は小さく首を振りながら、大きく息をついた。その体からみるみる力が抜けていくのが見て取れた。

「もう、ダメだと。式神を飛ばしても深入の状況はまったく掴めず、里中で雑蟲ぞうこが突然暴れ出し、助けに行くことも出来ず──…」

「勝手に殺すな」

 ふんっと憎まれ口を軽く叩き、拓真は伊万里を抱き上げた。彼はエイの背中から降りると、ぐるりと別邸の様子を窺った。

 屋敷のあちこちからざわざわと声が聞こえる。中には子供と思える声も。それを確認してから拓真は亜門に言った。

「里のもんだな?」

「ああ、夜中から今朝にかけて大江ら古老たちと一緒に避難させた。大広間はさながら避難所となっている」

「そうか」

 拓真がほっと息をつく。

 里の者の安否が気にかかっていた拓真には朗報だった。

 それから彼は圭たちに目を向けた。

「亜子の親父で、東篠亜門じゃ。亜門、九尾の双子の兄で伏宮圭、こっちが猿師、で最後に巫女の千尋じゃ」

 圭たちがそれぞれ会釈をすると、亜門が「よく来てくだされた」と深く頭を下げた。それを見届けて、拓真がすぐさま動き出した。

「とりあえず、みんな儂の部屋へ。亜門、歩きながらでいいから昨夜からの状況を報告してくれ。大江は、里の者の世話を頼む。あと、にぎりを儂の部屋へ持ってくるよう信乃に伝えてくれ。昨日から何も食べとらん」

 大江と呼ばれた古老が一礼して踵を返し去っていく。一方、亜門が少し驚いた顔をした。拓真が足を止めて振り返り、怪訝な顔をする。

「なんじゃ、話せんことでもあるんか」

「そうではなく。一晩でえらい立派になったもんで、本当に拓真かと」

「跡目に担ぎ出したんはおまえらだろうが。そこ、涙を流して喜ばんかい」

 小さく鼻を鳴らし、拓真が再び歩き出す。亜門が亜子をちらりと見ると、彼女は苦笑した。

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