オマケ番外編:できません!

 今日、伊万里は嫌がる壬を連れて尾振おぶ渓谷に来ていた。ここは二人が初めて出会った場所。あの時は、この尾振に再び二人で、しかも水着姿(でも、ラッシュガードはばっちり羽織っている)で来ることになるとは想像すらしていなかった。

 今日ここに来た目的は、気のりの練習のため。狐火きつねびをちゃんと出せない壬と二人きりで練習をするためだ。

 二人は、ゆったりと流れる渓谷のひときわ大きい岩の上で練習を始めることにした。

「さあ、はじめましょう」

「えー、泳がねえの?」

「…何しに来たんですか?」

 伊万里がぴしゃりと言うと、壬は小さく肩をすくめた。

 尾振おぶ渓谷は川の流れも速く水深もあり、足場も悪い。水を使って気のりを練習するにはあまり適した場所ではないが、そもそも壬との練習は水を使うところまで到達しない。

(なぜ私は水着姿になってまで、尾振おぶに来たのでしょうか?)

 気の繰りの練習だけなら、家ですれば良かったのではないかと今更ながらに思ってしまう。

 そう、水着にこだわるから、こんなことになっているのだ。

 伊万里は、水着の上に羽織ったラッシュガードをぎゅっと握りしめた。


 そもそもこんなことになったのは圭のせいだ。なかなか真面目に練習をしようとしない壬への対策として、伊万里は圭からアドバイスを二つ受けた。


 一つは、壬と二人で来ること。

 一つは、水着の上に羽織っているラッシュガードを脱ぐこと。

 

 二人で練習に行くというのは、その方が壬も集中できるだろうと思って納得できた。しかし、もう一つの提案「ラッシュガードを脱ぐ」は意味が分からない。

 ラッシュガードの下は、当然ながら水着姿だ。今着ている水着は丈の短いタンクトップとショートパンツタイプという、千尋ちひろに言わせると「地味な」水着らしいが、それでもおへそが出てしまうあたり、伊万里にとっては下着にほぼ近い代物しろものだった。

 圭には「脱いだら絶対にやる気が出るから」と言われたが、


(殿方におへそを見せるなど、あり得ませぬ!!)


 伊万里はひとりブンブンと頭を振った。


 しかし、いざ練習を始めると、あっという間に壬が飽きてしまった。

 大きな岩場で練習していたが二人だが、三十分もたたないうちに壬が「休憩!」と言い出した。まだ狐火は、米粒からマッチの火の大きさほどにしかなっていない。

「もうっ、何しに来たんですか?」

「けっこう練習しただろ」

 伊万里が両手を腰にあて壬を睨んだが、壬は悪びれる風もない。

「それより──」

 言うなり壬が、伊万里の腕を引っ張って川へと飛び込んだ。

「きゃあっ」

 絡まるように二人が川の中へと沈んでいく。ややして、上機嫌な壬が川面から顔を出し、続いて浮かんできた伊万里を引っぱり上げた。伊万里はぶるんぶるんと頭を振った。水しぶきがあちこちに飛び散った。

「壬っ、びっくりするではないですか!」

「せっかく川に来たんだから、泳ごうぜ?」

「だからっ、練習を──!」

「伊万里、」

 壬が駄々だだっ子のような目を向ける。

「少しだけ、な?」

「……」

 その目はずるい。

 伊万里は思わず目を背けながら、しぶしぶ「じゃあ少しだけ…」と返事をした。

 壬は何の前触れもなく、こちらをドキドキとさせる。それは思いがけない言葉であったり、突然の態度だったり、見たこともない目だったりするわけだが、何がいつどこで出てくるか分からないので、されるこっちはたまらない。

 今だって、背中に回る壬の両腕と水中で触れ合う足にドキドキする。

 伊万里は意識すると急に恥ずかしくなって、慌てて彼の腕を振りほどいた。

「一人で泳げますから」

「ああ、ごめん。流れも速いし、女の子は無理かなと…」

「このくらい大丈夫です」

 そうか、普通の女の子は、このくらい大丈夫じゃないのか。

 そう考えると、自分はなんて可愛くない女なのだろうかと思えてくる。きっと可愛い女の子は、ここで可愛い叫び声の一つも上げて壬に抱きつくんだろう。

「どした?」

「ど、どうもしません!」

 思わず伊万里はちゃぽんっと水の中に潜った。

 一方、練習から解放された壬は、気持ちよさそうに川の中を泳ぎ始めた。


 そして、それから三十分以上。

 体が冷えた伊万里は、とっくの先に大岩へ上がり、壬が泳ぐのをずっと見ていた。彼が大岩に上がってくる気配は全くない。

「壬……、練習はいつ始めるんですか?」

 とうとうしびれを切らし、伊万里は壬に声をかけた。壬がすいーっと泳ぎながら顔をこちらに向ける。

「うーん、どうすっかなあ」

「どうするかなあって」

 伊万里は一瞬イラッとしたが、彼女は二つめのアドバイス「脱ぐ」をふいに思い出した。

 

 なるほど、今こそ「脱ぐ」を実行しなくては!


 伊万里は立ち上がった。

「壬、もう泳ぐのをやめて上がってきてください」

「えー?」

「私、ぬ──」

「ぬ?」

「ぬ──」

「…なに?」

 壬が怪訝な顔で伊万里を見る。伊万里は大きく深呼吸をした。

「私、ぬ、ぬ、ぬ──…、ぬか漬けが好きなんです!」

「……だから?」

「だから、………練習しませんか?」

「……しない」

 意味が分からないと壬が頭を左右に振る。伊万里はがっくりとひざまずいた。


(圭、私には無理です。脱ぐなんて、やっぱりできません!!)


 壬が川から上がり、大岩に戻ってきた。そして、伊万里の顔を覗き込んだ。

「伊万里、疲れてないか?」

「…はい。ちょっと体を冷やしてしまいました」

「はあ、じゃあ帰るか」

 壬が大きく伸びをする。

 人の気も知らないで──。伊万里はしゅんと肩を落とした。

 すると、壬が自分のTシャツを伊万里に差し出した。

「これ着ろよ。俺、あっち向いてるから、濡れたラッシュガードを羽織ったままじゃ寒いだろ。脱いで着替えろ」

「え?」

「早く。無理やり脱がせるぞ」

「わわっ、分かりました!」

 伊万里は慌てて壬からTシャツを受け取った。壬がふいっとそっぽを向く。伊万里は、そんな彼を横目で見ながら大急ぎでラッシュガードを脱いで彼のTシャツを着た。

 だぼっと大きいTシャツが伊万里の肌をふわりと包み込んだ。Tシャツからは、かすかに壬の匂いがする。


 やっぱりずるい。


 伊万里は緩む口元を壬に悟られまいと、必死でぎゅっと結んだ。


 その夏、伊万里がラッシュガードを脱ぐことはなかったが、壬の狐火はこぶしの大きさほどになった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る