谷の狐と姫の一日(2)
二人は、それぞれ水着に着替えると川添に向かった。壬はハーフパンツにTシャツ、伊万里はショートパンツにラッシュガードを羽織った水着姿だ。途中、千尋から「少し遅れるが必ず行く」との返信があった。壬と伊万里は、自転車を二人乗りして
ここは、あの「迷い道」を見つけたところだ。しかし、もうあの道はどこにもない。まるで最初から何もなかったかのように森は茂みに覆われていた。
後ろの荷台に乗っている伊万里が、思わずぎゅっと壬のTシャツを握りしめた。壬はそんな伊万里の様子に気づかないふりをした。
それからしばらく自転車を走らせて、二人は川添の小川に着いた。川辺でのんびりと座っていた阿丸が、伊万里と壬の姿を見て嬉しそうにガウッと尻尾を振った。
「圭、やってるな」
じゃれてくる阿丸をなでながら壬が圭に声をかけた。川の中で水の玉を作っていた圭がこちらを向いた。
「なんだ、来たんだ」
「すごいな、水の玉を作れるようになったんだ」
言って壬はTシャツを脱ぐと川に入った。そして、彼の手の平に浮かぶ水の玉を感心顔で見る。
「ついこの前まで伊万里に笑われていた奴とは思えない」
「壬も少しは練習すれば?」
「もちろん、練習しに来たんですよ」
遅れて川に入ってきた伊万里がすかさず答える。その隣で壬はげんなりと肩をすくめた。
「俺、ここで涼んでるだけでいいんだけど」
「壬、」
面倒くさがる壬を伊万里が軽く睨んだ。壬が慌てて頷いた。
「分かった、やるよ」
「本当に狐火も出せない狐になる気ですか?」
「だって、あんまり必要なくね? どうせなら、口から火を吐くとか、尻尾からビーム出すとか」
すると圭が笑って答えた。
「そんなことないよ。使えるようになると意外と便利だって」
それから圭は再び水のたまり石を探し始め、伊万里と壬は圭の邪魔をしないように気の繰りの練習を始めた。
しかし、それもしばらくの間だけ。すぐに壬が「休憩!」と叫んだ。
「こういうチマチマしたの性に合わない」
「もう、壬。まだ米粒のような火しか出てません」
「いいの、ちょっと休憩」
「あっ、ちょっと!!」
壬がさっさと川岸へ上がり、伊万里はがっくり肩を落とす。そんな二人のやり取りを見て、圭が笑った。
「今度は二人で来なよ。で、ここに来たらそのラッシュガードを脱ぐ」
「ななな、なぜ?」
「絶対にやる気になるから。保証する」
その時、
「おーい、伊万里」
森の向こうで壬の呼ぶ声がした。
「もうっ、今度はなんでしょう……。ちょっと壬を見てきます」
ぶつぶつと言いながら伊万里も川から上がる。そして、彼女は「壬、どこですか?」と大声を出しながら森の方へと歩いていった。
圭はそれを横目で見送ると、すぐに視線を川面に移した。もう少し石を見つけたかった。すると突然、川岸の阿丸がガウガウっと再び吠え出した。
「おまえまでなんだよ──」
圭が阿丸を見る。と、川辺に千尋が立っていた。
「千尋?」
「圭ちゃん、久しぶり」
千尋が元気よく笑う。
「どうして──?」
「えっと、伊万里ちゃんに呼ばれて。それで今来たところなんだけど」
「千尋!」
川から慌ててかけ寄り、圭が千尋を抱きしめた。
「千尋!……千尋!」
「痛い、圭ちゃん、痛いよ」
「あ、ごめん!」
圭が慌てて力を緩める。千尋がそんな圭を見て笑った。
「水のたまり石、毎日阿丸が届けてくれた。ありがとう」
圭が重苦しい顔で千尋から目をそらして
「俺……、本当にごめん」
千尋が小さく頭を左右に振る。
「どうして? 私、元気になったよ」
「でも──」
「元気になったもん。圭ちゃんのおかげ」
二人は再び抱き締め合った。
「お二人とも良かったです!」
壬と伊万里は、茂みに隠れ二人の様子をそっと見ていた。伊万里が両手を合わせ感慨深げに呟く。
「やっと会えました」
「さ、行こうぜ。俺たち邪魔になるだろ」
しかし伊万里が動こうとしない。壬が不思議に思ってその横顔を見ると、完全に目がハートになり、恋に恋する少女の様相だ。
だめだ、こりゃ。
壬は「ああ、もうっ」と伊万里を羽交い絞めにした。
「あ、壬、何を!」
「そりゃ、こっちのセリフだ。帰るんだよ、このお邪魔ムシ!」
伊万里がとっさに壬の腕から逃れる。壬はそれを追いかけてバランスを崩し、勢い余って伊万里を巻き込み倒れてしまった。
「痛い。何するんですか、壬」
壬の下敷きになった伊万里が腰をさすりながら言った。
「ごめん、おまえが逃げるから──」
「もうっ。静かにしないとバレてしまいます」
「いや、だから、帰るんだって」
すると、
「二人とも物陰に隠れて何やってんの?」
その時、声がして顔を上げると、いつの間にか千尋と圭がすぐそこに立っていた。
「いや、何って──」
「まさか、こんな場所で押し倒し──???」
千尋が、伊万里を組み敷く壬を見て顔を真っ赤にし、圭があきれ顔でため息をついた。
「壬……。いくら見境がないからって、野外プレイってのはどうなの?」
「野外──って、違うし!!」
突如、伊万里が壬を突き飛ばし、すくっと立ち上がった。
「やややや野外プレイとは、まさか×#&◎+□??」
最後はほぼ言葉になっていない。
壬はわなわなと体を震わせた。
「だからっ、なんでそういう余計な言葉ばっかり知ってるんだよ!」
「余計ってなんですか。私は広く知識を身につけようと──」
「もっと必要な知識を身につけろと言ってるんだ」
圭と千尋が二人の間に割って入った。
「まあまあ、壬ちゃんも、伊万里ちゃんも」
「そうそう。ほら、ゆくゆく必要になるかもしれないし、そういう知識も」
「いつ、どこでだ??」
壬が圭に突っ込む。
一方、伊万里はふんっと鼻を鳴らしてから、あらためて千尋に向き直った。
「それはそうと、千尋、これから伏宮に寄っていきませんか?
「うんっ。私、護おじさんやあさ美おばさんにもお礼をいわなきゃ」
千尋が嬉しそうにうなずいた。すると伊万里がぱっと顔を輝かせた。
「そうだ! では、今日はうちで夕飯を食べて行ってください」
「いいの?」
「もちろんです。さっそく
伊万里がスマホを取り出し、ぎこちなく操作を始める。
「いいのかなあ? 俺、まだ親父に許してもらってないんだけど」
圭が二人のやり取りを聞きながら戸惑い気味にぽつりと呟いた。壬がぷっと吹き出した。
「いいんじゃねえの。うちの嫁がいいって言ってるんだし?」
伊万里がこの伏見谷へ来て半月が経とうとしていた。
突然現れた九尾の嫁は、すっかり谷の生活にもなじみ、こうして一緒にいることが当たり前になった。
夕暮れ時の優しい風が吹いた。夕陽をまとった伊万里の黒髪が風になびいてきらきらと揺れる。
ふと伊万里が壬を見た。
「壬、何か食べたいものありますか?」
そう言って彼女はにっこり笑った。
第1話 了
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