10)谷の狐と姫の一日

谷の狐と姫の一日(1)

 あれから数日、伏宮の家に日常が戻ってきた。護から子どもたちに「すべて片付いた」と簡単な報告がされたのが最後、それからは誰も九洞方くどぼうの話も妖刀・焔の話もしなくなった。いや、しようとしないと言った方が正しいかもしれない。

 猿師はずっと帰ってこない。月夜つくよの里に行っているとだけ護から説明を受けた。稲山の大狐も伊万里が目覚めたのを見届けると、満足そうに笑って稲山へと帰っていった。

 伊万里もあれ以来「鞘」の話は一切しない。毎日、あさ美の家事手伝いをして忙しく働いていた。

 変わったことと言えば、圭が水のたまり石を毎日探しに行っていること、伊万里が二学期から学校へ行くことが決まったことぐらいだ。


 今日も圭は午後からの稽古を終えると川添に出かけていった。伊万里は朝から千尋の家に行っている。一人残された壬はやることもなく、家の中をぶらついていた。

 とりあえずテレビでも見ようかと居間まで来ると、障子戸が開いていて、伊万里がいる。すでに帰って来ていたらしく、彼女は正座をして背筋を真っ直ぐに伸ばしながら真剣な面持ちで何かを読んでいた。

 何だろうと思ってよく見てみると、それは意外にも漫画だった。

(なんで漫画???)

 どこで手に入れたのか、どうして漫画なのか全く分からないが、とにかく彼女は真剣そのもので、その姿勢はまるで難しい書物を読むかのようだった。が、しかし、突然彼女はかあっと頬を赤く染めたかと思うと、頭を左右に振りながら漫画で顔を覆った。


 うわっ、すごい、挙動不審。なにやってんだ?


「おい、伊万里」

「えっ? はっ、はいっ!」

 壬の声に驚いて、伊万里は飛び上がった。手に持っていた漫画をぽとりと落としたが、彼女は顔を真っ赤にして慌ててそれを拾った。

「ななななな、なんですか?」

 そう言いながら彼女は漫画を背中に隠した。

「…それ、どうしたの?」

「あっ、ああ。千尋に貸してもらったんです」

 伊万里が答えた。千尋も今ではすっかり元気になっていた。本当なら、毎日でも遊びに来るところだが、護が圭に対して激怒したせいで、今も二人の間に行き来はない。だから今日も、伊万里がひとり千尋の家に見舞いに行っただけだった。

「千尋に学校のことを相談したら、『これを読んだらまるっと分かる!』と言われて、貸してくれたんです」

「って、それ漫画だろ。胡散臭うさんくせえな」

「失礼ですね。そんなことありません」

「どうだか、」

 壬は、伊万里の傍らに積み重ねてあるうちの一冊を手にとって開いた。

「ふーん、『キュートな花嫁』──って、なんで学校に王子が出てくんだ? どういう設定だ、これ?」

「ちょっ、だめっ、返してください」

 伊万里が真っ赤な顔で立ち上がり、壬に飛びかかった。壬はそんな伊万里をひらりとかわして、からかい顔で漫画を持っている方の手を挙げた。

「なんだよ、見られて困るような内容じゃないだろ、これ」

「いいからっ」

 言って伊万里は、壬の体にしがみつき、めいっぱい手を伸ばした。しかし、どんなに手を伸ばしても漫画には届かない。

「早く、返してください!」

「意外だな、こんなの必死で読むなんて──」

 と、ふいに二人の目が合った。

 大きな深紫の瞳と小さな薄紅色の唇が、息もかかりそうなほど間近にある──。

「ご、ごめん」

 思わず壬は手に持っていた漫画をぽとりと落とした。

 伊万里が慌ててそれを拾う。そして彼女は、耳の先まで真っ赤になりながら、漫画をすべて部屋の隅に片づけた。

「もうっ、からかわないでください!」

「ごめんって」

 怒りながら必死に漫画を隠す伊万里がとても可愛い。

 壬は謝りながらもにやけそうになる顔を必死で抑えた。


 するとその時、護がひょっこりと顔をのぞかせた。

 もの言いたげな様子で壬たちを見る。伊万里が義父の様子に気づき声をかけた。

義父とうさま、どうかされましたか?」

「ん? いや、圭の奴はどこに行ったかなと」

「今日もたまり石を探しに行っています」

「そうか」

「何か用事があるんなら帰るよう伝えますけど?」

「いや、いい」

 護はそう言って部屋を出ていく。

 慌てて伊万里が呼び止めようとしたところ、そこへあさ美がやって来て、「いいのよ」と止められた。

「ごめんなさいね。ほら、あれ以来、圭とまともに会話をしてなくて。慣れないことをするもんだから、許すタイミングが分からなくておろおろしているのよ」

「ああ、」

 伊万里と壬は顔を見合わせた。

「もう千尋に会わせてやればいいじゃんか。『二度と関わり合うな』なんて言うから、俺らが何を言っても圭の奴、絶対に千尋に会いに行こうとしないし、」

「そりゃ、まあね。でも、私があれこれしたらお父さんがねちゃうかなあって思ったり」

「面倒くせえ親父だな」

「では、私が誘って、千尋の意思で遊びに来てもらいましょう。それなら義父とうさまもお怒りにならないのでは?」

 言いながら伊万里がワンピースのポケットからスマホを取り出す。

「うーん、シンプルに『遊びに来られたし』って感じでいいですかね?」

「だから、その軍隊トークやめろよ」

「あ、そうだ! いいこと思いつきました!」

「人の話を聞けってっ」

 しかし、伊万里は全く聞いていない。ぎこちなくスマホを操作しながらメッセージを打ち込むと、嬉しそうに画面を見つめた。

「なに? なんて送るんだ?」

「ふふふっ」


(伊万里)『本日、頼みたいことあり。これから川添に来られたし』


「ねっ、どうですか?」

「おお、いいじゃん。っていうか、やっぱりその文体なのな」

「サプライズです!」

「そして余計な言葉を覚えて……。やっぱり、あの漫画は読むな」

「さあ壬、急いで私たちも準備しましょう!」

 壬の突っ込みはそっちのけで伊万里が嬉しそうに言った。

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