思惑と祈り(6)

 ややして、彼女はゆっくりと体を起こすと、右手首を見た。

「壬、これ……」

「ああ、うん」

 慌てて壬がそこをさすった。

「いや、痛くはないんだけど、圭がリストバンドでも付けとけってうるさくて」

「あの、焔の印のことは……」

「圭から聞いた」

 壬は嘘をついた。焔の印のことは、そもそも焔本人から言われたことだ。しかし、夢の中での焔とのやり取りを圭に話すと、「絶対に姫ちゃんには言うな」ときつく念を押された。

「ではっ、私がお預かりしている、焔の──」

「ああ、鞘のこと? それも聞いた」

 壬はなるべく平静を装って答えた。

「体の中にあるんだって? ちょっと驚いた」

 伊万里がこくりと頷いた。しかし、彼女はすぐに大げさな笑顔を見せた。

「と言っても、痛くもかゆくもないですから。一生このまま持ち続けても全く平気です。御心配にはおよびません」

「一生?」

「ええ、安心してください。鞘がなければ、あの妖刀は刀としてのていをなさぬと聞いています。壬には二度と振らせません」

「うん、そっか。そうだな」

 ほんの少し、壬の胸がちくりと痛む。暗に自分はその器ではないと言われたような気がした。

 でも、それでいい。本当のことだ。

 自分が二代目九尾になれるとは思わない。それなのに、焔を振るったというだけで、否応なしに伊万里は自分と結婚しなければならなくなる。

 それじゃあ伊万里の意思は?? こんな大人の事情に縛られていいわけがない。

(俺は焔を使っちゃいけない)

 壬はそう思った。


 すると伊万里が再び壬に寄りかかってきた。

「伊万里?」

「ごめんなさい。私、迷惑ばかりかけてしまって──」

 壬の中でどうしようもない独占欲が沸き起こる。壬は伊万里を抱きしめた。

「迷惑じゃねえよ」

 本当はこのまま自分のものになればいい。しかし、そう思えば思うほど、九尾という存在が大きく頭をもたげた。伊万里は九尾の嫁なのだ。

 壬は大きく深呼吸して自分の気持ちを落ち着かせた。

「迷惑なんて言うなよ。俺たち、もう家族みたいなもんだろ」

 壬は言った。ほぼ自分に言い聞かせているようなものだった。

「家族……。そう、ですね」

 伊万里が小さく笑った。

 それから二人は、しばらく動かなかった。お互いの体温と心臓の音だけが今感じる全てだった。

 伊万里の華奢な体は、柔らかくいい匂いがする。焔が言った「柔肌やわはだ」という言葉を壬はふいに思い出した。

(あー、やだ。俺って煩悩ぼんのうのカタマリ)

 こんなときに、こんな不謹慎なことを思う自分に壬は少し後ろめたい気持ちになった。

 が、

「──ん?」

 ふと彼は大変なことに気がついた。

「あ、あのー、もしもし伊万里さん?」

「はい?」

 伊万里がきょとんとして顔を上げた。壬は気まずそうに目をそらしながら、ぼそりと呟いた。

「もしかして……下着、付けてない?」

 そう、彼が背中に回した手には、彼女の柔らかな背中の感触が伝わるのみで、他に何もないのだ。

「ななななな、なにを?!」

 刹那、伊万里が顔を真っ赤にして、力の限り壬を突き飛ばした。

「いってぇー、いきなり突き飛ばすなよっ」

「それは、こっちのセリフです! 突然、何を言うんですか!!」

「いやだって、背中に回した手に何もあたらないし。ほら、普通はキャミとかブラとかの線が──ぶっ!」

 直後、壬の顔面にそば殻入りの枕が直撃する。

「生々しい説明はいりません!」

 壬は顔を押さえその場にうずくまった。そんな彼を睨みながら、伊万里はすっくと立ち上がった。

 しかし、胸元が緩くはだけた自身の姿に気づき、伊万里はばっと前身を両手で覆いながらしゃがみ込んだ。

「やだもうっ、出てってください!!」

 すると、伊万里の叫び声を聞きつけたあさ美が部屋に飛び込んできた。

「どうしたの? イマちゃん!」

 言いながら、体をかばう伊万里とその脇でうずくまる壬を見て、あさ美はわなわなと震えだした。

「まさか、あんたって子は──」

「いや、ちょっと待て、誤解だって」

「おだまり! このエロガキ!!」

 あさ美の蹴りが壬にまともに入り、壬は再びうずくまった。

「嫁入り前のうちのお嫁さんになんてことを……」

「だから、違うってっ。つーか、嫁入り前の嫁ってもう意味不明だし!」

 騒ぎを聞きつけて圭までやって来た。

「母さん、どうしたの?」

「どうもこうも、イマちゃんの寝こみを襲うなんて──」

 伊万里の浴衣を整えながらあさ美が壬を睨む。圭が、「えぇっ?」と絶句した。

「壬、そこまで見境がないなんて……」

「圭、そのゴミを見るような目はやめろ。だから、誤解だって! だいたいだなあ──」

 そこまで言って、壬は言葉に詰まる。「下着をつけていないおまえが悪い」なんて言ったら、そこれそ変態確定だ。

「だいたい、そう、先生に無理やり寝かせられたって聞いたけど、どうやって着替えたんだ?」

「え?」

 突然の問いかけに、伊万里があさ美を見る。あさ美がぶんぶんと首を振った。

「私が見に来たときにはもうこの格好だったわよ」

「じゃあ……」

 伊万里が今度は圭を見る。圭も猛烈な勢いで首を振った。

「俺なわけないじゃん!」

「……では、誰が?」

「……」

「……」

「……」

 なんとも言えない微妙な空気が流れた。ややして、あさ美が「そうだ!」と大声を出した。

「イマちゃん、お腹が空いたでしょう? 夕飯にはまだ早いから、スイカでも準備するわね!」

 もう、この案件について考えるのはやめようと言わんばかりだ。壬と圭が「うんうん」あさ美に続いた。

「スイカなら俺も食べたい!」

「俺も!」

 あさ美が二人に大きくうなずき返し、伊万里に笑いかけた。

「じゃあイマちゃん、着替えてらっしゃい」

「……あの、いいんですか?」

「何が?」

「私、食べても」

「もちろんよ」

 あさ美が「何をいまさら」と言わんばかりに笑い返した。そしてあさ美は、壬と圭を追い立てた。

「さあ、あんたたちは部屋から出た出た!」

「叩くなってっ」

「分かったよ」

 二人が慌てた様子で部屋を出ていき、あさ美が伊万里に対し小さくウィンクする。

「あとで、お風呂掃除とお台所、手伝ってね?」

 伊万里はあさ美に頷き返し、笑いながら三人を見送った。


「良かった……、いてもいい」

 伊万里は両手を胸の上でぎゅっと重ねた合わせた。そして、壬の「もう家族みたいなもんだろ」という言葉を思い出した。

 家族って、妹みたいな意味だろうか。

 伊万里の胸がずきんと痛む。しかし、彼女はすぐに頭を左右に振った。

(私は壬を好きになってはいけない)

 伊万里は思った。

 壬に妖刀の呪縛をかけるわけにはいかない。だから自分は、彼に鞘を渡すことも、そもそも好きになることも絶対にしてはいけないのだ。これ以上、彼に迷惑をかけないように。

 今なら、まだ、ただの家族になることができる。ようやく自覚した淡い思いも、今ならきっと消し去ることができる。

「まだ大丈夫。まだ──、大丈夫」

 伊万里は目をつぶり、ひとり呟いた。

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