4)迷える乙女

迷える乙女(1)

 目の前の山童やまわろの言葉に、伊万里は驚いた。

 自身の口元がかすかに震えるのが分かる。

 にわかに返事も出来ない伊万里を信乃は不思議そうに見つめた。しかし、すぐにさっと会釈をすると彼女はそのまま出て行ってしまった。

「あっ、待って──」

 伊万里はとっさに彼女の後を追おうとした。しかし、

(追ってどうする? 何を聞くつもりなの?)

 一瞬、心の中で迷いが生じ、立ち上がりかけた足が止まった。

(でも、)

 もしかしたら何か知っているかもしれない。今どこでどうしているか、分かるかもしれない。

 そう思うと伊万里は居ても立ってもいられなくなった。

 伊万里は部屋を飛び出した。そのまま渡り廊下を進んで母屋の方へ。廊下が三方に分かれた所に来て、伊万里の足が止まった。

(信乃さんは食器を片づけに台所に行ったはず……)

 台所がどこにあるかも分からない。しかし伊万里は、昨夜の歌を思い出し、庭に面する左の廊下へと進んだ。歌が聞こえた方向だ。このまま奥へ奥へと行けば、おそらく拓真の寝所にも辿り着く。ということは、日常的な居住場所はこちらと思っていいだろう。

 足早に廊下を進んでしばし。再び左右に廊下が分かれ、信乃を完全に見失ったと諦めかけた所に、伊万里は拓真と出くわした。拓真はちょうど庭の見える廊下に座り、一人物思いにふけっていた。

「おお、起きたんか」

 伊万里の姿を見つけると、拓真が少し驚いた顔で伊万里を見上げた。

「まだ寝とると聞いたぞ。気分でも悪いのかと思った」

「さっ、先ほど起きましたもので……」

 こんな時間まで寝ているなど、我ながらみっともないことをしていたと、伊万里は恥ずかしくなった。

「朝ごはんは食べたんか」

「はい。あの、それで、信乃さんを見かけませんでしたか?」

「信乃? 信乃がどうした?」

「あ、いえ。大したことでは……」

 伊万里は言葉を濁らせた。母親のことを話すわけにはいかなかった。彼女は、さっと話題を変えた。

「それより、壬と話をされていたのではないのですか?」

「ん、ああ。難しい話は好かん」

 今度は拓真が言葉を濁した。本当は、伊万里のことで亜子に茶化されている壬を見ていられなくなって、部屋を飛び出した。戻る気も失せて、どうしたもんかと庭を眺めていたら思いがけず伊万里に会ってしまっただけだ。

 そんな拓真の気持ちも知らず、伊万里が苦笑した。

「この先、もっと難しい話が出て来ましょうに」

「それは、その時考えるわい」

 拓真がうるさそうに立ち上がる。伊万里が「拓真らしい」とくすくす笑った。伊万里の笑顔を見て、もやもやしていた拓真の気持ちが少しばかり和んだ。

 でも、だめだ。

 拓真は自分の気持ちに釘を刺した。伏見谷から来た二代目九尾を名乗る狐は、思っていた以上に面白い奴だった。そんな彼が大切にしている鬼姫──。

 この気持ちはだめだ。壬との関係を壊してしまう。下手をすると、二人の関係も悪くなる。

「どうされました?」

 急に黙り込む拓真に伊万里が首をかしげた。拓真が「いや、なんでもっ」と言いながら笑った。

「九尾なら、この先の部屋におる。ついでに迎えにいけばいい」

「ああ。そう、ですね…」

 伊万里が曖昧に笑いながら目をそらした。そのどこか沈みがちな彼女の様子が拓真の目に止まる。

 昨日であれば、からかうたびに顔を真っ赤にして言い返してきてたのに。

 彼は気にかかりながら、さらに冗談めかして言った。

「いつものとろとろはどうした? なんじゃ、昨日の夜、拒絶でもされたか」

 ほぼ自虐とも言える質問だ。夜のことを聞いてどうする。顔を赤らめもじもじされても、自分が惨めになるだけだ。それでも、彼は自分のこの思いを断ち切るためにあえて尋ねた。

 しかし、目の前の伊万里が突然蒼白になり下を向いた。予想外の反応に彼は思わずごくりと息を飲んだ。

「ちょっと待て。まさか本当に?」

 拓真は聞き返した。壬が伊万里を拒絶する意味も理由も分からない。ただ、ひどく取り乱した彼女の様子に拓真は心が逆波立った。

「伊万里、」

 その手を伸ばし彼女の肩を捉える。しかし、伊万里はびくりと肩を震わせて拓真の手を振り払うと、そのまま走り去ろうとした。

「待てっちゅうに!」

 とっさに彼女の腕を掴んで引き戻す。はらりと乱れる髪、華奢な肩、その白い首筋に赤黒い痕が見て取れた。

(これは──…)

 明らかにわざと付けられた痕。しかも、すぐには消えない念の入れよう。

 拓真はぎりっと歯ぎしりした。

「自分のもんっちゅうことかい……!」

 唸るように言って拓真は伊万里を引き寄せた。伊万里が戸惑った様子で拓真を睨んだ。

「手を離してください!」

「なんで泣いとる? 九尾となんかあったんか?」

「泣いてなど──」

 言ってるそばから大粒の涙が一つこぼれる。それは、伊万里の頬を伝い、ぽとりと拓真の手の甲に落ちた。刹那、ほぼ衝動的に拓真は伊万里を抱きしめた。

 伊万里が涙で潤んだ目をぎょっとさせ、拓真の胸を押す。

「何を──?」

「泣いていいぞ」

 拓真が伊万里を真っ直ぐに見返した。

「何があったか知らんが、泣きたいときは泣くもんじゃ」

「……」

 伊万里がぐっと言葉を詰まらせた。そして彼女は力なく俯いて両手で顔を覆うと、その小さな肩を震わせた。拓真が伊万里の頭を自身の胸に押し当てる。

 涙の原因が自分ではない誰かで、その誰かを思って伊万里が泣いていることが悔しかった。そして、部外者でしかない自分自身にも腹が立った。

 ほんのわずかでもいい、自分のことを見て欲しい。

 ややして、拓真は両手で優しく伊万里の頬を包むと、そっと顔を持ち上げた。

「なあ、少しは儂を見てくれんか」

「……拓真?」

 にわかに注がれる拓真の熱い眼差しに、ズキッと伊万里の胸が痛む。

 彼女はさっと涙を拭い、両頬に触れる拓真の手を解いた。

「もう大丈夫です」

 伊万里は社交辞令的な笑顔を彼に返しながら頭を下げた。

 気のせいかもしれない、意識しすぎなのかもしれない。しかし、昨日とは明らかに違う拓真の態度に伊万里は戸惑った。

 拓真が寂しそうな笑みを浮かべた。

「他人行儀だの」

「私は谷の者ですので。これ以上、拓真に迷惑をかけるわけにはまいりません」

 伊万里が伏し目がちに答える。その顔を拓真が覗き込んだ。

「もっと儂に甘えてくれと言うとる」

「……し、失礼いたしますっ」

 伊万里は慌てて頭を下げると、さっと踵を返して走り去った。

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