二人の夜(4)

 亜子が少しこの調子を落として言った。

「私の方は、まあ、それでいいんだけれど、実は昨晩この別邸で式神を見つけてね。誰の式か分からないんだけど、おまえさんたちの離れでうろちょろしてた」

 壬が「え?」と驚きの声を上げる。そして彼は、戸惑いぎみに眉根を寄せた。

「なんで……?」

 すると亜門がすかさず答えた。

「そこなんだが、真っ先に思い付くのは妖刀・焔ではないかと」

 そして彼は、ちらりと腰のベルトループに結びつけられた紅い下緒さげおに目をやった。

「昨日から気になっていたんだが、それは無銘の刀だな。立ち入ったことを聞くことになるが、焔は谷に置いて来たのか?」

「……いや、そもそも焔は手元にない」

 壬の言葉に亜門たちが当惑する。壬は少し言いよどんだあと、躊躇ためらいがちに答えた。

「あいつはただの刀じゃないんだ。今はどこにいるかも分からない」

 亜門と亜子が互いに顔を見合わせた。

 そんな彼らに、壬は焔が自分の意思を持ち、刀の形をしたあやかしのような存在であることや、焔を呼び出すことは出来ても自分たちが決して主従関係にある訳ではないことなどを話した。そして、焔は鞘がないと刀として形を維持できないこと、その鞘を伊万里がまだ持っていること、今の状態だと焔を手元に置くことも出来ないことなども伝えた。

 亜門たちは、初めて聞く妖刀・焔の話を興味深く聞いていた。そして、壬の説明がひと通り終わると、亜子が片肘を付いて、ずいっと身を乗り出した。

「なんで伊万里はおまえさんに鞘を差し出さない?」

「俺が……、頼りないから。あいつは俺に焔を持たせたくないんだ」

 壬は気まずそうにぼそりと言って、うつむきぎみに目をそらした。亜子が苦笑する。

「でも、伊万里は壬にべったりじゃないか。おまえさんの言うことなら何でも聞きそうだけどね」

「そっ、それは──、」

 からかい口調で亜子に言われ、壬は居心地悪そうに俯いた。伊万里との仲をからかわれ面映おもはゆいのと、昨夜、喧嘩になってしまったことを言い出せなくなったことで、どんな顔をすればいいか分からなくなったからだ。

 しかし、またまた勘違いしている亜子が面白がってにやにやと目を細める。

「甘~く囁いてみたらどうだい?」

 するとその時、ガタッと拓真が立ち上がった。

「どうした、拓真?」

「難しい話は好かん。ちょっとトイレ」

 ふいっと顔を背け、彼が出ていく。亜子が含みのある目で拓真を見送った。

「ねえ、壬。拓真と何かあったかい?」

「いや、何も……?」

 壬が首を左右に振ると、亜子は「ふーん」と、これまた含み顔で頷いた。しかし、父親の亜門にぎろりと睨まれ、彼女は小さく肩をすくめた。

 亜門が緊張した口調で言った。

「話がそれたな、すまない。とにかく気を付けてほしい。屋敷に結界はしてあるが、式神がどこから入り込んだかも分からない」

「……分かった」

 これも太一郎の独断なのだろうか。あちらに月夜の里が絡んでいると言っていた拓真の言葉も気になった。

「篠平本家には、太一郎を止める奴はもう誰もいないのか。長男の祥真ってのがあれじゃあ……」

「以前は大人しくとも聡明な方だったんだけどね」

 亜子がため息まじりに言った。そしてその瞳の奥に怒りの色を浮かべた。

「たぶん、何かが憑いた。あの変わりようは普通じゃない」

「憑くって、狐にか?」

「……あやかしだって、憑かれるんだよ。おまえさんだって、焔に憑かれているようなもんじゃないか」

 壬が聞き返すと、亜子が鋭い目で見つめ返した。




 壬が出て行ってしばらく経って、伊万里は布団の中からもそもそと這い出てきた。だらしなくはだけた浴衣をきちんと直し、まずは洗面所へ。鏡に映った自分の顔は、みっともなく両目が腫れて、見るに耐えないものだった。昨夜は一晩中、布団の中で泣いては寝て、起きては泣いてを繰り返していた。

(壬が帰ってくる前にきちんと身なりを整えておかないと)

 伊万里は、冷たい水で顔を何度も洗った。

 それから、黄色い小花柄のワンピースに着替えて、用意された朝食を食べる。一人ぼっちで食べる朝食は、沈みきった気持ちも手伝って、何も味がしなかった。半分も食べないところで胸がいっぱいになり箸が止まった。

 どこかで、わがままが押し通ると思っていた。本気で迫れば、壬はきっと自分の言うことを聞いてくれると。

「とんだ、思い上がり。身の程知らずもいいところにございます」

 自嘲気味に一人笑い、伊万里は呟いた。

 壬はもう焔を引き継ぐと決めたのだ。自分が、こんなつまらない抵抗をしたところで、それはもうくつがえらない。しかしそれでも、伊万里は踏ん切りをつけることが出来なかった。

 正直、まだ怖い。思い出すのは、夏祭りで壬が焔を振るって倒れたあの時のことばかり。あれから何度、思い出したことだろう。忘れることなんて出来ない。

 その時、

「失礼します」

 玄関でからからと戸を開ける音がした。信乃だ。

 伊万里は慌てて顔をパチンと叩き、背筋を伸ばして座りなおした。信乃がお盆に小皿を乗せて現れた。

「信乃さん、おはようございます」

 伊万里はいつもの笑顔で挨拶した。信乃が「おはようございます」とぺこりと頭を下げた。

 そして彼女は座卓近くまで歩み寄ると、残された朝食を見た。

「もう、よろしいのですか?」

「残してしまってごめんなさい。朝ごはん、とても美味しかったです」

 伊万里が申し訳なく謝ると、彼女は小さな琥珀色の小さな粒が三つ乗った小皿を差し出した。

「お気分がすぐれないとお聞きしたもので」

「これは?」

山露やまつゆというものです。甘露の一種です。お疲れの時や気分が落ち込んでいる時など、飲めば楽になります」

 琥珀色のそれは、薬と言うより飴玉のようだ。伊万里は促されるまま山露を手に取った。そして、ぱくんと口の中に入れる。口の中に甘くて優しい味が広がった。

「美味しい」

 伊万里がほっと言葉をこぼすと、信乃はにこりと笑った。

 そして彼女は手際よく食事を片付け終え、伊万里に頭を下げた。

「信乃さん、ありがとうございます」

 山露を一粒頬張っただけなのに、不思議と気持ちが楽なった。

 今、ここで全部食べるのはもったいない。

 伊万里は残りの二粒が入った小皿を手に取った。

「これ、後から大切にいただきます」

 言って彼女は笑った。すると、信乃があらためて伊万里の顔をじっと見た。

「あの、何か?」

 なんだろうと伊万里が小首を傾げると、信乃がぽつりと呟いた。

「藤の花の鬼……」

 刹那、伊万里は驚いた顔で信乃を見た。

「今、なんと?」

「ああ、すみません!」

 信乃が慌てて頭を下げる。

「昔、出会った鬼に伊万里さまがとても似ていたもので、つい──」

「……」

 伊万里の胸がどくんと鳴った。


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