二人の夜(3)
伊万里の息が止まった。
心地よい虫の音も、涼しい風も、一瞬で消え失せた。
伊万里はさっと顔色を変え、激しく動揺した様子で俯いた。そんな伊万里に壬が優しく、しかし諭すように言った。
「伊万里、聞いて。このままって訳にはいかないだろ」
「このままでも、私は痛くも痒くもありません」
「そういう問題じゃなくて、」
「じゃあ、どういう問題なのです?!」
震える声を荒げ、伊万里が言った。壬は少し困った顔で彼女を見返した。
まあ、予想通りの反応と言えば、その通りだ。
でも話さないといけない。このまま何もせずに谷に戻ったら、今度は父親から鞘を差し出すよう伊万里は迫られる。そうなれば、谷に彼女の居場所がなくなってしまう。
だからこそ、何としてでも説得しないといけないのだ。
「もう大丈夫。俺は妖刀に負けたりしない」
「そんなこと、どうして言えるのです?」
伊万里が信じられないと壬を見返した。
「持つだけで命が削られるかもしれない。振るう度に寿命が縮まるかもしれない。大怪我の時に使ったら? 今度こそ死んでしまうかもしれないっ」
「伊万里、落ち着いて。かもしれないじゃ、先に進まない」
伊万里が激しく首を左右に振った。もう聞きたくないといった様子だった。あまりに
「全部、ちゃんとしよう。俺は伊万里とずっと一緒にいたいんだ」
「ならば、よいではないですか」
伊万里が吐き捨てるよう呟いた。そして彼女は壬の首に両腕を絡ませ、彼にしなだれかかった。
「鞘などなくとも、私のことだけ好きにすれば」
分かっている。恐ろしく都合のいいことを言っていると。
しかし、月夜の里はおろか、伏見谷からも遠く離れたこの地で、自分を縛るものは何もない。伊万里はそう思った。
九尾も妖刀も、その鞘も。もうどうでもいい。私には関係ない。
ふと、母親の藤花を思い出した。世話役の男と通じ、里を追われた愚かな女。顔さえ知らない私の母親。
(母上も、このような気持ちだったのだろうか……)
だとしたら、血は争えない。所詮、自分も愚かな女だということだ。
はだけた裾から白い足がのぞく。
「壬、好きにして」
もはや誘惑というより、懇願だった。
自分はただ愛されたいだけ。それの一体何が悪い?
「伊万里……」
壬が伊万里をぎゅっと抱き締めた。伊万里もそれに答えるように自身の両腕に力を込めた。
胸が高鳴る。鞘などなくても、私は壬のものになる──。
しかしその時、壬がふっと力を緩め、伊万里を自分の体から離した。拍子抜けする伊万里を壬は優しい眼差しで見つめた。
そして彼は、伊万里の額に再びキスをした。
「伊万里、俺を信じて。おまえを二度と泣かせたりしないから」
「………」
伊万里は壬の言葉を理解するのにしばらくかかった。しかし、自分が拒絶されたのだと理解したとき、全身から力が抜けた。
「私は……」
声が震えた。
「壬が好きなの。大好きなの」
「うん、分かってる」
「嘘、でまかせばかり!!」
言って伊万里は、壬の体を押しのけた。彼の膝からころんと転がり落ち、彼女はそのままずるずると後ろに下がった。
「分かっているなら、どうして私を好きにしてくれないの? 全部、壬にあげるって──!」
そう言いかけて伊万里ははっと言葉を飲んだ。
違う、全部じゃない。私は、一番大事なものを彼に差し出すつもりがない。
壬は、そういう話をしているのだ。
「分かり……ました」
力なく言って、伊万里はふらりと立ち上がった。そして彼女は、部屋の奥にきれいに敷かれた布団に一人とぼとぼ歩いていき、その中にくるんと頭までもぐり込んだ。
壬が彼女に声をかけようと口を開きかけた。しかし、言葉が続かず彼はぐっと口をつぐんだ。
今、何を言っても伊万里に言葉は届かない。
自分の告白も、彼女の思いも、全部壊れてしまった。
話すべきじゃなかったのか。
縁側に残された壬が小さくため息をつき、視線を落とす。
空に浮かぶ月だけが、穏やかに皓々と光っていた。
次の日の朝、十分ゆっくりした時間に信乃が朝食を運んできた。
「ごめん、伊万里はまだ寝てて」
「左様でございますか」
信乃はさして驚くこともなく、淡々とした様子で座卓に二人分の朝食を並べた。しかし、最後にちらりと右奥の部屋の様子を窺った。
壬が決まり悪そうに信乃に言った。
「ちょっと気分が悪いらしくて。少し疲れたのかも。布団もあのままでいいから」
本当は気分が悪いのではなく、機嫌が悪いと言った方が正しい。しかし、そんなことを言う訳にもいかず、壬はひとまず嘘をついた。
信乃が「そうですか」と頷く。そして彼女は、亜子からの
「朝食の後、拓真さまたちが壬さまとお話をされたいそうです。ご案内は私がします」
「分かった」
壬が頷き返すと、信乃はそろそろと部屋を出て行った。
「伊万里、朝ごはんが来たぞ」
壬は右奥の部屋に声をかけた。しかし、何も返って来ない。起きているのか寝ているのか、頭まですっぽり布団をかぶり、髪の毛一本出ていない。壬は彼女の枕元まで行くと、再び声をかけた。
「朝ごはん、食べよう」
「……いりません」
蚊の鳴くような、それでいて怒ったような声が返ってきた。顔も見たくないってところだろうか。
一晩で機嫌が直るとは思っていなかったが、とりつくしまもない。若干の苛立ちを感じながら、それでも壬はとりあえず彼女をそっとしておくことにした。
壬は一人でご飯を食べ、それから身支度を整えた。歯磨きも終わり、やることもなくなった頃、信乃が迎えに来た。
信乃が、伊万里のきれいなままの膳を見る。
「ごめん。悪いけど、食べるかもしれないからこのままにしておいて」
「分かりました。壬さまの分だけ片付けます。とりあえず、皆さまがお待ちですのでご案内いたします」
壬は信乃に頷き返すと、右奥の部屋に向かって「ちょっと亜子さんところ行ってくるから」と声をかけ、離れをあとにした。
信乃に案内され連れて行かれたところは、昨日の大広間よりもこじんまりとした部屋だった。中央の座卓も使い慣れて古びた感じがし、部屋の隅には水屋
そして、そこに拓真と亜門、そして亜子が待ち構えていた。
「おや、伊万里はどうしたんだい?」
一人で現れた壬を見て亜子が言った。壬は空いている席に座りながら答えた。
「まだ寝てる」
「あらま、姫さまが」
亜子がちらりと時計を確認しつつ茶化すような目で壬を見る。
「昨夜は、寝不足かい?」
「違うし」
むすっと不機嫌に壬は顔をしかめた。実際、まともに寝てはいなかったが、亜子が思っているような寝不足とは違う。そんなことは露ほど知らない亜子が、やはり茶化すように肩をすくめると、壬はいよいよ不機嫌な顔になった。
「怒るなって、悪かったよ」
さすがに茶化し過ぎたかなと、心の中で反省しつつ亜子は隣の拓真に目をやった。てっきり一緒に面白がって笑っていると思ったからだ。
しかし、なぜか彼までむすっとしている。
(なんで、おまえさんまで?)
意味が分からず亜子は戸惑った。しかし、すぐに気持ちを切り替えて本題に入ることにした。
「壬。今日、私は伏見谷へ行ってこようと思う」
「……俺が事前に父親に連絡したりは?」
「必要ない。もともと、無礼な上に無茶ぶりをしているのはこっちだからね。私の本気を茶番も交えて見せてくるさ」
亜子が笑って答える。そして彼女は「で、」と、あらたまった顔で壬を見た。
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