迷える乙女(2)

 彼女の後姿を見送りながら拓真は小さく息をついた。

 伊万里は完全に動揺していた。

 彼女の涙に触発されて、自分の気持ちを態度と言葉にはっきりと出してしまった。たぶん、きっと、彼女は気づいた。

 その時、

「なんだ、こんなところで。話が終わったぞ」

 拓真が振り返ると、そこに壬が立っていた。

「今、誰かと話してた?」

 廊下の奥に目をやりながら、壬がいつもと変わらない様子で尋ねた。今の今まで伊万里の泣く姿を見ていた拓真は壬のそんな様子にイラッとした。

 彼は自分の心を抑えながら彼に答えた。

「伊万里と話しとった」

「伊万里と? あいつ、起きたんだな」

「ああ、部屋に戻った」

「そうか」

 にわかに壬が気早に動き出す。その彼女を気にかけている様子さえ、何を今さらと思ってしまう。


「泣いておったぞ」


 すれ違いざま、拓真が吐き捨てるように言った。

 壬が立ち止り振り返る。拓真は鋭く壬を見返した。

「あんな、おまえしか見とらん奴をどうやったら泣かせられるんじゃ」

「さっき話しをしただろ。伊万里が鞘を持ち続けているって。その焔の鞘のことで言い争いになっただけだ」

「だけ?」

 拓真が皮肉げな笑みを浮かべた。

「……鞘を差し出したら、愛してやるとでも言うたんかい」

 壬が目を見開いて拓真を睨んだ。

 一方的に責め立てる物言いと少なからず核心を突いてくる言葉に、壬はカッと頭に血が上り、彼の胸ぐらを掴んだ。

「何も知らないくせに──。だいたい、おまえには関係ない」

「いいや、ある」

 拓真が言った。そして彼は、壬を真っ直ぐに見据えた。

「伊万里に惚れた。大事にできんのなら、儂がもらう」

「なっ──。おまえ、自分は一目惚れはしないって」

「一目惚れじゃないわ。二目惚れってやつじゃ」

 そう答え、拓真が乱暴に壬の腕を振り払った。

「見損なったわい。伊万里をモノみたいに扱いよって」

「誰がモノみたいに扱ってるって──!」


「そこまで!!」


 二人が振り返ると、亜子が仁王立ちしてこちらを睨んでいた。


 亜子はつかつかと二人に歩み寄ると、いきなり拳骨げんこつ二発を容赦なく繰り出した。

「丸聞こえのこんな場所でみっともないことしてんじゃないよっ」

「なんじゃっ、いきなり殴んな!」

 涙目で頭を押さえる拓真が亜子を睨む。壬もむすっと頭を押さえた。そんな二人を亜子は威圧感満載の目で睨み返した。

「拓真、これは壬と伊万里の問題だ。関係ないもんが口を出すんじゃない。そして壬、女を泣かせるな。話がややこしくなるだけだ。ちゃんと伊万里と向き合いな」

「俺はちゃんと向き合って──」

「本当に?」

 亜子が壬の心の奥を射抜くような視線を返す。

「本音も含めて話したのかい? 言い争いになったっていうその話し合いは、伊万里のため? それとも自分のため?」

「それは……」

 にわかに壬は言葉に詰まった。

 もちろん伊万里のため。でも、本当に?

 都合の悪いことは彼女に話さず、押し通そうとしている自分がいる。

 壬はふいっと亜子から顔を背けた。痛い所を突かれ、言い返せない自分がいる。そして彼はそのまま何も言わずにその場を立ち去った。

 

 壬がいなくなったところで、亜子がやれやれと息をつく。そして、隣で同じく憮然としている拓真をちらりと見た。

「……あんたも、横恋慕なんて感心しないね」

「泣いとったんじゃ。あんな可愛い顔で笑う奴が」

 苛立ちを隠しきれない様子で拓真が呟いた。亜子が「だとしても」と切り返す。

「その笑顔は、壬に向いているものだろう?」

 拓真がさらに憮然とした顔をする。亜子はまいったなと大きなため息を漏らした。この展開は予想外だ。しかも、分が悪い。

(とは言え──、)

 心は誰にも縛れない。

 彼女は苦笑しながら拓真の頭を軽く叩いた。

「ま、惚れちまったものはしょうがない。当たって砕けてきな」

「砕けること前提かい」

 拓真がぼやくと亜子は声を上げて笑った。




 むかむかとした気持ちのまま壬が部屋に戻ると、朝食もすっかり片付けられていた。伊万里はきれいになった座卓に片手をついて座り込んでいて、小さな飴玉が一粒乗った小皿が目の前に置かれていた。明らかに動揺しているその横顔は、拓真とのやり取りを否応なしに想像させ、それが壬の気持ちを余計に逆立てた。

 しかし、今ここでこの怒りを伊万里にぶつけてはいけない。壬は、大きく深呼吸をして気持ちを整えると、彼女に声をかけた。

「伊万里、ごはん食べれた? その飴玉みたいなの、おやつ?」

 伊万里がはっと顔を上げる。そして彼女は、そのまま壬に向き直ると、両手を床について深々と頭を下げた。

「申し訳ございません」

 伊万里が強張った声で言った。

「昨日の夜から、身の程もわきまえず見苦しい真似を続けてしまい──。お許しくださいませ」

 壬はひれ伏す伊万里の前に座った。

「伊万里、顔を上げて」

「……」

 壬に言われて伊万里はおそるおそる顔を上げた。しかし、壬と目を合わせることができず、やり場に困り畳の目を見るしかない。

 すると壬が「おいで」と両手を広げた。

 大好きな壬の腕。でも、もう無条件には飛び込めない。

 それで伊万里がためらっていると、壬が間を詰め、彼女を抱きしめた。

「泣いていたって、拓真から聞いた」

「あ、いえ……」

 伊万里は戸惑い気味に俯いた。拓真が壬に余計なことを言ったのではないかと気になった。しかし、それを壬に尋ねて確かめるわけにもいかない。

「伊万里、怒ってないから」

 身を固くして黙り続ける伊万里の額に壬が優しくキスをする。昨日まで面映ゆかった額のキス。今は素直に喜べない。

 壬は優しい。私を大切にしてくれる。

 でも、それだけだ。

 伊万里は思った。

 額にキスはしてくれても、口づけはしてくれない。

 甘く「好きだ」と耳元で囁いてくれても、そのいとおしい声で「鞘」のことを口にする。

 彼は、焔の鞘を持つ贄姫を大切にしているだけ。

 そう思うと、ぐっと気持ちが沈んだ。それに加え、母親の存在をほのめかすような信乃の発言や、拓真の思わせぶりな態度も相まって、伊万里の頭の中は今だかつてないほど混乱していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る