迷える乙女(3)

 もう、頭の中がくちゃくちゃだ。

 伊万里は思った。

 部屋に戻った時に、信乃からもらった山露やまつゆをもう一粒頬張って気持ちを紛らわしたが、この乱れた心の内はそう簡単に休まらなかった。

 その時、ふいに玄関がからからと開く音がして、「ちょっといいかい?」と亜子が入ってきた。

「まだ、何か?」

 壬は慌てて伊万里を抱き締める腕を弛めた。伊万里もはっと顔を上げ彼の横にきちんと座り直す。しかし、壬から完全に離れてしまうことが躊躇ためらわれ、彼女は彼のシャツの袖をぎゅっと握りしめた。

「ちょっと伊万里の様子を見に──……、大丈夫?」

 伊万里の顔を見るなり、亜子が心配そうに彼女の顔を覗きこんだ。昨日までの活き活きとした表情は消え、その目はまるで別人のように疲れ切っていた。何より、壬のシャツの袖を握り、彼から離れようとしない。

(こりゃ、思っていた以上に依存度が高いな)

 亜子は面倒臭そうに頭を掻いた。

 昨日は、壬を一途に慕う聡明な姫だった。それが、今日は壬がいないと生きていけない子供のようだ。昨晩、壬と喧嘩したことで心が乱れたからか、知らない土地に来て気持ちが弛んだからか、それともまだ何か──。

 どちらにせよ、良くも悪くも壬にべったりだ。

(次郎から普段の大人びた立振舞たちふるまいとは裏腹に、かなりの甘えん坊だとは聞いていたけれど……)

 亜子はつかつかと歩み寄り、伊万里の前にひざまずいた。

「伊万里、おまえさんは今日は私の部屋で寝泊まりだ」

「え? でも……」

「女同士、少し話そう。まだ少し時間がある」

 戸惑う伊万里に亜子が優しく笑った。そしてパンッと派手に手を鳴らした。

「さあ、そうと決まればさっさとしな。ほら、自分の荷物をまとめておいで」

 半ば強引に亜子に言われ、伊万里は戸惑いながらも荷物のある玄関前の部屋に行った。伊万里が部屋からいなくなったのを確認すると、亜子は壬の肩に手を置き、彼の耳元で囁いた。

「少し預かるよ。鞘のこと、私から伊万里に話してみるから」

 壬が少しほっと息をつく。

「亜子さん、ごめん。ちょっと、俺じゃ話が出来ない感じで」

「見たら分かるよ。男の愚痴と恋バナは、女の専売特許だからね」

 言って亜子は彼の肩を軽く叩くと、心配するなと笑った。


 それから伊万里は、亜子に連れられて彼女の部屋へ向かった。

「大体のことは壬から聞いたよ」

 亜子が廊下を歩きながら言った。ここで言う「大体のこと」とは「鞘で伊万里と言い争いになった」ということだ。しかし、伊万里の口から予想もしていない言葉が飛び出した。

「大体……とは、壬が私を拒絶したことですか?」

 刹那、亜子がぶほっとむせ返った。そして、驚いた様子で伊万里を見る。

「おまえさん、壬に迫ったのかい?」

 伊万里がむすっと頬を膨らませ、眉根を寄せて泣き顔になる。亜子は慌てて伊万里をなだめた。

「ここで泣くんじゃない。続きは部屋でじっくり聞くから──って、時間がないな、ちくしょう」

「……もう、抱く価値ないって言われたようなもんです……」

「だから、部屋まで待てって!」


 亜子の部屋は、拓真の寝所とは反対側の北側にある。奥まった廊下を通り、突き当りの部屋に到着すると、亜子は襖を開けた。

「自慢の庭は見えないけどね、ゆっくり出来ると思うよ」

 北向きの部屋なので、中は決して明るくない。昼間ではあるが、亜子は部屋の明かりを点けた。

 こじんまりとした八畳の部屋は、亜子らしくシンプルだ。窓際の小洒落た机にはパソコンと本が乱雑に置かれ、部屋の真ん中にある年代物の古いちゃぶ台はその存在を嫌というほど主張している。そして、窓から外を覗くと、小さな灯篭と石鉢を竹垣で囲んだ亜子専用の苔むした中庭があった。

 今と昔をごちゃまぜにした生活感あふれる空間ではあるが、それが伊万里には返ってほっとした。

「さあ、こっちにお座り」

 亜子に促され、伊万里はちゃぶ台の前に座った。


 亜子は伊万里を座らせると、「ちょっと待ってて」と部屋から出て行った。ほどなくして戻ってきた彼女は、うどんが入ったどんぶりを二つ運んできた。

「ちょっと早いけど、お昼にしよう。食べられるかい?」

 亜子が、手際よくどんぶりと箸、そして水を伊万里の前に並べた。出汁だしのいい匂いが、朝食をまともに食べていない伊万里の胃を刺激する。

「ありがとうございます。おいしそう」

「昨日からいろいろ疲れただろう。まずは消化の良いうどんでも食べて元気をつけなきゃ」

 亜子と向かい合わせに座り、伊万里はうどんを一気に食べた。お腹が空いていたのだとあらためて思う。そして何より、亜子と言う存在が伊万里の気持ちを落ち着かせた。

 この安心感は総次郎に似ている。

 出汁まで飲み干して、伊万里は両手を合わせた。亜子が満足そうに笑った。

「食べる元気があるのなら、まだ大丈夫だね」

 言って彼女はどんぶりを脇のお盆に片づけ、あらためて伊万里と向かい合った。

「さて、おまえさんに抱く価値があるかないかって話だけどね、」

 亜子が、どこから話を始めたものかと頭を捻った。

「焔の鞘のことで言い争いになったって聞いたよ? それが何がどうして、そういう話になるんだい?」

「……鞘を渡してほしい、一緒にいたいと、壬にそう言われたので、それならば私だけ好きにすればいいと言ったのです」

「で、拒絶された。と?」

 伊万里がこくりと頷き、再び泣きそうな顔になる。亜子が顔を引きつらせながら笑った。

「またそりゃ……、好き放題言ったもんだ。話の論点がズレてしまっていること分かってる?」 

 伊万里が頭をふるふると横に振った。

「壬は私が好きなのではありません、鞘が好きなんです。」

 半ばやけっぱちに涙声で訴える伊万里に亜子が片手で頭を押さる。

 このパターンは、あれだ。「仕事と私のどっちが大事なの?!」という、そもそも比較対象にならないもの同士を比べて怒っているやつだ。

 亜子の人生経験上、この手の問い詰めにほとんどの男は引く。

「……おまえさん、けっこう面倒くさい女だね」

「どうせ私は、厄介で煩わしいドン引き女ですっ」

「なんだ、分かっているじゃないか」

 刹那、伊万里がわっとちゃぶ台に突っ伏し、本格的に泣き出した。しまった、と亜子は顔をしかめたがもう遅い。亜子はやれやれと頭を掻きながら、大きなため息をついた。

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