迷える乙女(4)

 それからしばらく、伊万里はぐずぐずと泣き続けた。ひと通り泣き終えた頃に、ようやく亜子が「ほら、拭いて」とティシュ箱を差し出した。

「伊万里、」

 少し落ち着いた伊万里の表情を確認しながら亜子がやんわりと口を開いた。

「どうしてそんなに鞘を渡し渋っているんだい?」

ほむらを持たせたくありません。壬が死んでしまう」

「何度か振るったんだろ? 死んでないじゃないか」

「今度こそ死ぬかもしれないものっ」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭き、伊万里が言い返す。

 亜子は困った。正直、会話になっていない。彼女は子供に言い聞かせるように伊万里に言った。

「誰しも明日しれないんだよ? そんな分からない未来のことを言い続けてたらキリがないじゃないか。そもそも、伊万里は二代目に妖刀の鞘を渡すために谷に嫁いできたんだろ? それを拒否しているなんて……、それじゃあ壬と一緒になれないよ」

「かまいません……」

 伊万里がすんっと鼻を鳴らしながら答えた。

 しかし亜子は片眉を上げて、懐疑的な目で伊万里を見た。

「かまわないって──。じゃあ伊万里は、壬が他の誰かと一緒になっても、それを側で見続ける覚悟があるってことだね?」

「そ、それは──…」

 にわかに伊万里がぐっと言葉に詰まる。そんな彼女に亜子は容赦なく言葉を続けた。

「まさか、一生独り身でいるおまえさんに義理立てして、壬は誰とも一緒にならないとでも思っているのかい? 馬鹿言っちゃいけないよ」

「……」

 亜子の厳しい言葉が突き刺さり、伊万里は言い返すことも出来ずに俯いた。壬が他の誰かと一緒になるなんて、想像もしていなかった。鞘を差し出さない限り、自分は壬と一緒になれない。でも、この中途半端な状態が永遠に続くと、何の根拠もなしに漠然と思っていた。

 亜子が伊万里の顔を覗き込む。

「伊万里、私はおまえさんにそれが出来るとは思えないけどね。今の顔を誰かに見せてやりたいよ。相手の女を呪い殺しそうだ」

 伊万里は亜子からバッと顔をそらした。恥ずかしさと悔しさで再び涙が溢れそうになる。彼女は膝の上で両手を握りしめ、ぐっと涙を堪えた。

 しばしの沈黙。ややして、向かい合って座っていた亜子が伊万里の隣に膝をついて寄ってきた。そして、彼女は優しく伊万里の肩を抱く。

「壬は、そういう話をしているんだ。一緒にいたいって言われたんだろう? 壬の言葉、ちゃんと聞いたのかい?」

 伊万里は黙り込んだまま、目をあちらこちらに泳がせた。ややして、彼女は遠慮がちに口を開いた。

「……亜子さまは、その──、目の前で、次郎さまが死にかけたようなことは……ないのですか」

「そりゃ、あるさ。お互い長いからね。私も死にかけたことがある。それでも、次郎は私を好きにさせてくれるし、私もあいつには好きなようにしてほしい」

「不安になったり……しないのですか?」

「ならないって言ったら嘘になる。危険なことにもよく首を突っ込むからね。だからその分、いっぱい愛してもらうんだよ」

 亜子が冗談めかして口の端を上げる。伊万里は恥ずかしそうに顔を少し赤らめた。亜子がそんな伊万里の頭の角をぴんっと指で弾いた。

「伊万里。おまえさんは、もう少し壬離れしないとね。危険な妖刀を壬に持たせたくないっていう気持ちも分かるけど、壬はもう決めたんだろう? だったら、おまえさんがすることは、自分の不安をぶつけることじゃない。壬の意思を認めてあげることだ。世の中、壬しかいないような顔をするんじゃないよ」

「……でもだって」

 伊万里が独り言のようにポツリと答える。

「私には壬しか……いないもの」

「おや、拓真だっているじゃないか」

 亜子がすかさず言い返す。ふいに出てきた「拓真」という名前に伊万里は目を白黒させた。亜子がにやにやと笑った。

「ふーん、その様子だと拓真に何か言われた?」

「な、ななな何もっ、言われては──…」

「あん?」

 亜子が全く納得していない目で伊万里をじぃっと見つめる。伊万里は亜子から目をそらしつつ首を大きく捻った。

「いや──、ただ……、儂を見てくれと、甘えてくれと……」

 亜子の圧に負け、伊万里がたどたどしく答える。刹那、亜子が両手で顔を覆ってのけぞった。

「やだよっ、はっずい! いいねえっ、初々しくて。聞いてて身悶みもだえするよ!」

「しっ、しなくていいです!!」

「そうか、そうか。それで、あの喧嘩か。こりゃ、面白くなってきた」

 膝を叩いて喜ぶ亜子に、伊万里が顔を真っ赤にする。

「面白がらないでくださいっ。迷惑ですっ」

「なんでさ?」

「なんでも何も、私は二代目様の──」

「関係ないだろ?」

 伊万里の言葉に被せるように亜子がさらりと言った。思いもよらない言葉に伊万里は眉根を寄せる。亜子がさも当然のような顔を返した。

「だって、ただの三百年前の約束で呪詛じゅそでもなんでもないんだから」

「でも、それが私の役目で──」

「違うね」

 そして、亜子は指を二本立てた。

「伊万里、おまえさんがすることはただ二つ。鞘を壬に渡すこと。そして、お互いの関係をまっさらな状態に戻すこと」

「言っている意味が……、よく分かりません」

 強ばった表情で伊万里が亜子を見つめる。亜子はそんな伊万里に優しい眼差しを返した。

 用意された九尾とその花嫁といううつわ。そこに壬と伊万里が納まったのは、言われたからか、自分の意思か。お互いに相手を慕い思うほど、何が本当なのか分からなくなっている。

 本当を知りたければ、一度は与えられ手に入れたものを離さないといけない。

 たぶん壬もどこかで分かっている。分かっているからこそ、盲目的に自分を慕う伊万里に言い出すことが出来ないでいる。

(でも、それじゃあダメだろ。ねえ、壬)

 心の中で思いつつ、亜子は伊万里に言った。

「鞘さえ渡せばおまえさんは自由だ。なんのしがらみもなく、ただ純粋に壬を好きだと言うことも出来るし、もしかしたら──、拓真っていう別の景色も見えるかもしれないよ」

 壬には申し訳ないが、少しだけ拓真の肩を持つ。身内のよしみだ。

「壬もいいけど、拓真もおススメだよ。バカだけど、小さい頃から私がみっちり仕込んだ男だからね。かなりの優良物件だ」

 言って亜子はにっと笑った。

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