5)藤の深山

藤の深山(1)

 午後、伊万里は亜子の部屋で一人ゆっくり過ごした。

 亜子が谷へ向かうことを聞かされた時は、不安と寂しさであからさまに嫌な顔をしてしまい、「次郎から聞いていた通り、甘えん坊だね」と彼女に苦笑された。

 ひとしきり泣いて、亜子と話して、気持ちがかなりすっきりした。壬との二人きりの旅で、自分は少し舞い上がっていたように思う。一人になって、伊万里はあらためて亜子に言われたことをあれこれと考えた。

 まずショックだったのは、「自分の不安を壬にぶつけている」と指摘されたこと。思えば、似たようなことを木戸にも言われたことがあった。

 土蜘蛛つちぐも退治で有無を言わせず壬を退かせようとした時だ。壬には危険だと判断し、退くことを強要した。

(あの時と同じ。壬には無理だとが思い、持たせたくないとが望んでいる)

 全ては自分の気持ちであり、壬の気持ちを何一つ考えていない自分がいた。そのくせ、自分ばかり欲しがった。

 両手で頬をぱちんと叩く。わがままな自分の心に喝を入れる。

 強くありたい。不安をぶつけてしまわないように。前に進もうとする彼の足を引っ張らないように。

 

 気が付くと、もう夕方の四時近くになっていた。北側の部屋なので、日の傾きが分かりにくい。今夜は、拓真にいろいろ任せていくと亜子に言われた。夕食も拓真と一緒だ。離れに戻れないのは寂しかったが、亜子の「壬離れしろ」という言葉に伊万里はしぶしぶその条件を受け入れた。その采配に亜子のいたずら心と身内びいきがほんの少し入っていることに、伊万里は気づいていない。

 すると部屋の外で声がした。

「伊万里! 柚子餅を食べんか?」

 襖を開けると、柚子色の和菓子を持った拓真が立っていた。

「入るぞ」

「あっ、ちょっと、拓真──!」

 こちらの答えを聞く前にずかずかと入って来る。伊万里は戸口に立って、ちゃぶ台に座る拓真を睨んだ。拓真が不思議そうな顔をする。

「どうした? 座れ」

「男の方を部屋に入れるわけにはまいりません」

「なんもせんわい。儂が亜子に殺されるわ」

「そうではなくて……」

 拓真と部屋で二人きりなんて、壬に怒られそうだ。

 すると、そんな伊万里の気持ちを察したのか、拓真が呆れた口調で言った。

「九尾は本当におまえを縛っとるのう。一つや二つ、秘密があってもバチは当たらん」

「秘密……ですか」

「そうじゃ。九尾と離れろって亜子に言われたんだろう? もっと自由になれ」

 その言葉に伊万里はむうっと口を尖らせる。何かにつけて、「壬離れ」を盾に物を言われているようで少し納得がいかない。

 しかし、反論もできず、伊万里は仕方なく拓真の向かいに座った。柚子色の求肥ぎゅうひに柚子風味の餡が入った和菓子を一つ摘まんで口にする。口の中に柚子のいい香りが広がった。

「どうだ、うまいだろう?」

「おいしいです。壬にも食べさせてあげたい」

 嬉しそうに頬張りながら伊万里が答えると、拓真が「また九尾かい」とため息をついた。

「ま、分かっているけどな。頭の中が九尾で出来とるの。あいつ以外の悩みはないんか」

「しっ、失礼ですね。あります」

 拓真が疑わしげに伊万里を見る。そんな彼に言い返そうと考えを巡らせた彼女は、ふと母親のことを思い出した。

 山童やまわろの信乃が出会ったという藤の花の鬼。そして、昨夜聞いた鬼姫の歌。確か、『藤の花咲く山間やまあい』と歌っていた。

 伊万里は拓真に尋ねた。

「拓真、この篠平に藤の咲く場所はありますか?」

「なんだ、急に?」

「ないですか?」

 伊万里に押され気味になりながらも、拓真がすぐに「あるぞ」と答えた。

「篠平から北西に向かった山奥に深入ふかいりという所がある。山奥過ぎて人間も立ち入らんが、山藤の名所だ」

「山奥……、ここから遠いのですか?」

「まあ、そうだな。……見てみるか?」

 言うが早いか、拓真は突然立ち上がった。そして彼は伊万里の手を取った。突然、手を握られて驚く伊万里を強引に立たせ、そのまま手を引っ張って部屋を出て歩き出す。

 戸惑い気味に伊万里が言った。

「今から深入ふかいりという場所に行くのですか?」

「いや、ひとまず庭から見ることができる」

 振り返って拓真が答える。彼はそのまま廊下をずんずんと進んだ。しばらく歩いて、大きな部屋に突き当たる。彼は、その部屋の襖を開けた。

「儂の部屋じゃ」

 十畳以上ある部屋は書院造の純和風だ。そこに机や本棚、クローゼットなどが場違いに置かれてある。本来なら掛け軸の一つでも掛かっているであろう床の間にはリュックサックと紅い鞘に黒い下緒さげおが巻かれた刀が一緒くたに置かれ、風情のある違い棚には読みかけの本やプリント類が散乱し、ただの収納スペースと化していた。そして、中央にあるテレビの前の座椅子とゲーム機は壬の部屋とどこか似ていて、伊万里は思わず笑ってしまった。

 その部屋を横切って庭に面した障子を拓真が開けた。少し傾き始めた柔らかな陽に照らされた庭が目の前に広がった。昨夜、拓真と出会った場所だ。

「つっかけ、あるかな……」

 拓真が踏み石の辺りを見回して、履き物を二足準備した。伊万里の手は、ここぞとばかりに離さない。

 それから二人は庭に出ると、すぐに拓真が北西の方を指した。

「今は時期じゃないから分かりにくいかもしれんが、あの山と山が重なった奥じゃ。花の時期になると、あそこら辺一帯が藤色になる」

「そう、ですか……」

 伊万里はじっと指し示された深入ふかいりを見つめた。

 もしかしたら、あの場所に行けば何か分かるのかもしれない。

「あの場所には、誰も住んでいないのですか?」

が住みついているというのなら分かるが、が住んでいるような場所じゃないぞ」

 拓真が言った。そして彼は、探るような目を伊万里に向けた。

「……昨日も歌がどうとか、妙なことを言っておったな。何を知りたい?」

「……」

 途端に伊万里が押し黙る。拓真は不満げに彼女を睨んだ。

「こちらに答えさせてばかりっちゅうのは、ちょっと卑怯なんじゃないか?」

 それでも伊万里は答えない。すると、拓真は意地悪く口の端を歪めた。

「九尾はこのことを知っておるんか? おまえが答えんのなら、あいつに聞いてもいいんだがの」

「それは──、」

 伊万里がさっと表情を強張らせる。拓真がにやりと笑った。

「あいつには言わん。儂と伊万里の秘密じゃ」

 拓真の「秘密」という言葉に、気持ちがそわそわした。別に、壬に隠す必要もない。ただ、なんとなく、誰にも知られずに母親のことを知りたかった。できれば、拓真にも蚊帳の外にいて欲しい。しかし、何も分からないこの土地でそれは無理だ。

 ややして、伊万里は躊躇ためらいがちにぼそっと拓真に答えた。

「……母親のことを、知りたくて」

「里を追われたっていう?」

 伊万里はこくりと頷き返した。拓真が不審な顔をする。

「篠平と関わりはないだろう? いきなり探し回りだしているのは何でじゃ?」

「歌が、母親のことを歌った歌が昨日の夜、聞こえたのです。『藤の花咲く山間やまあいで、藤の名が付く鬼姫が泣いている』と。それに、信乃さんが私に似た鬼に出会ったことがあると……」

「信乃が? それが、伊万里の母親だと?」

「私の母親の名は藤花とうか、まさに藤の名が付く鬼姫にございます」

 拓真が少し考え込む。ややして、彼は口を開いた。

深入ふかいりに鬼が住んでいたら、さすがに分かる。雑蟲ぞうこの類いが住み着いているのとは訳が違う」

「そう、ですよね……」

「行ってみたいか?」

 落胆する伊万里に拓真が尋ねた。彼女はぱっと顔を上げた。

「案内してくださるのですか?」

「おまえが行きたいのなら。どうせ、晩飯まで時間もあるし」

「行きたい……、行きたいです」

 伊万里が拓真の袖を掴んで訴えた。彼は、その彼女の手を握り返すと「いいぞ」と満足そうに笑った。

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