藤の深山(2)

 拓真に連れられて伊万里は深入ふかいりに向かった。拓真が「こちらの方が早い」と狐の姿になり、彼女はその背に乗せてもらった。

 拓真の髪の色と同じ渋い赤色の毛に、わき腹から尾にかけて黒い筋が入っている。思えば、壬以外の誰かの背に乗るのは初めてだった。拓真は伊万里を乗せて軽やかに山道を駆けていく。みるみるうちに別邸は小さくなって見えなくなった。

 ふと、別邸に残してきた壬のことが気になった。今ごろ何をしているだろう。拓真と二人で出かけたことを知ったら怒るだろうか。

 ちょっと軽率だったかなと胸の奥がチクンとした。しかし、それでも母親の足跡そくせきを探しに行かずにはいられなかった。

(母上に会って、私はどうしようというのか)

 先のことは何も考えていない。実際、恨みごとを言いたいかといえば、案外そうは思わない。母親に対して抱いてきた自分のこれまでの気持ちを考えると、今になって恨めしい気持ちが湧いてこないのは自分自身不思議だった。

 道すがら、拓真が伊万里に話をした。

「信乃はもともと親父おやじの身の回りを世話していた。山で弱っているのを親父が拾ってきてな。儂が二、三歳の頃のだったと思うから、かれこれ十六、七年前になるかな」

「十六、七年前……」

 自分の年とほぼ重なる。つまりは、母親が里を追われた頃だ。同時に、拓真は自分や壬より一つ二つ年上なのだと思った。

「それまでは山の中で住んでいたらしいから、もし信乃の話が本当なら、その時に会ったのかもしれんの」

「どうして、信乃さんは別邸に来たのですか?」

「親父が病気で亡くなった時、太一郎に酷い折檻せっかんを受けていてな。死にかけていたところを儂と亜子が連れて帰ってきた」

「そんなことが……」

「もう少しで着くぞ」

 伊万里を乗せた赤毛の狐が、最後の険しい坂道を登っていく。なるほど、これは人間が入って来れないというのも頷ける。

 岩場の多いごつごつした坂を登りさらに進むと、開けた場所に出た。雑木がぐるりと周囲に立ち並び、その多くが幹に小枝のようなごつっとしたつるを巻き付けている。今は十月も終わり、山藤は寄生した木と一体となってその蔓を伸ばし、大きな豆の実を垂らしていた。

 伊万里は拓真の背から降りると、周囲を見回した。拓真もすっと人の姿に戻り、彼女の傍らに並んだ。ジーンズの腰には黒い下緒をくくり付け、いつでも刀が手に取れるようにしている。念のためと拓真が身につけてきた。

「花の季節なら良かったんだがの」

「いいえ、これはこれで趣があります」

 山藤の名所は高台のような場所だった。三方が切り立つ崖になっており、篠平の里が眼窩がんか遠くに見えていた。日が陰り、薄暗くなった藤の名所は、どちらかと言えばうら寂しい。色づき始めた木々の葉とその実を眺め、伊万里は大きな豆の形をした山藤の実を一つ手折たおった。

 当然と言えば当然だが、何もない。

 伊万里はがっかりした気持ちと、ほっとした気持ちがないまぜになったような何とも言えない気分になった。

「どこかに小屋の一つあるわけでもなし、やはり誰かが住むような場所ではないな」

 そこへダメ押しのような拓真の言葉。伊万里も「そうですね」と苦笑した。

「もしかしたら、ここに来たことがあるのかも」

「だとしたら、花の季節だな」

「ええ、そうかもしれません」

 手の中の山藤の実に伊万里は目を細めた。

「綺麗な花がつくんでしょうね。一度、見てみたい」

「だったら、」

 刹那、拓真が背後から手を回し、伊万里を抱き締めた。

「このまま帰らんとけばええ」

 少し緊張した声が、甘やかな響きで伊万里の耳に届く。突然背後から抱き締められ、彼女の胸は跳ね上がった。

「昨日のカチッとしたワンピースも似合っておったが、今日の花柄のワンピースも可愛いの」

「あ、いえ……」

 返答に困り、伊万里はとりあえず言葉短く答えた。

 正直、可愛いと褒められて悪い気はしなかった。しかし、そんな自分自身に居心地の悪さを感じる。

 いっそ、拓真の何もかもに嫌悪感を抱けたらもっと対処しやすいのに。

 拓真が伊万里の耳元で囁いた。

「ここなら盟約に縛られることもない。儂なら伊万里を泣かせたりせん」

 拓真の気持ちが、伊万里の心の隙間に直接入ってくる。胸がぎゅっと締め付けられて痛い。

 でもこれは、壬とは違う胸の痛みだ。

 伊万里は戸惑い気味に身を固くした。

「……お離しくださいませ」

「いつも九尾には、こうやって好きにさせておるのだろう?」

 言って彼は、伊万里の首筋を見た。午前中に見た痕は、少し薄くはなったものの、まだはっきりと残っている。

「ご勘弁ください、拓真

 拓真の腕がぴくりと動く。彼はため息まじりに呟いた。

「他人行儀だの。さまはいらんと言うておるのに、ここであえて付けるんか」

 腕の中、伊万里がさらに身を固くする。それでも彼女を離す気にはなれなくて、拓真は抱きしめる手に力を込めた。

 その時、

「ほほう、今度は次男坊をたらし込んだのか?」

 しわがれた甲高い声。伊万里と拓真が振り向くと、そこに西郷太一郎が立っていた。

「太一郎──!」

 拓真が目を見開いて太一郎を睨み、伊万里を背中に隠した。太一郎はいやらしく目を細めて笑った。

「この様なところで人目を忍んで逢引あいびきとは。九尾に随分と可愛がられているというのに……、このことが知れたら九尾はどう思うかな?」

 拓真の後ろで伊万里が肩を小さくすぼめて俯く。拓真が彼女を気遣いながら、ふんっと鼻を鳴らした。

「儂が無理やり誘って強引に口説いとっただけじゃ。言いたいなら言えばええ。そんなことより、なんでおまえがここにおる?」

「儂も姫と話をしようと思ってな」

 太一郎が口の端を不敵な笑いで歪めた。問いかけの答えになっているようで、なっていない。

 こんな寂れた場所、花の季節ならまだしも、偶然にでも誰かと会うことなどない。まるで、太一郎は自分たちがここに来ることを知っていたかのようだ。

「儂が聞きたいのは、なんで──」

「母親が母親なら、娘も娘。男に見境がないのは同じだな」

 太一郎が拓真の言葉を無視して伊万里に話しかけた。その含みのある太一郎の口ぶりに、伊万里がごくりと息を飲む。

(やはり、この男は何か知っている)

 伊万里は思わず太一郎に詰め寄ろうとし、拓真に慌てて止められた。

 彼女は太一郎に向かって言った。

「私の母は世話役の男と恋仲となり、里を追われた。不義には違わぬが、決して見境なく相手をしていたわけではない」

 太一郎がせせら笑った。その耳障りな笑い声に伊万里は苛々した。

「何がおかしい?!」

「いやいや、幸せな姫だと思ってな。何も知らないとは、本当に幸せなことよ」

 笑いを収め、太一郎が皮肉げに口の端を歪めた。

「おかしいと思わんのか? そもそも、九尾の嫁となる大切な姫の世話を男などにさせるわけがないだろう。おまえの母親は、待ちくたびれ、独り身の寂しさにあちこちで誰彼だれかれかまわず相手をしておったのよ。つまりは行きずり、どこかで適当な男を摘まんだだけよ」

「嘘──、そんなの嘘!!」

「嘘ではない」

 妙にゆったりとした太一郎の言葉が、伊万里の耳にぐりぐりと入ってくる。青ざめながら首を横に振る伊万里に、太一郎は得意げに笑った。

「その証拠に、一人だった。里を追われ、一人寂しくここで死んでいったわ」

「──え?」

 息が止まる。心臓を素手で鷲掴みされた。

 死んだとはどういうことだ。一人とはどういうことだ。

 不義を犯した母親は、それでも、恋仲となった男とどこかで仲睦まじく暮らしているのではないのか。

「そんな、嘘だ──」

 激しく動揺する伊万里を見て、太一郎がくっくっくっと笑い声を漏らした。

「姫などとかしずかれようとも、おまえはどこの誰の子かも分からぬ下賎の娘よ」

「伊万里、聞かんでええ!」

 拓真が唸るように言った。

「どういうことじゃ、太一郎! ここで伊万里の母親が死んだだと?」

月夜つくよが、今の鬼伯きはくが、不義を犯した姫を自由にするわけがなかろう。ここは、姫の始末場じゃ」

「なんでそんなことを知っておる?」

 太一郎が含みのある笑みを無言で返す。拓真は無意識のうちに腰に結び付けられた黒い下緒さげおに手をかけた。

 その隣で、伊万里はやっとのこと立っていた。息が詰まる、上手く呼吸が出来ない。彼女は手に持っていた藤の実を胸の辺りでぎゅっと握りしめた。

 母親はすでに死んでいた。数多あまたの男と関わり、不義もくそもなく、好き勝手に私を生み捨て殺された。

 では、私は一体誰?

 足ががくがくと震えた。絶望と怒りの入り混じった感情が体の奥を蝕み始める。

 寸でで踏みとどまり、太一郎を見る。彼は満足そうな笑みを浮かべて伊万里を見返した。

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